八月二十二日(水)尊攘義軍七十三年祭。
「尊攘義軍」とは、昭和二十年八月十五日早暁、日本を敗戦降伏という未曾有の事態に陥れようとする元凶として、木戸内大臣を斃すべく立ち上がった尊攘義軍十烈士は、しかし事成らず次の手立てのために芝・愛宕山に立て籠もった。取り巻く官憲との攻防が熾烈を極めるなか、義軍の志士たちは天下の情勢を冷静に見極め「承詔必謹」の大義に殉じることを決めることとなる。義軍のその決意は「陛下の詔に反した罪の責任をとる」玉砕であった。しかし官憲は、解散を強く要求するなか、二十二日夕刻、義軍に対し発砲を開始する。そのとき、義軍陣地から数発の爆音が轟いた。烈士らは、相抱きあいながら、手榴弾を炸裂させ最期の時を迎えたのである。
自決された、飯島與志雄大人命の辞世
「一脈の正気留めて日の本の誇りとともに吾は砕けつ」
「神州の不屈をしめす此の正気継ぐ人あらば思ひ残さじ」
また、二十七日早暁には、義軍の二夫人が自刃場所を清めたあと拳銃自決をし夫君の義挙に殉じた。この義挙から今年で七十三年。中村武彦先生の衣鉢を継いで、民族革新会議の犬塚博英議長が同志と共に毎年斎行されている。
毎年参加しているのだが今年は、どうしても所用があり欠席。一門から、群青の会の大熊雄次、大悲会の志村馨の両君が出席。弘明寺の「花笠」にて、「蜷川政経懇」を開催。終了後は、有志にて関内へ転戦。二時間ほどで帰宅。
「尊攘義軍」とは、昭和二十年八月十五日早暁、日本を敗戦降伏という未曾有の事態に陥れようとする元凶として、木戸内大臣を斃すべく立ち上がった尊攘義軍十烈士は、しかし事成らず次の手立てのために芝・愛宕山に立て籠もった。取り巻く官憲との攻防が熾烈を極めるなか、義軍の志士たちは天下の情勢を冷静に見極め「承詔必謹」の大義に殉じることを決めることとなる。義軍のその決意は「陛下の詔に反した罪の責任をとる」玉砕であった。しかし官憲は、解散を強く要求するなか、二十二日夕刻、義軍に対し発砲を開始する。そのとき、義軍陣地から数発の爆音が轟いた。烈士らは、相抱きあいながら、手榴弾を炸裂させ最期の時を迎えたのである。
自決された、飯島與志雄大人命の辞世
「一脈の正気留めて日の本の誇りとともに吾は砕けつ」
「神州の不屈をしめす此の正気継ぐ人あらば思ひ残さじ」
また、二十七日早暁には、義軍の二夫人が自刃場所を清めたあと拳銃自決をし夫君の義挙に殉じた。この義挙から今年で七十三年。中村武彦先生の衣鉢を継いで、民族革新会議の犬塚博英議長が同志と共に毎年斎行されている。
毎年参加しているのだが今年は、どうしても所用があり欠席。一門から、群青の会の大熊雄次、大悲会の志村馨の両君が出席。弘明寺の「花笠」にて、「蜷川政経懇」を開催。終了後は、有志にて関内へ転戦。二時間ほどで帰宅。