読書の記録

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21Lessons  21世紀の人類のための21の思考

2020年05月25日 | 哲学・宗教・思想
21Lessons  21世紀の人類のための21の思考
 
ユヴァル・ノア・ハラリ 訳:柴田裕之
河出書房新社
 
 
 我思う故に我あり。我々を動かしているのは「心」である。その「心」とは厳密には「脳」である。宗教もプロパガンダもコマーシャリズムも、アフターデジタル世界のテクノロジーも、我々の「脳」をコントロールしようとする。
 それはあたかも、ある種のウィルスが蟻や蜂にとりついて脳を操作し、通常の彼らならばありえないような行動をおこさせるようなものだ。(ゾンビアリで検索すると出てくる)。
 
 "スマートフォンに目が釘付けになったまま通りを歩き回るゾンビたちを見たことがあるだろう。あなたは彼らがテクノロジーを支配していると思うだろうか? それともテクノロジーが彼らを支配しているのか?"(第19章「教育」より)
 
 著者の出世作「サピエンス全史」によれば、サピエンスの歴史とはサピエンスの「脳」に宿った認識の歴史でもあった。著者はそれを「虚構」と表現した。「虚構」の認識こそが、ホモサピエンスの発達と進歩と混沌と殺戮の歴史となったのである。そしてこの虚構を追い求めてホモサピエンスは未来まで止まらない。止まらないのではない。止められない。暴走機関車のようにAIとバイオテクノロジーは突き進み、それはホモサピエンスにより強烈な虚構世界を提供する。それを拒否することはなかなかに難しい。言うならば、われわれ人間は、虚構すなわちこの世界を「物語」というアルゴリズムで理解し、斟酌し、意欲にするプログラムがプリインストールされているようなものなのである。フェイクニュースは神代の時代からあった。我々はフェイクニュースを信じたくなるメカニズムをそもそも持っているのである。
 
 で、あるならば。少しでもそういった脳への支配から覚醒するにはどうすればいいか。脱・物語に目覚めるにはどうすればいいか。
 
 
 この本は21の章に分かれているが、どの章から読んでいってもよいというわけではなく、第1章から順序だてて読むことが前提となっている。その多くの章は、人類史の中で蓄積された虚構、現代において肥大化した虚構を次々と述べていく。イデオロギーやアイデンティティや神や正義や真実をすべて都合のいい作り事として断罪していく。ハラリはイスラエル人だが、頑強で知られるユダヤ教の戒律やイスラエルのナショナリズムも根拠のないものとしてばさばさ切っていく。
 
 こういった章の合間合間に、内省を促す章がはさまってくる。第12章「謙虚さ」第15章「無知」第19章「教育」などがそうである。
 ここで一貫しているのは“われわれは何もわかっていない”ということだ。この"無知の知”こそが唯一わが身を破滅の一本道から逃れる術なのである。
 
 そして第20章「意味」。おそらく全21章のクライマックスはこの第20章であろう。分量も他の章に比べて多く、ここで著者は「人生は物語ではない」と断ずる。宗教もイデオロギーもナショナリズムもコマーシャリズムも自分の人生を拓いてはくれない。自分でない「誰か」が都合のよいようにしているだけである。人生の意味は何のよすがも求めずに、自分自身で受け入れるしかない。誰かの言質でも自己啓発書でもなく。意味は自分にしかない。真に信じるのは自分の肌感覚である。
 
 最後の第21章「瞑想」。この最終章は他の20章と趣がちがう。著者ハラリの自分語りである。この虚構にみちた意味などない世界で、自分を見失わない鍛錬として著者は「瞑想」を習慣化した。
 
 僕はここで安田登著の「あわいの力」を思い出す。能楽のシテ役者が書いたこの本、僕にコペルニクス的転回をせまった衝撃的な本であったが、彼は「心」とは人間によって事後的に発明された概念でしかないと喝破した。「心」というものが発明家される前は、皮膚の感触こそがメンタルやモチベーションをつくる人間の力であった。第21章の「瞑想」では鼻を通り抜けていく呼吸をひたすら意識する瞑想が出てくるが、これは鼻腔の皮膚感覚への集中である。現代のテクノロジー環境で、皮膚感覚こそ後景に退いたものはないのではないか。とくに先進国。万事室内空調は快適であり、衣服の風合いはおだやかで、ユニバーサルデザインは馴染みがよく、食事は味覚ものどごしもなめらかだ。我々がこの世界を認識しアイデンティティを確認するのはいまや皮膚ではなく、文字や影像などメディアの形をとって目や耳から「脳」への直接介入によってである。「脳」への直接介入が肥大する一方で、皮膚が感じるシグナルは弱まっていく一方である。
 「脳」への直接介入によって我々に宿されたもの、つまり「心」というシロモノが実は事後的に発明された概念でしかなく、であるならば「心」以前の時代にホモサピエンスの情動を司っていたのはまさに皮膚感覚に他ならない。皮膚を通らない情報で脳に直接作用する物語は、「心」を肥大化させるだけである。
 「謙虚」であり「無知」な我々は皮膚を通じて「学ぶ」しかないのだ。そうして皮膚を通してつかんだ「意味」だけが、自分の人生を見失わさせないものになるということか。
 

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