「あんた、どこ受けることにしたん?」
「マグロや」
「あっ、そうなん。あそこも難しくなったからな。頑張りや」
高校3年の娘が友人と交わしている会話を聞いて、最初はピンと来なかった。話題が大学入試のことで、マグロが近大を指すことに気が付くのに時間がかかったのは、老化現象だろうか。いや、勢力地図がめまぐるしく塗り変わる最近の大学入試にも理由の一端があるはずだ。
昨年の私大志願者数は、近大が明大を抑えて初の全国1位になった。今年も明大と激しいデッドヒートを続けている。関西の私大といえば関関同立、関東なら早慶と固定観念を持っていた世代としては、早く頭を切り替えねばならない。
勢力図の変化は、大学自身の努力のたまものである。近大はクロマグロの完全養殖に成功し、それを味わえる専門店を大阪・キタと東京・銀座にオープンして研究成果の普及発展にも尽力している。ほかにもゴミからエネルギーを生み出すバイオコークス技術、クローン技術を使ったマンモス復活プロジェクトなどにも取り組み、PRしている。こうした積極姿勢に受験生が注目し、反応しているのである。
センター試験2種類…中学の数学“世界最低”週3時間の余波
変化が激しいもののもう一つは受験生の半数近くが受ける大学入試センター試験である。昨年は例年以上に問題が易しく、平均点は文系受験生で535点前後、理系受験生で568点前後と、一昨年より高得点だった。今年は、数学と理科で2種類の問題が用意される異例のスタイル。理由はいずれも同じで、ゆとり教育の廃止である。
「知識偏重をやめて考える力、生きる力を養う」としたゆとり教育は小中学校では平成14(2002)年度から、高校では15年度から行われた。掲げた目標は壮大だが、その実態は学ぶ内容を3割カットして完全週休2日制を実施。教科書もろくにない「総合の時間」を設けるなどというものである。
その結果、何が起こったか。たとえば中学全学年の数学授業時間は、世界最低レベルの週3時間になった。かつては9単位が必修だった高校数学は、選択必修として最低2単位を履修すればよくなった。
算数の掛け算は2ケタ同士までしか教えないから、繰り上がり算の理解が進まない。中学校の数学教科書に載っている証明問題数は、約200題から約60題に激減した。これらは、桜美林大リベラルアーツ学群の芳沢光雄教授が新聞紙上などで指摘している教育現場の実情である。
さらにこの結果、起こったのが深刻な学力低下である。経済協力開発機構(OECD)が15歳の学力を調査する学習到達度調査(PISA)で、日本の子供たちはゆとり教育導入から2年後、数学で6位、読解力で14位に低迷した。ゆとり教育導入前の平成13年にはそれぞれ1位と8位だったから、「PISAショック」という言葉が生まれるほど、日本中が衝撃を受けた。翌年、当時の文科相がゆとり教育の見直しに言及したのは当然のことだった。
しかし、小回りが利かないのが日本の教育行政である。学習量を増やす学習指導要領が発表されたのはようやく平成20年。それに基づく授業が始まったのは小学校で4年前、中学校で3年前、高校で2年前という遅さだった。さすがにそれでは、という声もあり、高校では数学と理科に限って、3年前から先行実施されたのである。
つまりは今年のセンター試験を受験した高校3年生は、みっちり学んだ脱ゆとり世代。その子らと同じ試験問題を、ゆとり世代の浪人生に取り組ませるのは不公平だし気の毒だ、として用意されたのが今年のもう一つの問題だったのである。昨年は、最後のゆとり世代の受験だったことが易しい問題になったのではないかと、筆者は推測している。
もともと、ゆとり教育で考える力がつくはずもなかった。考えるとは、さまざまな知識(情報)を組み立てて一定の結論を導く力のことだろう。だとしたら、組み立てる知識、つまりは材料が豊富なほど多彩で、かつ頑強な結論が引き出せるはずだ。知識は考える力、つまりは知恵の源泉である。それを知識の詰め込みに追われるから考える時間がない、つまりは考える力を養えないと、それこそ愚考したことがゆとり教育導入の失敗につながったのだ。
今年のセンター試験で別問題に取り組まざるを得なかったゆとり世代は、こうした教育失政の犠牲者である。安易な思いつき行政のために、まっとうな教育を受ける権利を奪われたに等しい。それを訴えて国家賠償請求訴訟を起こしてもいいぐらいではないか。
「どうせ僕たち、ゆとり世代だから」
知識不足を指摘されてそううそぶく若者に会う度に、君たちは被害者だ、と言ってあげたくなる。若者たちの損失は国の活力の喪失につながる。ゆとり教育の罪はどこまでも重い。