読書の記録

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歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史

2019年09月02日 | 歴史・考古学
歴史は実験できるのか 自然実験が解き明かす人類史
 
ジャレド・ダイアモンド ジェイムズ・ロビンソン他  訳:小坂恵理
慶応義塾大学出版会
 
 
 「銃・病原菌・鉄」で一世を風靡したジャレド・ダイアモンドである。彼の他の本に比べると本書は専門色が強い。また、ダイアモンドの単書ではなくて研究者仲間のアンソロジーになっている。
 したがって彼の一般向け著作と比べると難解というか読みにくい。とはいえ、その多くは学問上の正しさを追求するゆえの検討プロセスの精緻化とか留保条件の説明であり、僕は専門の人でもなんでもないのでそこらへんはそういうもんだなとななめ読みしてもっぱら問題提起と結論のところを読んだ次第である。
 
 言うならば比較文明論の見本帳といったところだろうか。全部で7つの論文から構成されているが、前半4つは伝統的な手法、つまり文献的あるいは考古学的なエビデンスを集め、矛盾のないように定性的に論理をつないでいくアプローチだ。ナラティブ型と本書では表現している。対して後半3つは統計学的なアプローチだ。なんだかわからないけれど因果関係があるというのを定量的に演算してあぶりだすのだ。これはこれで人智の思いもよらぬところに因果を見つけ出す効果がある。当世のAI分析とかビッグデータ解析はこちらだが、それを比較文明論でやってみせるわけだ。
 題して「歴史は実験できるのか」。原書のタイトルは「Natural Experiments of History」。歴史における自然実験とでもいったところか。
 
 「自然実験」というのは言い方はなかなか絶妙だ。ほとんどの条件が同じ2つの地域なのに、たった1つの要素の違いでその後の歴史に大きな乖離を生じさせることになったものの考察で、それをあたかも神が「実験」しているように見立てているわけだ。専門的には「比較研究法」というそうだ。
 たとえば、中米カリブ海にイスパニョーラ島という島があって、島の東側がドミニカ共和国、西側がハイチという国で分割されて統治されている。
 この2つの国は地理的条件はほとんど同じなのに、現代においてのドミニカとハイチは、国としてのガバナンスがまるで異なってしまった。ドミニカは中米において比較的優等生な国であるのに対し、ハイチはかなりの底辺国といってよい。この極端な差はなぜついてしまったのか。
 似たような例として我々日本は朝鮮半島の北朝鮮と韓国を連想する。しかし、朝鮮半島に関してはそれぞれのエリアが背負った地政学的な要因がかなりあるのに対し、イスパニョーラ島はそこまでダイナミックな背景は本来はなかったのである。18世紀当時、西側ハイチをフランスが、東側のドミニカ共和国をスペインが植民地としていた。2つの宗主国の植民地経営の在り方、現地で采配をふるった2人の独裁者のタイプの違い、そしてちょっとした地形の差が、その後200年の決定的な乖離をつくった。この辺の話はとても興味深い。様々な因果の結果、ドミニカではスペイン語が通用したが、ハイチでは現地語であるハイチクレオール語しか通用せず、このことが決定的な差になった。なぜそうなったのかの経緯も面白いのだが、日本語が流通して英語がなかなか通じないとされるわが国において寒心に堪えない。
 
 しかも面白いのは、当初はハイチのほうが発展していたということだ。
 この示唆はエスパニョーラ島だけではない。本書でアンソロジーとなっている論文は、ポリネシア諸島の島々が島の地勢や気候風土によってその後の歴史の歩みが異なるわけ、特にアメリカに移民が増えたわけ、銀行制度が成立する国しない国、奴隷貿易がアフリカに与えた影響、イギリスのインド統治は何を残したか、ナポレオンによって制覇されたプロイセン各地のその後、などいろいろな自然実験の比較が行われているのだが「当初はよそより発展していたのにその後は衰退ないし破滅していった例」というのがたくさんあるのである。
 たとえば、アフリカの奴隷貿易。負の歴史として名高いが、奴隷をたくさん連れていかれた地域とそうでない地域があるのだ。そして奴隷を多く引き抜かれた地域というのは、21世紀の現在に至ってなお底辺国として苦しんでいる。かたや比較的奴隷引き抜きの憂き目がすくなかった地域というのは現在もそれなりにガバナンスが維持できている。つまり奴隷貿易というのはそれくらい地域に深刻なダメージを与えるということなのだが、興味深いのは奴隷を大量に抜かれた地域というのはかつてにあって他より繁栄していた地域なのである。その追求の考察はなかなか示唆に富んでいる。
 
 要するに、環境条件や制約条件がその後に与える影響というのはまったくバカにならないということである。しかも当初は好条件下だと思って油断しているがためにかえって憂き目にあうのだから歴史というのは残酷だ。これは我々の日々でも心しなければならないことだろう。
 たとえば、いくつか事例をみて思うに、ある地域の市場や行政を「保護」してそこの運営を任官なり地主なり、あるいは封建制にして任せると「現状維持バイアス」と「既得権益」を社会に生み出す。これは人間の、というか生命の本能みたいなものだけれど、現地の統治者の物事への視線が現世利益型になって持続可能の観点を失ってしまうということなのだろう。そうすると時間の変化や外からの環境の変化に弱くなるということらしい。
 ほかにも、いろいろな地勢地理的条件で初期の段階から市場や経済にうまみがあるところはとうぜん時間軸的には先に手をつけられているということでもある。「先に手をつけられている」ということはそのぶん既得権益や仕組みができあがっていて「規制」や「保護」ができあがる。そういうところはなかなか改革や改良の手が入りにくい。しかもそうやって「規制」や「保護」があるところは”うまみのある市場”になっているから、外圧からは真っ先に狙われやすいのだ。積み重なっているものが大きければ大きいほど崩れたときのダメージも大きい。このへんの一連の話はタレブの反脆弱性の話にも通じる。
 
 封建制社会はうまくいかないというのはなんとなく歴史が証明しているが、本書ではそのダメージが現代まで引きずるほど大きな後遺症を残すことを暴いている。今の社会のありようは100年前200年前の因果に端を発しているのである。
 

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