読書の記録

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ナラティヴ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法

2020年06月03日 | 生き方・育て方・教え方
ナラティヴ・ソーシャルワーク “<支援>しない支援”の方法

荒井浩道
新泉社


 ここ数年前ほどから「ナラティブ」という言葉を聞くようになった。もともとは文化人類学あたりからの用語のような気もするが、カウンセリングとかコミュニケーション論においても注目されている。

 日本語でいうと「物語」ということになるが、「ストーリー」と違うところは、「ナラティブ」にはとつとつとしたとりとめもない口述というニュアンスがある。つまり再編集される前の、思いつくまま気のままくに口から出てくる語り。これが「ナラティブ」である。

 なぜ、このナラティブが注目されるかというと、これがもっとも語り手=対象のオリジナルに近いからである。考えを整理してもらって上でしゃべってもらったり、あるいは文章に書いてもらったり、あるいは聞き手が刈り込んで編集してしまったものは、もはやオリジナルではない。後知恵やバイアスや恣意的なものが入り込んでくる。そうなってしまうと、そもそも対象が持っていた真理はもう見えなくなってしまうのである。
 このとつとつとした問わず語りを受けることで、対象者が内包する世界観の真理に迫るのを「ナラティブ・アプローチ」という。

 「ナラティブ・アプローチ」に似たようなものとして、カウンセリングの現場では「傾聴」というものがあった。とにかく口をはさまずに相手の言うことに耳をかたむけるのである。早急なアドバイスなどはせず、真摯に話をきく。これが悩める対象者にとってはもっとも効果的とされる。これが転じて会社での上司部下のコミュニケーションとか、コーチングの世界でも「傾聴」は導入されることになった。
 本書によれば、「傾聴」と「ナラティブ・アプローチ」はやや異なるようだ。「傾聴」がひたすら話をきくことで対象者の溜飲を下げることを目的とするのに対し、「ナラティブ・アプローチ」はその語りの中から解決の糸口を見つけるのである。つまり「ナラティブ・アプローチ」のほうが真理解明に踏み込むということになる。
 ビジネス現場で「傾聴」が援用できるのならば「ナラティブ・アプローチ」も援用できそうである。僕が本書を手に取った動機はこれである。
 

 カウンセリングにおいて「ナラティブ・アプローチ」で解決の糸口を見つけるにあたって、本書にはいくつかキーワードがある。「社会構成主義」「無知の姿勢」「分厚い語り」。そして「『こだわっている物語』と『例外の物語』」。

 「社会構成主義」というのは、「われわれが日常生活を送るうえで「常識」だと思っている事柄は、実は社会的に作られている」という考えである。学校に行った方がよいとか、贅沢を言ってはいけない、というのはこれすべて外からの決めつけの価値観なのである。だから、カウンセリングで登校拒否者を再び通学させるために、「登校拒否」を「問題」として扱ってはいけない。登校拒否するその人をまずはそれでよい、とする。「AをAのままでよい」とする姿勢なのである。したがって、どうやってまずは学校に行こうかと話をもちかけるのはNGである。これは「AをBにする」行為だからだ。

 しかし、それで登校拒否者が再び通学するようになるのだろうか。登校拒否を問題にしないのならば、このままずっと登校拒否を続けるだけではないのか。
 ここからが面白い。登校拒否をしながら過ごす彼の生活に対してまずはカウンセラーはなんの解決手法ももちあわせていないつもりで対峙する。「無知の姿勢」である。一切の先入観・偏見・先行知識・専門知識を無用とする。そうすることで彼は語りだす。「厚い語り」を引き出すのだ。そういう彼の語りの中から「『こだわっている物語』と『例外の物語』」を見つけ出す。

 興味深いことに、当事者が登校拒否や介護虐待のようなある種の「極端」な行動に出るときは、当人が何か「強くこだわっている物語」に起因していることが多い。そのこだわっている物語を融解させていくことがナラティブ・アプローチの真骨頂だ。こだわっている物語というのは、当事者を自縄自縛にするし、言霊としての影響力、あるいは予言の自己成就性にでも通じるような束縛力がある。その肥大化したこだわっている物語からわずかな「例外」の兆しをみつける。この「例外の物語」を育て、本人にもそれとなく自覚させ、彼にはこだわりも例外もある「複雑な物語」がある、という風にマインドセットをしていく。そうすると、最終的な「極端」な行動がなくなっていく(こともある)。
 これはなかなかの離れ業というか名人芸で、本書で紹介されるエピソードは名探偵が困難な事態を鮮やかに解決していくかのような目覚ましさがある。そんなにうまくいくのかいなと思わないでもないが(うまくいった事例を載せているのだろうが)、勉強になる。

 このナラティブ・アプローチに通底しているのは「AをAのままでよい」とする姿勢だ。「Aのままでいるのはよくない」という前提をまず無しにするし、「AをBにする」という態度は排除される。「AをBにする方法を伝授する」という権威姿勢も厳禁である。「AをAのままでよい」としながら、何がAをたらしめているのか、を「分厚く」語らせ、そこから彼を支配している「こだわっている物語」を見抜くのである。
 
 
 さて。僕の仕事場である。

 思い起こすと、「AをBにする」ことの連続であった。新人教育とはそういうものであったし、上司やクライアントから怒られるときは「Aじゃない。Bだ」ということであった。「Aのままでいなさい」「Aで正解です」ということは本当に稀だった。そして世の中に出る商品やサービスはのほとんどみんな「AをBにする」といううたい文句で出来ている。
 世の中はすべて「AをBにする」力学で動いているのだ。

 そんなとき、たまたま読んだ文化人類学の本で、文化人類学の真骨頂は絶対に観察相手を評価したり変容を迫ろうとしてはいけない。「AをAのまま尊重し、そこに価値を見出すのが文化人類学の基本中の基本である、ということが記され、僕は目鱗だった。この分野に通じている人からみれば当たりまえのテーゼだが、当時の僕にとってこれはコペルニクス的転回だったのである。それ以来、文化人類学や民俗学に興味が出ていくつか本を読んでみたりした。

 しかし、この「AをAのままでよい」というこの思想をビジネスの現場に応用するとはどういうことか。それをずっと考えていた。そして管理職になったときにこれを部下や新人の指導・育成にあてはめることができるかどうか試みるにようになった。「AをBにする」のが指導ならば、「AをAのままでよい」とする指導は本当にあり得るのか。当然Bの人には「BをBのままでよい」とすることになる。つまり、この世の中にはAもBも正解となる。この世の中は多正解でできている。そんなことが職場で通用するのかどうか。そんな試行錯誤による部下との関わりを数年おこなっているのである。。

 結論からいうとその効果はさまざまだ。他部署でまったく評価も成果もあげられなかった人がいい感じで活躍するようなこともあれば、まったく成長なしにマンネリなままの人もいる。すごく利益をあげることもあれば、まるでダメなときもある。
 ただ、やってみて思うのは、「AをAのままでよいとする」「BをBのままでよいとする」マネジメントというのは、とてもヒューマン・ベースな考え方ということだ。これの対義語はタスク・ベースである。つくづく思うのは世の中はタスクベースでまわっている、ということを感じる。そりゃそうだろう。担当者が変わるたびにアウトプットのクオリティや方向性が変わってしまうようでは発注者側は納得できない。組織一岩となって一定水準のものを出し続けるにはヒューマン・ベースだけでは難しいところがある。
 それでもぼくがヒューマン・ベースにこだわっているのは、自分自身を顧みて、タスクベースの硬直化がかえってアウトプットのクオリティを下げることが多々あったことを経験値的に知っているからだ。どうしてもそのタスクが性にあわない社員もたくさんいたし、しかしそれが担当である以上は役務をまぬがれるわけにはいかない。とうぜんその姿は幸福ではない。一方で、まったく冴えなかった人が別の仕事でめきめき頭角をあらわす、ということは実際によくあったし、こういうヒューマン・ベースの力をなんとかマネジメントできないか、というのは僕の管理職上の野望みたいなものであった。

 ところが人事のほうから少々問題のあるやつはあいつのところにいれてやるといい、という変なルートができてしまったフシがある。引き受け手のいない人材がこちらにまわってくるのだ。
 実際のところ、「問題」のある社員を成果に導くようにするというのはやはりけっこう骨が折れる。頭を使う。今まで何人か「問題」のある社員を預かってきた。前の上司からの評価が最低だった人なんかがやってくる。いちおう直属上司としては彼の評価が上がるように仕事をさせていかなければならない。
 ただ、本当に無能という人はあまりいなくて(たまにいるが)、その多くは、前の上司とそりが合わない、与えられている仕事の内容がミスマッチングだったというのがほとんどだったことも確かなのである。「社会構成主義」風にいうと、彼の「問題」はすべて外部がつくりあげたものだったのだ。
  部下の立場からすると「心理的安全性」がある、ということになるらしい。そこそこ多くの部下からこのことを言われるので、それなりに現象として現れているのだろう。

 最近もっとも気をつかうのが新入社員だ。毎年配属されるわけではないけれど、年々彼らの正体はわからなくなる。新入社員の奇行は例年Webなどでネタになるが、最近の彼らをみていると「AをAのまま生きてきた」人が増えてきた印象である。ご同慶の至りではあるが、これがいわゆるZ世代というやつか。この「AをAのまま生きてきた人」をそれさえも包摂してどう「成果」や「成長」につなげていくか。これはこれでまた難題である。

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