読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

2018年03月19日 | 経営・組織・企業

ティール組織 マネジメントの常識を覆す次

世代型組織の出現
著:フレデリック・ラルー 訳:鈴木立哉 英知出版

 

 期せずしてほぼ時期を同じくして似たような主張の本を読んでしまった。ねらっていたのではなくて偶然である。

 偶然だけれど、やはり今日の「複雑系」的な世の中に適応する組織体としてこれはひとつの答えなんだろうと思う。軍隊でさえそうならばビジネス組織だってそうである。

 

 理想的な組織の行き着く先とは、要するに「自律分散」なのだよな。生命学的あるいは生態学的アプローチから組織を研究するとこれに行き着く。ただし、インターネット論ではわりとはやくからこのことは言われていた。そもそもマーケティングというのが戦争のロジックから敷衍されたことであるのに対し(したがって「ストラテジー」とか「ターゲット」とか、戦争用語が出てくる)、インタ―ネット社会は生態学にアナロジーされやすい。したがって「バズ」とか「エコシステム」とか「オーガニック」とか生態学っぽい引用が好まれる。ホストマシンを持たない「自立分散型」こそインターネットの最大特徴だから、生態学的切り口で組織論を語ると「自立分散」という答えが出てくるのは自然ではある。

 本書でいうところの「進化型組織」というのは自律分散にほかならないのだけれど、本書の面白いところは確信犯的に組織論を進化論風にあてはめてみたところだ。「衝動型組織(徒弟型の世界)」→「順応型組織(官僚的な世界)」→「達成型組織(「マネー・ボール」的な世界)」→「多元型組織(「企業の社会的責任」的な組織)」そして「進化型組織」である。なお、カッコ書きは僕の勝手な主観である。

 とはいってもマルクス論のようにひとつの組織がこのような変遷を遂げるわけではなく、ダーヴィニズムのように、次の組織体によって以前の組織体が淘汰されるわけでもない。この世の中には「衝撃型組織」も「順応型組織」もいまだ存在する。また、著者も認めているように「多元型組織」だった企業が「達成型」に戻ることだってある。

 したがって「進化型」というのはやや誤解が生じるのだが、しかし時代状況、技術背景、環境、人間を支配する価値観その他によって最適とされる組織体が変遷していくというのはその通りだろう。ぶっちゃけ、昭和の価値観で企業を成長させた日本のたたき上げ経営者が、そのままでいまのグローバルビジネス環境や雇用される若者の価値観を斟酌せずに組織経営を行ってもうまくいかないー最大かつ最適なパフォーマンスを発揮はできないだろうとは思う。

 

 「進化型組織」のキーワードは自律分散と全体性ということになるだろうか。全体は部分の乱れなきパフォーマンスの集合であり、部分は全体の維持と発展のためにふるまう。しかし全体をコントロールする人はいない。管理職というものも存在しない。各自が自律して自分の信じる道を判断し、行動している。それなのに全体としてのパフォーマンスはとれており、それどころか明確な全体像ができあがっている。

 これは、各人が「全体像」を共有し、自分が何をすればいいかが「全体像」につながるかを理解しているということだ。しかもその「全体像」はだれか一人が決めたものではなく、みんなの合意形成の中で浮上したものである。

 本当にそんなことができるのだろうか、と思うが、アメリカ海兵隊にまでこの本に書かれているようなことを試行しようとしているということは、ある種の確信がやはりそこにあるんだろうなと思う。

 

 また、本書の指摘としてそうなんだろうなあと思うのは、「順応型組織」にしろ「達成型組織」にしろ、その組織体を維持するために使うエネルギーやコストが、実は生産性の限界や、社員の消耗をいたずらにつくっている、ということだ。たしかに、上司という存在、ヒエラルキー型の意思決定、を機能させるためのシステム、それを維持させるための有形無形のエネルギーは途方もないだろう。浅田次郎の「蒼穹の昴」を読むと中国の科挙と官僚のシステムをみると、国家のGDPの多くがこの行政機構の「維持」のために消耗させられているのではないかと思ったりする。それでいて国家(この場合は清王朝の末期)はひたすら貧していくという大いなる矛盾の道をゆく。

 清王朝の例は大きすぎるとしても、たとえば上司と部下という関係、経営と中間管理職と現場という縦の関係を維持するための不文律、社内政治、ストレスによる社員の摩耗その他のネガティブエネルギーは、本来の生産性、あるいは環境適応性という点からみればマイナスの効果に働いているはず、という本書の指摘はうなづくものがある。

 

 僕の勤務している会社は「順応型」と「達成型」の間くらいかな、なんて思う。腰の重い典型的日本企業だけど、このままじゃいかんと不器用に社内改革に手をつけているといった具合だ。多くの、それなりに図体の大きい日本企業はそんなものなんじゃないかと思う。

 で、仮にこの「進化型組織」が正しいとしたとき、どうやってこれを導入できるのか。これが本書でも後半のテーマになってくるが、なかなか険しい道のりだ。まずその企業全体が仮に「達成型組織」だったとして、本書を読んだある中間管理職が、オレのところは進化型でいこう! と思ってもそれはまず無理である。そりゃそうだろうな。せいぜいが期間を区切った実証実験だろう。この進化型組織をテストすることの諸刃は、かりにこれが成功したとすると既存の組織体をひっぱってきた人達が全員否定されてしまうところにある。

 進化型組織を達成するには、CEOとオーナー(株主)が心替えをするしかない。しかしこれもまた難しい。達成型企業のCEOが、進化型企業のCEOになるには、自分が掌握している権利権限権力その他を手放さなければならないからである。なぜなら、経営層の権利権限権力こそが進化を阻む要素だからだ。これはそうとうの聖人でなければ難しい。オーナーにとっても、そのほうがリターンがよくなる、とあったとしても基本的に実験の領域であり、よほどの背に腹は代えられぬ状況下での抜本的刷新でなければ難しいだろう。

 だから本書でも、せっかく「進化型組織」になったにもかかわらず、CEOの交代やオーナーの横槍により、ふたたび旧来型に戻ってしまった企業の例が出てくる。

 

 それからもうひとつつくづく思うのは、社内政治に汲々としてきたり、人を指図することにカタルシスを感じるような上層部の人は、司馬遼太郎は読んでも、こんな分厚くて重たい本を読むわけないということだ。

 ここらへん企業経営のモチベーションとは何かというあたりも関係してくるけれど、人間本来の欲求が衝撃型組織、達成型組織というものへの誘惑にあるとすれば、進化型組織はそうとうに自制・自浄された倫理的規範の立った人間ということになる。が、そんな人が社内政治に勝って経営層に躍り出るのも稀だろう。その企業に、隕石衝突級かシンゴジラ来襲級のインパクトでもあればまた変わるのかもしれないが、ここで得た知見を実践で試してみるにはまだまだ越えなければならないハードルは多そうだ。

 

 とはいえ、僕も中間管理職。自分自身の戒めにはずいぶんなったような気がする。「あえて口出ししないことこそ上司にとってもっとも試練を要求する」という指摘にごもっとも。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神去なあなあ日常 (ネタバ... | トップ | ある町の高い煙突(ネタバレ) »