一月九日(金)晴れ。
平成元年一月。切通し農場から住吉農場へ。
畑が雪に埋もれ「切通し農場」での農作業が不可能になると、我々二十三名の農耕本隊は「住吉農場」という更に山奥の作業場に移動となった。「切通し」にいたときには、刑務所に送られて来た手紙や差し入れの品物などはそのつど、本所から転送されたが、車で三十分以上もかかる「住吉農場」へは、娑婆の家族に本所ではなくて、直接ここに送るように指示を受けた。
夕食終了後、ほとんどの者が机に向かって留守家族や、身内の者に手紙を書いている。それぞれの者の脳裏に去来するものは唯一つ、望郷の念、それ以外にない。ペンを止め、目張りをされた窓から外を見れば、静かに語りかけるように雪が降っている。ちなみに、「住吉農場」の住所は網走郡女満別町字住吉。番地を必要としないのがいかにも人里離れた、という感じがする。
「切通し」で我々が生活をしていた「静湖寮」は、塀も無く、一見すれば田舎の分教場か、山小屋のようで、地元の人以外は、よもやここが刑務所の施設の一部で、囚人が寝起きしているとは思はない。グランドの横にある残飯捨て場には、時折キタキツネや鹿の親子などが姿を見せるなど、作業は別としてのどかな雰囲気があったが、住吉農場に来て驚いた。まず、目にしたものは、つい最近まで使用していたという粗末な赤レンガ造りの炊事場と風呂場のある小屋は、いかにも明治の監獄を彷彿させ暗い気持ちにさせられた。そして現在はトラクターや農機具などの倉庫となっている入り口には「馬耕班」という札が掛かっており、今では開発途上国の農民すら使用しないような古い農機具や、馬に引かせた耕運機具などが置いてある。トラクターなどがまだ無い時代、活躍したのは馬で、懲役よりも大事にされたという話。
網走刑務所は全国で唯一、自給自足の出来る施設で、かつてはこういった山奥を切り開いて、米作りもしていたそうで、その名残の水田の畝が山の中に現在でも残っている。米を作らなくなった後に植林された唐松のどれもが、大人が抱きかかえても手が届かぬ位に成長しているのだら、この施設の歴史の重みを実感させられる。しかしそれ以上に我々を暗くさせたものは、三ケ月余りを寝泊まりするこの宿舎。いや宿舎などというよりも、正直言って一昔前の土方の飯場といった方がピッタリで、我々が入る直前に営繕班によって多少手が入ったと聞いていたが、こんなにヒドイとは思わなかった。この名前だけはスキー場の民宿みたいな「白銀寮」、小屋が雪や強風で崩れたり、傾いたりしないように周りに何か所も、丸太で支えてある。中に入れば、土間の中央にストオブが三台置いてあり、それを囲むようにコの字形に我々の生活の場所がある。天井を見上げれば万国旗よろしく洗濯物がぶらさがり、寒さを防ぐ為に窓という窓にはビニールの目張りがしてある。もちろん換気扇などない大部屋に、二十三人の大人が生活しているのだからプライバシーどころか、一人が屁でもすれば、まるでナチスのガス室の用になってしまう。こんな所で我々は雪に埋もれながら、三月の半ばまで生活をしなければならないのかと思うと暗澹たる気持ちになる。
この住吉農場、農場とはいってもここでは、農作業をするわけではなく、主に伐採や枝払といった林業に従事する。しかし林業といっても、全員が素人なので、まずは手慣らしに松の木の間にのびた雑木や、木にからみついた蔓をナタやノコギリで切り払って行くという作業が始まった。作業に出る姿が又、仰々しい。耳あてのついた帽子の上からアノラックのフードをして、更にヘルメットを被る。目には保護眼鏡というレンズの部分が金網になっているメガネをする。これは木の枝等から目を護る為のもの。そして腰には西部劇のガンマンのように皮のホルスターに二丁拳銃ではなかった、ノコギリとナタを吊す。この出で立ち、誰が見ても営林署の職員。決して囚人とは思わないだろう。
「切り通し」での事を考えると、ここでの作業は、さほどきついとは思わないが、何と言っても大変なのは、雪の山道を片道三十分以上も歩かなければ作業場に着かない、という事である。これがなかなか重労働で、かなり体力を消耗する。何しろ雪が降れば道が消えてしまうので、先頭で歩く者は「道つけ」と言って、腰の近くまで積もった雪を払いながら、ラッセル車の役目をしなければならない。体の大きい私などは良くこの「道つけ」をやらされたが。十分もすれば汗がふきだし、疲れて倒れそうになる。
その雪中行軍を、片道三十分、往復で一時間。これが午前と午後の二回あるわけだから、疲れる代わりにその分作業時間も短くて済む。現場は熊でも出てきそうな山奥で、作業をする我々に対して、監視でついているオヤジは僅か三名のみ。オヤジが冗談で、「オイ蜷川、逃げてもいいんだぞ」などと言うが、確かに逃げられない事もないが、西も東も分からない山奥。ましてこの山も網走刑務所の所有であり、運良く国道に出たとしても、網走に頼る場所も人もいない。飢と寒さで凍死するのが関の山である。
余計な事を考えずに作業をするほうが、身の為であることは、言われなくとも分かる。それでなくとも、ノコギリやナタを使った作業なので、気を抜くと大怪我のもとである。急な雪の斜面を上って人の太腿ぐらいに育った雑木を切る。その際、近くで作業をしている同囚が、倒れた木で怪我などしないように、必ず「倒すぞォー」「倒れるぞォー」ト声をかける。木が雪煙を上げて倒れる様は正に圧巻である。昔は切り出した材木を馬そりで積み出したそうだが、今はそんな事はしない。簡単な理由である、馬の値段が高くタダ同然で働く懲役には事欠かないからである。
「作業ヤメェー」の声が掛かり整列点検後、下山。来た道を又四十分もかけて歩かなければならない。うっかりすると足を滑らすので無駄口を聞くものなど誰もいない。防寒着に着いた雪が凍り容赦なく体温を奪って行く、寒さと疲労で体はボロボロである。「八甲田山死の彷徨」状態でようやく寮に辿り着き、作業は終了。点検の為整列した我々に、オヤジが言う「こんな作業は序の口で、来月からは本格的な伐採作業が始まるから、今のうちに作業に慣れておく事」。今日は、寝付きが悪そうだ。
吉村昭「破獄」「赤い人」、安部譲二「囚人道路」、お金と興味のある方は「北海道行刑史」を是非。ともかく、青年は牢屋を目指せ。夜は、反省の時を過ごしました。
平成元年一月。切通し農場から住吉農場へ。
畑が雪に埋もれ「切通し農場」での農作業が不可能になると、我々二十三名の農耕本隊は「住吉農場」という更に山奥の作業場に移動となった。「切通し」にいたときには、刑務所に送られて来た手紙や差し入れの品物などはそのつど、本所から転送されたが、車で三十分以上もかかる「住吉農場」へは、娑婆の家族に本所ではなくて、直接ここに送るように指示を受けた。
夕食終了後、ほとんどの者が机に向かって留守家族や、身内の者に手紙を書いている。それぞれの者の脳裏に去来するものは唯一つ、望郷の念、それ以外にない。ペンを止め、目張りをされた窓から外を見れば、静かに語りかけるように雪が降っている。ちなみに、「住吉農場」の住所は網走郡女満別町字住吉。番地を必要としないのがいかにも人里離れた、という感じがする。
「切通し」で我々が生活をしていた「静湖寮」は、塀も無く、一見すれば田舎の分教場か、山小屋のようで、地元の人以外は、よもやここが刑務所の施設の一部で、囚人が寝起きしているとは思はない。グランドの横にある残飯捨て場には、時折キタキツネや鹿の親子などが姿を見せるなど、作業は別としてのどかな雰囲気があったが、住吉農場に来て驚いた。まず、目にしたものは、つい最近まで使用していたという粗末な赤レンガ造りの炊事場と風呂場のある小屋は、いかにも明治の監獄を彷彿させ暗い気持ちにさせられた。そして現在はトラクターや農機具などの倉庫となっている入り口には「馬耕班」という札が掛かっており、今では開発途上国の農民すら使用しないような古い農機具や、馬に引かせた耕運機具などが置いてある。トラクターなどがまだ無い時代、活躍したのは馬で、懲役よりも大事にされたという話。
網走刑務所は全国で唯一、自給自足の出来る施設で、かつてはこういった山奥を切り開いて、米作りもしていたそうで、その名残の水田の畝が山の中に現在でも残っている。米を作らなくなった後に植林された唐松のどれもが、大人が抱きかかえても手が届かぬ位に成長しているのだら、この施設の歴史の重みを実感させられる。しかしそれ以上に我々を暗くさせたものは、三ケ月余りを寝泊まりするこの宿舎。いや宿舎などというよりも、正直言って一昔前の土方の飯場といった方がピッタリで、我々が入る直前に営繕班によって多少手が入ったと聞いていたが、こんなにヒドイとは思わなかった。この名前だけはスキー場の民宿みたいな「白銀寮」、小屋が雪や強風で崩れたり、傾いたりしないように周りに何か所も、丸太で支えてある。中に入れば、土間の中央にストオブが三台置いてあり、それを囲むようにコの字形に我々の生活の場所がある。天井を見上げれば万国旗よろしく洗濯物がぶらさがり、寒さを防ぐ為に窓という窓にはビニールの目張りがしてある。もちろん換気扇などない大部屋に、二十三人の大人が生活しているのだからプライバシーどころか、一人が屁でもすれば、まるでナチスのガス室の用になってしまう。こんな所で我々は雪に埋もれながら、三月の半ばまで生活をしなければならないのかと思うと暗澹たる気持ちになる。
この住吉農場、農場とはいってもここでは、農作業をするわけではなく、主に伐採や枝払といった林業に従事する。しかし林業といっても、全員が素人なので、まずは手慣らしに松の木の間にのびた雑木や、木にからみついた蔓をナタやノコギリで切り払って行くという作業が始まった。作業に出る姿が又、仰々しい。耳あてのついた帽子の上からアノラックのフードをして、更にヘルメットを被る。目には保護眼鏡というレンズの部分が金網になっているメガネをする。これは木の枝等から目を護る為のもの。そして腰には西部劇のガンマンのように皮のホルスターに二丁拳銃ではなかった、ノコギリとナタを吊す。この出で立ち、誰が見ても営林署の職員。決して囚人とは思わないだろう。
「切り通し」での事を考えると、ここでの作業は、さほどきついとは思わないが、何と言っても大変なのは、雪の山道を片道三十分以上も歩かなければ作業場に着かない、という事である。これがなかなか重労働で、かなり体力を消耗する。何しろ雪が降れば道が消えてしまうので、先頭で歩く者は「道つけ」と言って、腰の近くまで積もった雪を払いながら、ラッセル車の役目をしなければならない。体の大きい私などは良くこの「道つけ」をやらされたが。十分もすれば汗がふきだし、疲れて倒れそうになる。
その雪中行軍を、片道三十分、往復で一時間。これが午前と午後の二回あるわけだから、疲れる代わりにその分作業時間も短くて済む。現場は熊でも出てきそうな山奥で、作業をする我々に対して、監視でついているオヤジは僅か三名のみ。オヤジが冗談で、「オイ蜷川、逃げてもいいんだぞ」などと言うが、確かに逃げられない事もないが、西も東も分からない山奥。ましてこの山も網走刑務所の所有であり、運良く国道に出たとしても、網走に頼る場所も人もいない。飢と寒さで凍死するのが関の山である。
余計な事を考えずに作業をするほうが、身の為であることは、言われなくとも分かる。それでなくとも、ノコギリやナタを使った作業なので、気を抜くと大怪我のもとである。急な雪の斜面を上って人の太腿ぐらいに育った雑木を切る。その際、近くで作業をしている同囚が、倒れた木で怪我などしないように、必ず「倒すぞォー」「倒れるぞォー」ト声をかける。木が雪煙を上げて倒れる様は正に圧巻である。昔は切り出した材木を馬そりで積み出したそうだが、今はそんな事はしない。簡単な理由である、馬の値段が高くタダ同然で働く懲役には事欠かないからである。
「作業ヤメェー」の声が掛かり整列点検後、下山。来た道を又四十分もかけて歩かなければならない。うっかりすると足を滑らすので無駄口を聞くものなど誰もいない。防寒着に着いた雪が凍り容赦なく体温を奪って行く、寒さと疲労で体はボロボロである。「八甲田山死の彷徨」状態でようやく寮に辿り着き、作業は終了。点検の為整列した我々に、オヤジが言う「こんな作業は序の口で、来月からは本格的な伐採作業が始まるから、今のうちに作業に慣れておく事」。今日は、寝付きが悪そうだ。
吉村昭「破獄」「赤い人」、安部譲二「囚人道路」、お金と興味のある方は「北海道行刑史」を是非。ともかく、青年は牢屋を目指せ。夜は、反省の時を過ごしました。