白雲去来

蜷川正大の日々是口実

まだ治らない。

2015-06-25 16:37:39 | 日記
strong>六月十七日(水)雨後曇り。

今日は、午後から大行社の幹部会議がある。午前中までは出席の予定だったが、やはり咳が止まらない。電車の中でゴホゴホとやって、韓国で流行っている病気と勘違いされてはいけないので、丸川本部長に電話を入れて欠席をした。

体調が悪いので当然なのだが、もう四日も飲んでいない。まったく珍しいこともあるものだ。飲んで飲めないことはないのだが、飲もうと言う欲求が無い。こんな時はおとなしくしているのに限る。

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読みますか、などと利右衛門そばに寄り。

2015-06-25 15:51:45 | 日記
六月十六日(火)曇り。

まだ調子が悪い。何だか薬を沢山飲まなくてはいけないので、それだけでもうんざりする。体調が良い時は、目が覚めると、今朝の朝食はと、ウキウキするのだが、さすがにそんな気にはならない。それでも腹は減る。

こういう時こそ、姿勢を正して(横になったままでもいいのだが)読書でもしなければと、気合だけは入れたが、机に向かうとグデタマのようになってしまう。何か、スクラップの中に面白い物はないかと探したら、あった、あった。今から七年前の十月の「産経抄」に、若き日の勝海舟のとても良い話が……。

貧乏で本が買えなかった勝海舟は、もっぱら立ち読みを日課にしていた。函館の回船問屋の主人、渋田利右衛門と出会ったのも、行きつけの本屋だった。子供のころから本好きだった利右衛門は、商用で江戸に出てくるたびに、大量に本を買い込んで、地元で公開するのを、楽しみにしていた。二人はたちまち意気投合する。数日後、海舟のあばら家を訪ねた利右衛門は、「書物でも買ってくれ」と、二百両を差し出した。海舟の談話を集めた『氷川清話』にある有名なエピソードだ。二百両といえば、いまの一千万円を優に超えるだろう。
海舟の長崎遊学の費用も出した利右衛門は、自分がもし死んでも頼りになる人物として、灘の蔵元、嘉納治右衛門、紀州の豪商、浜口梧陵らを紹介する 治右衛門の息子は、柔道の創始者で、海舟に師事することになる治五郎だ。梧陵は安政南海地震の際、大量のわらに火をつけて避難路を示し、村人を救った「稲むらの火」の物語で知られる。海舟と利右衛門の因縁は、これにとどまらない。利右衛門の息子が函館で開いた貸本屋で、読書に目覚めた少女がいた。やがて上京して、海舟が支援していた明治女学校に入学する。そこの教師をしていた島崎藤村と結ばれ、藤村が作家として世に出るのを陰で支えたのが、最初の妻、冬子だ。(「産経抄」)

太公望と周の文王の出会いを詠んだ江戸時代の川柳に「釣れますか、などと文王そばに寄り」というものがあるが、海舟の場合は「読みますか、などと利右衛門そばに寄り」か。

飲み屋の前に立っている私に、「飲みますか」などと言ってポンと二百両ほども投げてくれる人はいないかねェ-。居るわけないか。あーあ熱が出てきた。

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「戦争への道」、実は「平和と繁栄の道」だった。

2015-06-23 17:26:08 | 日記
六月十五日(月)晴れ。

咳で熟睡できずに頭が重い。体調が悪いので、食欲がないかと言えばそうでもなく、具合が悪くても、二日酔いでも寝ぼけていても、お約束のようにお腹が空く。朝食は、メンチカツに赤ウインナーに目玉焼き。それにキャベツの千切り添え。そして永谷園の松茸のお吸い物。

朝食後は、病院を三軒。まず眼科へ行き、目の治療をして貰う。それからかかりつけの内科で常備薬を三週間分。午後一番で耳鼻いんこう科で治療。あーあ早く治らないかなぁー。病院三軒で思いがけずの出費に頭が痛かった。

しかしニュースを見ていると国会前に集まって新興宗教のように太鼓を叩いたり音楽を流して政府に文句を言っている連中は何だ。そう言えば、原発問題の時も同じような連中が、同じようなことをして騒いでいた。どうも胡散臭い。古い話で恐縮だが、いわゆる六十年安保の折は、私は子供だったが、子供心に日本に革命が起きるのではないかと言うような、連日の騒動で、学生も労働者も一部の政治家もバカもアホウも「安保ハンタイ」と呪文のように繰り返していた。それから十年後の七十年安保の折も、前ほどでもなかったが、鶏冠の赤いのが「安保ハンタイ」を熱にうなされるように叫んでいた。

六十年の安保闘争も七十年の安保闘争も、彼らの共通のキーワードは、「必ず戦争に巻き込まれる」、「軍靴の音が聞こえる」というような物だった。その時代、「進歩的文化人」とか言う不思議な人たちがマスコミの寵児となっていた。彼ら、彼女らはソ連の核には猫なで声で媚びを売り、なぜかアメリカの核だけには、噛みついていた。中国が当時行った二十世紀最大の人権侵害と言われている「文革」を支持したのもその進歩的文化人とか言う連中だった。まだあった北朝鮮の独裁政権には、声を上げずに韓国の朴政権だけを「軍事独裁」として打倒を叫んでいた。

日米安保がこのままで良いなどとは毫も思わないが、皮肉なことに、「日米安保は戦争の道」、どころか今日の平和と繁栄は日米安保の美名の下、さらにはアメリカの核の傘の下で構築されたのである。戦争どころか、今日、国会前で騒いでいる反戦屋の皆さんも日米安保の下で、その平和と繁栄を享受しているのである。そしてまた性懲りもなく「安保法案」は「戦争への道」、「軍靴の音が聞こえる」。といつか聞いたことのあるフレーズを叫んでいる。まったく性懲りもない人たちだ。

自民党もチマチマしたことを言わないで、堂々と我が国の主権と国民の生命と財産を守るため、さらには国体を護持するためには、核武装による国軍の再生を!、ぐらい言ってみたらよい。

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編集後記。

2015-06-23 17:07:30 | 日記
六月十四日(日)晴れ。

今日は、大行社、護皇連合の主催でBBQがあるのだが、体調が悪く社友の松本佳展君に代理出席して貰った。寝ているほどでもないので、事務所に行き機関誌の印刷を行った。今月号は、四十年前に起きた、連続企業爆破事件後に、野村先生がらが行った「斬奸の思想を語る」を特集した。その最新号の私の編集後記を掲載してみたい。

編集後記
★野村先生が、河野一郎邸を焼き打ちしたのは二十八歳のこと。そして三十代の全てを獄中に過ごした。巻頭の「俳句日記」の一節は、その獄中にあって三十代の半ばに達した頃のものである。「出獄したら、暫時禅寺にでも入って、雲水求道の生活をしたいと思っている」との先生の思いは、天がそれを許さなかった。河野邸の焼き打ち事件で十二年、戦線復帰後、わずか七〇六日の後に、「経団連事件」に決起する。
「斬奸の思想を語る」は、「経団連事件」の直前に収録されたものである。いわゆる「連続企業爆破事件」から四十年が過ぎた。産経新聞の特集や、フジテレビ系列で放映された特番を観た方も多いのではないか。
その「連続企業爆破事件」のグルーブが当時地下出版した爆弾の教本というのが「腹腹時計」―都市ゲリラ兵士の読本―である。爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教本で、高校生程度の科学の知識があれば誰でも爆弾が作れると言う危険な本であった。
当時、私たちは、その本をコピーして同志らに配り、研究材料としたが、それは我々右翼・民族派にとっても非常に参考になった。簡単に目次を羅列してみる。
第1章 武装闘争=都市ゲリラ戦の開始に向けて
第1篇 個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮
第2篇 武装=都市ゲリラ組織の基本形態
第3篇 技術
1火薬 2起爆装置
第2章 展開
第1篇 爆破
第2篇 作戦の一般的原則
残念ながら、当時コピーしたものは押収されて手元にないが、爆弾の製造方法以外のことは、ネットで読むことが出来る。
彼らは、これまでの新左翼のどのセクトとも違って、例えば、「居住地において極端な秘密主義、閉鎖主義はかえって墓穴を掘る。必要最低限の挨拶をし、規則正しい日常生活をしているようにみせる。左翼的ないきがりを一切捨てる。家族との関係をことさら断つ必要はない。
『合法的左翼』は口も尻も軽いので信用できないから関係をもつな」。など、きわめて一般人を装うことによって、過激な闘争の隠れ蓑とした。
そして今日世界各地で引き起こされているイスラム過激派の爆弾、乱射事件を考える時に「斬奸の思想を語る」との鼎談は、余りにも予言的であると言わざるを得ない。(蜷川記)

夜は、今日もおとなしくしていた。あーあカツオが逃げちゃうよ。

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しめた!

2015-06-22 18:29:39 | 日記
六月十三日(土)晴れ。

まだ体調が良くない。風邪を引きずって、中々回復しない。本来ならば、青山墓地にて行われる「無名烈士法要」に出席しなければならないのだが、群青の会の大熊雄次氏にメッセージを託して欠席。

布団の中で安静にしていると言うほどではないのだが、咳がひどくて出歩くのが億劫である。それでなくとも韓国で厄介な病気が流行っている最中、人ごみの中でゴホゴホを繰り返すのは非常識というものだ。食後に薬を飲むと、しばらくするとその薬のせいかウトウト。いそいそと布団に入って寝る。この繰り返しである。家にいるのだから少しは仕事をすれば良いものなのだが、集中できない。何たって三度の飯より好きな酒を断って回復に努めているのだから、仕事どころではない。しかしこの風邪厄介である。

暇つぶしに、スクラップブックを見ていたら、面白い物があった。昨今、アホバカネエチャンたちが子供を産むと、キラキラネームとか言って、ソープ嬢か何かと区別がつかないようなものや、およそ日本語には程遠い名前を付けるのが流行?しているらしい。まあ他人のガキなのでどうでもいいのだが、キラキラネームではないが、NHKの連ドラで人気だったのが「八重の桜」。私も好きだった。新島八重のダンナの新島襄だが、実はその名前は本名ではない。本当の名前は、七五三太で「しめた」と読む。冗談ではありません。本当の話です。新島家に女児が四人続いた後、初めて男児が授かった瞬間に、祖父が「しめた!」と声を上げ、そのまま命名された。ではなぜ「襄」となったのか。七五三太が長じて米国に密航中に、米国人の船長から、「ジョー」と呼ばれ、帰国後もそのまま使うようになった。(「産経抄」平成二十三年十月三十一日)。

私が、幼少の頃、近所のガキどもからは「まさひろ」を略して「マーチン」と呼ばれていた。それをそのまま使っていたらアメリカ人と間違われたかもしれない。いや風邪のせいでちょっと熱があるせいです。

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