読書の記録

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鬼谷子 中国市場最強の策謀術

2023年01月28日 | 哲学・宗教・思想
鬼谷子 中国市場最強の策謀術
 
高橋健太郎
草思社文庫
 
 荘子、孫子、老子、孔子。諸子百家の古典は数あれど、そのあまりの危険な内容に禁断の書とされ、戦後日本においては封印された異端の教え、それが「鬼谷子」である。もはやその存在を知るものはいない幻の書のはずだったがここにその悪魔の術を復活させたのが本書――おお、魁!男塾やキン肉マンのようではないか(1970年代生まれでなければわからないネタ)。しかも本書は民明書房ではないのである!
 
 なんちゃって。いまはテレビドラマ化もアニメ化もしているようで、Wikipeidaにもしっかり「鬼谷子」の項目は存在した。
 とはいえ「鬼谷子」というもの、ぼくは書店の草思社文庫の棚を何気に眺めていて初めて知った次第である。鬼谷子という字面からして怪しいにおいがぷんぷんするではないか。おにたにし? いや、これは「きこくし」とよむそうな。
 
 言うならば、中国流弁論術だ。春秋戦国時代の中国には諸国をさすらうフリーの論客がたくさん存在した。司馬遷の史記列伝なんかにはそういう食客みたいな人がたくさん登場する。彼らのことを「縦横家」と称するそうだ。読んで字の如くだが、いわば流しの参謀である。現代ならば、いろんな企業の経営層を渡り歩いてるCXOみたいなものだろうか。
 春秋戦国時代というのは、人の命もなかなかに軽くて、ちょっとしたミスをしたり、あるいは恨みでも買おうものなら、一族郎党まで残酷な処刑の憂き目にあう時代だった。史記や三国志なんかでもその手のエピソードはいっぱいある。そういう剣呑な世の中にあって、さすらいの縦横家は、その舌先三寸だけでサバイバルしてきた。この「鬼谷子」はサバイバル弁論術なのである。
 
 その弁論術の神髄を一言で済ませると「陰陽」につきそうだ。
 すべての行為・思想・現象・世界は「陰陽」である。相対と循環のエネルギーで成り立つ。
 こう書くとオカルトだが、実は中国ではこの思考形式はかなり一般的に人々の心にセットされているようだ。たとえば近代中国における大規模水利開発プロジェクトのことを「南水北調」(南の水で北を潤わせる)と表現したり、習近平が唱える中国の高速大量データインフラ網開発を「東数西算」(都市沿岸部のDX拡大を内陸部のデータセンターで支えていく)と言ったりする。これらは大陸の構造を陰陽の流れに見立てている。ポイントは単なる二元論ではなくて、そこに原因と結果とか、右からきたものを左に受け流す、のような流れの因果を示していることだ。習近平がアメリカの講演で語ったセリフは「我想更近距离地了解中国,也让更多外国人了解更加真实的中国」(中国は世界に学ばなければならない。また、世界は中国に学ばなければならない)。これも陰陽のレトリックと言えよう。ほかにも中国の有名な格言「上有政策下有対策(お上から無理難題な政策があれば、下々はなんらかの対策ですりぬけてみせる)」は現在でも普通に使われるというが、これなんかも単なる二項比較ではなく、合気道のような円の受け流しをする庶民のしたたかさを彷彿させる。
 
 鬼谷子の弁論術における陰陽としては、まず「話すこと」と「話さないこと」が陰陽として等価に扱われている。
 弁論術というと喋り方ばかりフォーカスされるが、実は話さない時間、話さない手間、話さない手段という「話さない」ときのコントロールが「話す」のと同じくらい重要なのである。
 まずは「口を開いて話す」ことを効果的になすためには、下準備としての「話さない時間」に何をするか、というのが極めて重要なのである。相手のことを良く調べ、相手は何を本心で思い、何をコンプレックスにしているのかを徹底して考え、最適なタイミングで効果的な一言を話す。そうすれば効果的な弁論になる。つまり、話さないときから弁論の勝負は始まっている。このあたりは孫子の兵法あたりにも通じるものがある。そして話したあとはさっと「話さない」モードに引き返す。
 また、こちらから話すときは単に一方的に説得するのではなく、相手の発言を引き出すものである。また、その引き出した発言内容から相手を与する手がかりを得てさらにその話題をコントロールしていく。その手がかりは必ずしも明瞭で声高に現れるものではなく、むしろ明瞭の裏にある不明瞭で多くを語らない部分、大きな物語の中にちらとみえる例外の小さな物語に真意の芽があったりする。これらはみんな陰陽だ。表に見えるもの「陽」には必ずなにかの「陰」が支えている。そういうところを捕まえるのが鬼谷子である。
 つまり鬼谷子によれば、弁論とは一方通行ではなく、陰陽を用いて相手との相互作用をどうコントロールするか、という世界なのだ。そこにおいて弁論における「陰」つまり「話さない」ことの重みは大変重要なのである。言われてみれば、能ある鷹は爪を隠す。秘すれば花。沈黙は金雄弁は銀。風林火山。「話さない」ことをコントロールする諺や格言は数多い。
 
 まあ、ディベート術や交渉術のノウハウがいくらでも明らかになっている現代においては、これらのことは当たり前な気もする。言うならば、論客とか弁が立つ人というのは、天性のセンスのようでその場をこなしているように見えるが、実は準備が周到なのだというなのだろう。プレゼンテーションを上手にこなすには、パワーポイントのスライドづくりにぎりぎりまで時間をかけるよりは、どこかのタイミングでしゃべりの練習、つまりリハーサルをたくさんやったほうがいい、という話をどこかで聞いたことがある。それと同じかもしれない。

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