読書の記録

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暇と退屈の倫理学 増補新版

2023年02月18日 | 哲学・宗教・思想
暇と退屈の倫理学 増補新版
 
國分功一郎
太田出版
 
 
 おいおい。今頃かよと言われてしまいそう。
 そのうち読んでみよう、とは確かに思っていたのだ。朝日出版社から出た初版が書店で平積みされたときは。
 ところが、この「暇と退屈の倫理学」、職場の先輩いわく“ひまりん”、あれよあれよと話題になった。そのうちに増補新版なるものが太田出版から出て、つい先ごろは文庫本化されたものも新潮社から出た。気が付けば一干支まわる年月が過ぎていた。著者はいまや脂ののった現代の論客として名を馳せている。本書登場のインパクトを感じるには完全にタイミングを逸してしまった。要するに読む気を無くしてしまっていたのである。
 
 そんな“ひまりん”、先日ようやく読んでみた。古本で投げ売りされていたのを発見して、これも僥倖と手にしたのである。太田出版の「増補新版」だった。
 
 もちろん面白かった。これからすげえ話してやるぜという空気を醸し出すもったいぶった導入は、水村美苗「日本語が亡びる時」や、福岡伸一「動的平衡」を思い出させた。傑作を予感させるイントロだ。マルクスやハイデッガーを捕まえてこいつは勘違いしている呼ばわりするのは爽快だし、哲学の名に恥じず何度も問いと答えを確認しながら慎重に論を進めているのに、冒頭まえがきで示された中島みゆきの「地上の星」の違和感の正体が何だったのかにけっきょく言及しないのも確信犯的で愉快だ。「倫理学」を名乗るからには「ではどうすればいいか」を示さなければならないと自ら律しているのに感心したが、「本書は通読しなければ意味がない」と、だいぶ通読しなければならない終盤近いところで宣言するところなど、なかなか破調で痛快だ。
 
 いずれにしても本書はすでにあちこちで言及もされている。なので今回は、増補新版部分で指摘されていることについて思ったことをここに記してみる。
 
 
 退屈しやすい人と退屈しにくい人がいる。「飽きっぽい人」と「はまりやすい人」と言ってもよい。
 本書の増補新版部分によると、その個性差は幼少期に味わった「サリエンシー」、すなわち新奇な刺激の量によって決定するらしい。毎日めまぐるしく新しい人に出会ったり、住む環境が変わったり、事件や事故が立て続けにおこるような幼少時代を送った人は退屈センサーが敏感になるという。そのからくりはある種のPTSDみたいな作用らしい。次々と色々なことがおこることを脳がスタンダード視するようになる。なので平静な状態が続くと、持て余した脳が刺激を要求するのだ。幼少期の記憶で防備された脳が自己免疫疾患アレルギーを起こすようものらしい。逆に幼少期に低刺激な毎日を過ごすと、その人は退屈を感じにくくなるそうだ。細部の違いに関心を寄せやすくなる。幼少期のこのような違いは、兄弟姉妹の数、家庭の中の雰囲気、家の周辺の環境、家が自営かどうか、来客の出入り頻度、転勤転校はどのくらいあったか、などなど、このあたりの変数はいくらでも考えられる。
 こういった幼少期の経験が、どれだけ時間が経ったかという脳の感覚知をつくっていく。そしてそれは「退屈」を感じやすいかどうかとも密接に関係する。磯野家のタラちゃんなんかはそうとう退屈しやすい体質になってしまうのではないか。反対に塔の中のラプンツェルは退屈しにくいタイプに体質になるであろう。
 
 ということは、傍からみて、この人ホント飽きっぽいなとか、じっとできないなとか、イラチだな、という人は、もしかするとなかなか大変な幼少期を送っていたのかもしれない。逆に、辛抱強くずっと集中できる人、待機ができる人は、平穏な幼少時を送ることができたのかもしれない。
 
 また、最近は内向的な人と外向的な人の違いなんかも注目されている。内向的な人が、外向的な人が居心地よいと感じる環境に引きずり出されると、情報過多になってストレスフルになる。反対に外向的な人が、内向的な人にとって理想的な環境に連れ込まれると刺激が足りな過ぎて不安になってくる。
 本人がいちばん落ち着く内外のやりとり密度というものが、内向的タイプと外向的タイプで異なるというのは、退屈に強い弱いとも連動した話のような気がする。外向的な人は、幼少期に刺激の強い毎日を送っていた可能性があり、脳がそれ用にセットアップされているのだ。
 
 そもそも、現代人は昔の人に比べて飽きっぽくなったのかもしれない。1日に出会う人も、右から左へ通り過ぎる情報の量も、眼前で展開される街の光景も、現代と昔とでは多いに異なるだろう。本書によれば人間の「一瞬」とは0.056秒らしいが、三倍速で動画を早送りする現代の若者は、脳の情報処理速度がもっと進化している可能性がある。彼らの「一瞬」はもっと短いかもしれない。我々だって黎明期の動画はかくかくして見えるではないか。たしかに人間にとって退屈は宿命かもしれないが、令和の若者は人類史上もっとも飽きっぽい可能性がある。

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