読書の記録

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京大変人講座

2019年05月10日 | 哲学・宗教・思想

京大変人講座

酒井敏・小木曽哲 他
三笠書房

 

 「京大的アホがなぜ必要か」がたいへん面白かったのでこちらも読んでみた。もっともタイトルの印象からして「最後の秘境 東京藝大」みたいな変人賛歌あるいは変人列伝を想像していたのだが、そうではなくて、京大のいろいろな分野の教授がそれぞれの専門にある「常識にとらわれないものの見方」の話をするのだった。ドーナツの穴を食べる方法の本に近いかもしれない。こういうのは関西のお家芸なんだなとつくづく思う。

 

 興味深かったのは、①サービス経営学からみる「なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか」、②法哲学からみる「安心、安全が人類を滅ぼす」、③システム工学からみる「なぜ遠足のおやつは300円以内なのか」。

 ①は高級鮨屋ほど板前は無愛想でメニューも不親切でしかも高額なのに客はありがたがるというパラドクスを、「サービス」の観点から考察したものだ。「サービス」というのは「価値あるものを受け取った」と思う気持ちである。本書によると、そこにはなんと「人間関係の承認欲求のすれ違い」あるいは「主人と奴隷の弁証法」というものが浮かび上がってくるのだ。なるほど。動物は2匹がぱったりあった瞬間、背格好や態度やその他の情報からどちらが上でどちらが下かという目に見えない戦いが瞬時に行われるというが、人間社会においても同様で、その位相によってサービスの在り方が変わるのである。で、自分より上の立場から承認されることはたいへんな「価値」になる(下の立場から承認されても当たり前だから価値にはならない)。高級鮨屋は客より自分のほうが「上」になる時空間演出を心得ているのである。

 高級鮨屋の板前の言動をモニタリングして再現しているのだがこれがまた面白い。

 

 ②は「安心」と「安全」は違うという話。この見立てそのものは、福島第一原発事故以来しばしばとりあげられたアジェンダである。肌感覚にもわかる。まず「伝えられる情報だけで『安心』はつくれない」というのがポイントだ。安心は体感を伴う必要がある。もうひとつの問題提起は「安心」はどこまでいっても主観的なものであって実際のところ「安全」を保障されてはいないということ。そして「未来永劫まで絶対的な『安全』」というのはあり得ないこと。
 ここから帰結することは「100%安全の保障を得て安心する」というのは不可能解であるということだ。それどころか「『安心』しておけばしておくほど、実は「安全」ではなくなっていく」というパラドクスも出てくる。

 ここしばらく悲劇的な自動車事故が相次いでいてやるせない。行政も自動車メーカーも安全をうたい、運転者は安全に自信がある。それでいて事故はおこる。なんかもう道路行政も自動車メーカーも運転者も歩行者もどこまで対策しても「絶対安全」にはならないものだと諦め、「安心して歩ける往来」なんてものは幻想で、極論すれば「車はつっこんでくるものだ」という前提で歩行者は道を歩くということなんじゃないかなと思う。「安心なんてできないのだから自分の安全は自分で守るしかない」という鉄則がこんなところで浮上したりする。

 

 ③は制限や制約の中でいろいろ考えさせるのが楽しい、という話。これはなんとなくわかる。制約から創意工夫は生まれるし、自分ならではのカスタマイズ感をどこかにつくりたいのは①の承認欲求なんかにもつながるどこか本能的な欲求かもしれない。便利になることの延長上には「あなたはいなくてもいい」というのが待っているのだから。制約の中での創意工夫というのは、少なくともその瞬間は体が生存の喜びを感じているように思う。パズルやゲームのようなものを子どもはもちろんオトナもついつい熱中してしまうからくりもこのへんにあるのではないか。

 

 いずれも一見するとパラドクスだがじつは・・・という話だ。つまり弁証法である。本書は弁証法の思考サンプルと言うこともできるだろう。
 そういう意味では各教授の話を読んだあとに、巻頭の山極局長と越前屋のプロローグに戻るとよい。
 東大が「討論・ディベート型・積み上げ方式」であるのに対し、京大は「対話・ダイアローグ型・発見方式」であり、そのココロは東大が事前に情報を収集し知識を蓄えておく必要があることに対して、京大は手持ちがなくて現場に赴き、むしろその場でのアドリブが要求される。事前の情報収集はどうしても本人の中に常識というか基準みたいなものができてしまい、良くも悪くもそれがバイアスになる。予定調和っぽくなるわけだ。白紙からのアドリブだと予定調和がないから、思いがけない発見や境地に行き着くこともあるし、支離滅裂でなんのオチもないまま終わることもある。リスクが少ないのは東大型だが、一発逆転ホームランがあるのは京大型ということなる。どちらが良い悪いではなく、時と場合によって有用性はかわってくるが、本書の本編で出てくる各教授の「常識にとわれない」話は、対話と発見の流れから導き出たんだなと思うと興味深い。

 あと、「教員は熟練してくると、官僚的になるか芸人的になるかの2つに分かれる」という森毅の名言にはうなった。教員に限った話ではるまい。芸人的にありたいものである。


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