白雲去来

蜷川正大の日々是口実

先輩の墓参に。

2015-02-22 12:23:27 | 日記
二月十五日(日)晴れ。

今日は、中学の先輩でその後も仲良くさせて頂いた山崎邦雄さんの墓参に、所縁の人たちと一緒に行った。山崎さんとは小学生の頃からのお付き合いで、中学の時に陸上競技を始めるきっかけとなった人だ。家も近くて山崎さんの家で良く遊んだ。山崎さんのことは、私の機関誌「燃えよ祖国」に「忘れ得ぬ人たち」として書かせて頂いたことがある。

山崎さんのお墓は、以前は京急の弘明寺駅の脇にある墓地にあったが、現在は泉区の昔は遊園地だった場所の墓苑に移された。山崎さんのご命日は明日だが、毎年命日に近い日曜日に墓参に行っている。毎年段取りをして頂くのは、ロイヤルパークの支配人だった山崎雅夫さんや、つい最近まで、市営地下鉄の吉野町駅のすぐ上で居酒屋「一銭」を経営していた尼野保さん、古い友人の水原広雅の皆さん。

市営の墓地は良く整理されていて、夏だったなら芝生の緑が目に眩しいに違いあるまい。しかし冬枯れの茶色い芝があるだけだった。皆で、お酒の好きだった山崎さんに持参したワインとビールに煙草を供えた。

その後、買い出しをして山崎雅夫宅にて直会。新築されたばかりの山崎邸は広々として、居酒屋などよりも居心地が良い。結婚されて近くに住む娘さんがお孫さんと一緒にご挨拶に来た。お孫さんから「おじいちゃん」と呼ばれているのを聞いて時の流れを感じずにはいられなかった。

亡くなられた山崎さんや、ロイヤルパークの山崎さん、水原さんが若かりし頃に伊勢佐木町のオデオンの前にあった「スタンドロック」というカクテルコーナーで働いていた。当然私も常連客だったが、後で聞いた話では、そのお店に結婚前の「やまと」のご夫婦が通っていたとのこと。世間は狭いものだ。山崎邸でしばらく飲んでから、その「やまと」に転戦した。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野村先生の生誕祭。

2015-02-22 11:04:35 | 日記
二月十四日(土)晴れ。野村先生生誕祭。

今日は十一時半から川崎のレンタルルームにて野村先生の「生誕祭」が執り行われる。以前は、野村先生の「我が生の須臾なる命如何にせむ」の句碑のある群馬県の雷電神社にて開催していたが、神主さんの転勤によって二年前から場所を川崎に移して行われている。

野村先生がお元気ならば、今日で八十歳。傘寿(さんじゅ)のお祝いとなる。なぜ八十歳を傘寿と言うのか。それは傘と言う字の略字は八と十になっているから八十のお祝いの字に当てたのである。先生は西暦は一九三五年、年号なら昭和十年の生まれである。その年の出来事としては、築地市場開場・菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾・アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言・ペルシアが国号をイランに改称・満洲国皇帝溥儀が来日・靖国神社参拝・美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される・永田鉄山暗殺事件(相沢事件)・第二次ロンドン海軍軍縮会議開催。などがあった。しかし私たちには、八十歳になった先生は、当然ながら想像がつかない。

野村先生の奥様やお孫さんなども参加して厳かに行われた。体調を崩して欠席された民族革新会議の犬塚博英議長が送って頂いた「連帯の挨拶」がとても感動的で、思わず落涙しそうになった。山崎一弘君の「請願詞」も胸を打つもので、いずれ「燃えよ祖国」に掲載してみたい。

近くの料理屋に場所を移して直会。二時間ほど先生の思い出などを肴に飲んでいたが、外に出るとまだ明るい、有志で駅の近くの居酒屋に転戦して夕方まで。自宅に着いたのは六時前だった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする