読書の記録

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風土

2019年10月20日 | 哲学・宗教・思想

風土

和辻哲郎
岩波文庫

 

 台風19号はやはりすさまじかった。わが千葉県、実は風水害に弱いのは歴史的には明らかだったのだが、近年の土木・治水・防災技術の向上によっていささかそのことが忘れられていたように思う。寺田寅彦の名言「災害は忘れた頃にやってくる」はまことにもってその通りと言うしかない。

 

 一方、今回の台風は日本列島到達前から首都圏直撃をもってニュースとされた。しかし台風が過ぎ去って蓋を開けてみれば、氾濫・決壊を起こした河川のほとんどが首都圏の外の川だ。千曲川、阿武隈川、久慈川、那珂川などなど。

 東京の治水能力が凄いというよりは、それだけ東京の治水に金をかけているということである。首都圏外郭放水路も環七下調節池も荒川放水路も莫大な予算と時間をかけて整備されたものだ。人と重要機能が集まる首都だからこそ、防災についても他所を優先させてつくりあげるという理屈は頭ではわかっているが、死者行方不明者がみんな都外の人間というのをみるとやはり納得しがたい感情があふれてくる。

 これで東京への人口流入が過多だから地方へ分散させろとか、地方創生こそ日本の将来とか唱えるのは白々しすぎる。


 本来、日本は「台風と大雪」がやってくる世界でも珍しい風土なのだと看破したのは和辻哲郎だ。地震と火山も日本列島の特徴といえるが、「台風と大雪」は定期的にやってくる。毎年必ずやってくる。したがって日本列島に住む人間は、古来から必然的に「台風と大雪」がありきの生活スタイルになっていく。それは世界観や行動様式にまで影響する。

 もちろん台風と大雪だけではない。太平洋の西側隅っこにあり、ユーラシア大陸の最も東側すなわち極東にある島国という地勢的条件が繰り出すさまざまな条件ー温度、湿度、風、雨、日射があり、それらがつくりあげる植生、動物の生態、土壌があり、そこに人間は生活する。自然との対峙・共生の中で人間は折り合いをつけて生きていく。その過程で家族や社会形態の在り方、道徳や倫理、芸術的感性や宗教へのとらえ方が形成されていく。風土の数だけ人間の様式はあるといってよい。

 こういう観点からの学問は、現代では理学や人類学の分野がこれに相当する。事例やデータを集めて分類と統合を繰り返しながら系統を観ていく。

 

 これに比べると昭和初期にまとめられた和辻の「風土」は主観的であり(井上光貞氏による巻末解説では「天才的な芸術的直観によるもの」と表現されている)、アカデミズムな手続きによるものではない。その主観も、当時の彼の洋行経験と、当時にあって入手できる情報を基にしての直観によるものだから、今日における世界中の情報が調達できるような状況からみればいささか見当違いの言及もある。トンデモ本と言いたくなるような箇所もある。

 風土というものがその地に住む人間に与える世界観や生活様式の決定力の強さは間違いないと思うが、和辻風土論が現在においてどのくらい正鵠を得ているのかは議論があるだろう。一般においては、彼の「風土」は地理学というよりは哲学や思想として受容されている。思想としてここから見られるのは、今で言うなら多様性だ。その多様性は風土に準拠しているものである、つまり風土の数だけ正解がある。

 

 和辻は世界の風土を「モンスーン型風土」「沙漠型風土」「牧場型風土」と3分類してみせた。

 「モンスーン型風土」をつくりあげるもとになるのは「高湿」である。夏のむわっとした湿度、冬のじめっとした湿度である。高湿がつくる「モンスーン型風土」にあてはまるのが、東はインド・中国(本書では「シナ」。上海を含む主に揚子江領域から南のほうを想定しているようだ)・南洋、そして日本である。彼によると「モンスーン型風土」に生きる人間は、モノゴトに対して「受容的・忍従的」になるという。

 和辻風土論では、モンスーン型は「受容的・忍従的」と指摘したように、他の風土においても、沙漠型は「服従的・戦闘的」、牧場型は「支配的・合理的」と分類される。多様性の思想という観点からみれば、この地球上においてどれが正解かどれが間違いということはないということだ。

 また、モンスーン型の人間は、本質的には牧場型の人間にはなれない、とする。我々はどう突っ込まれても欧米にはなれないのである。ただし自己を相対的に見直すことによって、モンスーン型の基礎を自覚した上で、牧場型を応用することはできる。おのれを知り、他者を知ることで多様性は維持できる。そういうことは「風土」ですでに指摘されているのである。

 

 で、和辻哲郎は我が日本をどう評しているか。「台風と大雪」にみまわれるのが日本の特徴であるとして、その結果、西洋と比して日本人は「公共的なるものへの無関心を伴った忍従が発達」したと和辻は言う。(ここに至るまでのロジックはなかなか面白いだが長いので省略する)。

 日本では、民衆の間に(公共人としての義務としての)関心が存しない。そうして政治はただ支配欲に動く人の専門の職業に化した。(中略)公共的なるものを「よそのもの」として感じていること、従って経済制度の変革というごとき公共的な問題に衷心よりの関心を持たないこと、関心はただその「家」の内部の生活をより豊富にし得ることにのみかかっている(第三章「モンスーン的風土の特殊形態」ーー日本の珍しさ より)

 驚くことにこの指摘が昭和4年である。


 話を台風19号に戻す。台風19号の前に、千葉県は台風17号に見舞われた。そして日本列島全体でみれば、近年の台風被害の増加は明らかである。地球温暖化のせいで台風の勢力が高まっているとも言われている。

 つまり、台風19号による被災は例外的な災害ではなく、今後も毎年、日本は見舞われるということだ。日本は「台風と大雪」がやってくる風土なのである。外郭放水路や貯水池の整備は金と技術にものを言わせた力技の防災だ(和辻論的にいえば「牧場型」と言えるだろう)。しかし日本が本来的に高湿にみまわれたモンスーン型であるとすれば、しなやかな「受容と忍従」を備えた防災の在り方も一方で考えておかねばと思うのである。



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