読書の記録

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現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門

2020年06月11日 | 哲学・宗教・思想
現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門
 
ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン 監訳:伊藤守
ディスカヴァー・トゥエンティワン
 
 
 「社会構成主義」とは、われわれが常識と思っている認識や価値観や美意識はすべて外部からの単なる見立てに過ぎない、という思想である。
 いわば、絶対なものはこの世に存在せず、すべては相対的に位置づけられている、ということだ。近代哲学の主流といっていいかもしれない。
 
 改めて「社会構成主義」をおさらいしておこうと思って読んだのが本書である。
 この「外部」というのは、より具体的に言えば「他者」である。すべての「常識」は、「自分」と「他者」の会話から成される「そういうことにしておこう」という決め事なのである。したがって、「自分」や「他者」が属しているコミュニティによって、「常識」は異なる。
 
 
 たとえば、日本というコミュニティでは虹の色は7色というのが「常識」だが、アメリカでは6色とみなすのが「常識」である。ちなみにアフリカのある部族では8色とみなすらしいし、別の部族では2色とみなすそうだ。
 虹の色は実際はスペクトルによるグラデーションだ。どこでどう色を区切るかは、そのコミュニティの「約束事」である。かつての近代以前の日本というコミュニティでは青と緑の境界はなく「あお」とみなしていたそうだ。
 
 もっとも社会構成主義では、「スペクトルによるグラデーション」という科学的見解もまた、「一コミュニティの中での見解に過ぎない」とみなす。科学的見解もまた一解釈でしかない。“科学的見解が全てに勝る真理である”という見立てを持つ世界は、長い歴史と広い地理の時空間における人間社会史の中では、ごく一部分の出来事なのだ。
 
 とはいうもの、この社会構成主義でさえ、みずからの主義そのものを「そういう見立てに過ぎない」という留保条件下に置く。この世はどこまでも相対的なのである。
 
 
 ここまでくると、詭弁というかうさん臭さもまじってくる気もするが、その真意は「正解は一つではない」ということにある。
 虹の色は7色が正解で、8色も6色も2色も間違いというのは暴論である。虹の色はグラデーションが正解なのであって7色も8色も6色も2色も間違いなのだ、というこれもダメなのである。
 それぞれのコミュニティによって「グラデーション」「8色」「7色」「6色」「2色」はいずれも正しく、誰も否定できない。この世の中は「多正解」なのである。アフリカの部族が虹の色を2色だとみなしているのならば、それを認めるのが社会構成主義だ。
 つまり、社会構成主義とは無限抱擁である。
 
 なお、人種や部族によって虹の色数が異なるのは、瞳の虹彩が持つ色の感度の敏感さが異なるからという説もある。よって、日本人はアメリカ人よりも色彩に繊細なのだ、というロジックを導き出したくなるむきもあるが、この思想は要注意だ。下手をすると優生思想の発想になる。たくさん色が識別できるから偉い、というのは狭いコミュニティの「見立て」に過ぎないのである。
 
 
 
 で、話はぐぐっと狭くなるのだが。この「狭いコミュニティ」が、それこそ会社とかになると、「会社の常識、世間の非常識」という話になって、その例は枚挙にいとまがなくなる。
 さらにぐぐっとせばまると、人間2人のあいだの会話でさえも、自分が思っているような解釈によるコトバ使いと、相手が思っているような解釈のコトバ使いが微妙に(あるいはまったく)ズレていることは非常に多い。コトバの誤解をめぐるトラブルは誰にでも経験がある。それは二者それぞれが属しているコミュニティが少しずつ違うからだ。同じ会社の仲間だと思っていても、それぞれ出身地、出身校、家庭で接する家族が異なれば、二者の頭にある言語認識も変わってくるだろう。
 これを突き詰めると、「他人は誰でも自分とはコトバの解釈がずれている」ということになる。親子のあいだでも、夫婦同士でも、親友同士でも、コトバの解釈はずれている。みんなそれぞれ自分の信じる虹の色の数が異なるのである。
 
 しかし、ずれているからといって片方のコトバの解釈が正解で、他方が間違いということにはならない。それぞれが「常識」と信じる価値観に依存していて、どれが正解でどれが間違いというのを超越的な立場で判定することはできないからだ。
 
 では、このとき、われわれが依存しているその価値観はどこから来たのか。
 それさえも、原体験をたどると、他者との会話から生まれている。親から教えられてきたものなのかもしれないし、子ども時代の友人付き合いの中で身に着けた感覚かもしれない。
 
 
 
 さて。分断の時代と言われている。ましてコロナによって、さまざまな分断線が生じている。
 
 この期に及んで多正解の世界なんて言ってると実社会であっという間に身ぐるみはがされてしまいそうな勢いだ。
 こういう分断のご時世では、「本当かどうかはともかく”きっとそうに違いない。むしろそうであってくれたほうがスッキリする”」という見解が、むしろネガティブな領域で走りやすい。これは非常時における人のサバイバル本能のようなものだ。差別や偏見は言うに及ばず、見込み捜査や、ある種魔女狩りのようないけにえ探しが横行しやすい。あー、この人の中ではそれが真実だと本当にそう思っているんだろうなあー と言いたくなるような出来事が日本でも世界でもあちこちで起こっている。
 
 いまは非常時であり、人間の本性が出やすいだろう。そもそも世界というのは不条理に満ちているし公平なんかではないが、こういうときはいつも以上に不条理や不公平に思えるものが横行しやすい。
 なぜなら、その不条理や不公平を申し出た人、しかけた人は、そこに自分の生存がかかっていることが多いからだ。他人のことより自分のこと、という傾向が強くなればなるほど、共通の分かち合える価値観は少なくなっていく。つまり、傍目からみれば自分勝手に見えてくる。しかし本人としてはまず自分の生存を確保しなければならない。要するに利己的な行動をとらざるを得なくなる。
 集団としては利他的な行動をとったほうが、その集団の生存率は高いとされているが、それはあくまで集団の生存であって、個人の生存率の話は別だ。あちこちで利己的な行動者が増える。世の中全体としては不条理や不公平が蔓延しているように見える。
 
 各々が利己的な行動をとってしまうのは、生存がかかっている以上いたしかたない。しかし、自分がそう思うからといって他人も同様のことを思うはずだ、という錯覚だけは気をつけたほうがよい。自分のこの言動は他人からみると自分勝手に見えるだろうなという自戒を持っておくことは、いらぬトラブルを回避するひとつの術だろう。なぜなら、いらぬ利己的行動は、結果的に自分の生存率を低減させるリスクがあるからだ。自分では分があるつもりの行動をして破滅したり、社会的事件になってしまったりする事例が後を絶たない。
 
 自分の「常識」は社会の「常識」ではないし、そもそも社会全般に通用する「常識」なんてのはないのが今日である。自分は虹の色が9色見えることは自覚と自信を持っていいが、他人も9色見えるはず、あるいは9色見えないなんてバカじゃないの? と思いこんでしまうことだけはゆめゆめ控えたい。
 

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