SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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リスト没後120年特集 (その26 ブレンデル編2)

2006年12月28日 00時12分22秒 | ピアノ関連
★巡礼の年:第1年「スイス」
                  (演奏:アルフレッド・ブレンデル)
1.巡礼の年:第1年「スイス」全曲
 ①ウィリアム・テルの礼拝堂
 ②ワレンシュタートの湖にて
 ③パストラール
 ④泉のほとりで
 ⑤嵐
 ⑥オーベルマンの谷
 ⑦牧歌(エグローグ)
 ⑧望郷
 ⑨ジュネーヴの鐘
2.イゾルデ愛の死 ~ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」から最終シーン
                  (1986年録音)

さて私のクラシックピアノを聴くに当たってのお師匠さん、ブレンデルによる“巡礼の年”です。
巡礼の年は、リストが若いころ旅のアルバム的に書いた曲を、後年今の形の書き直したものです。
そして“第1年スイス”は正に旅先での風景・史跡に感化されたリストがその描写、さらには心象の描写を主に試みた作品だと私は思っています。

そして、今回改めてこの演奏を聴いてみて感じたのは、「なんというしなやかで感じやすい演奏なんだろう!!」ということ。
これは今回の3枚のディスク全てにいえることですが、私が独墺系のレパートリーにベートーヴェンのソナタ以外で初めて触れたのがこの“巡礼の年”のCDでした。
これらは初めてとっかかりに聴いたピアニスト“ブレンデル”の得意な楽曲ということだったので、その方向に手を広げた訳です。
それまでに既に野島稔さんで“ロ短調ソナタ”は耳にしており、今の私がリゲティやらシェーンベルクを聴くよりも晦渋な曲という印象を持っていたので、“聴きやすい小品集”であるこれらにしたのです。
それにもかかわらず、最初は以前にも書いたようにまったくよそよそしいものに思われました。
私は部屋を真っ暗にして、修行するかのように何日か理解しようと聴き続けました。「この曲の良さが理解できなければ、オレはこれらの曲を聴く資格が与えられない」と思い込むぐらいでしたので、結構必死に聴いたように思います。
しかし、残念ながらそのときには曲の真髄に触れることはできませんでした。

今回聴きなおしてみてムカシの努力の甲斐があったのか、ブレンデルの素晴らしくセンシティブな側面まで聴き取ることができました。。。
多くの曲、多くのピアニストの演奏に触れて、それぞれ感動を重ねてきたことで、私のほうに知らない間にレセプターが出来ていたのでしょう。
そんなわけで個人的には、この記事のテーマは“Discover Brendel”だと思っています。
やっぱり素晴らしいピアニストだったんだと再確認。心にビンビンきましたねぇ~。

“ウィリアム・テルの礼拝堂”では、孤高の勇者のヒロイックなところはもちろん不退転の気概を感じます。強音をハーフペダルで処理することで、決然としたキッパリ感を強調したり、次回ご紹介するボレットと比較すると“清新さ”においてブレンデルのテルのほうが頼もしい。
切れ目なしに“ワレンシュタートの湖にて”に移ると場面が一転、“パストラール”や“泉のほとりで”では音色美の極致という感じ。水面に反射する光を思わせる音型などまさにキラキラの世界です。
“嵐”での荒れ狂う音楽の中で左手のオクターブが強靭に暴れているのも凄い。
“オーベルマンの谷”も秀演ですが、最高に盛り上げてほしいところでなぜかタッチを浮かせてスタッカートにしてしまう・・・。ちょっと解釈は疑問です。ブレンデルのほうがよく考えているとは思いますが、私の願いとは違う・・・。
以降、冒頭での晴朗で輝かしい音が戻り、巡礼の年は静かに閉じられます。

全体を通してリストの目に映ったもの、これがリストにどのように映ったかという観点から曲を解釈しているように思われました。

ただ、後の“イゾルデ愛の死”をブレンデルが敢えてカップリングしたのはなぜでしょう?
これのみ私にもいまだに晦渋な解釈に思われるのですが・・・。
斎藤雅広さんのような、とことん入れ込んで演じきっちゃったような官能性も感じられないし、なによりこの曲を「客観的に弾いて何の意味があるのか?」と思えるような演奏でした。

しかし私もエラそーなことを言うようになったものだ!!

★巡礼の年:第2年「イタリア」
                  (演奏:アルフレッド・ブレンデル)

1.巡礼の年:第2年「イタリア」
 ①婚礼
 ②もの思いに沈む人
 ③サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
 ④ペトラルカのソネット第47番
 ⑤ペトラルカのソネット第104番
 ⑥ペトラルカのソネット第123番
 ⑦ソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」
                  (1986年録音)

さて、第2年「イタリア」では風光明媚なイタリアと銘打ってはありますが主として文学作品から受けた感興を題材に作曲されているようです。

このディスクを聴いて更に感じたのは、ブレンデルの“ストイックさ”です。
決して感情に身を任せない。感情というより気分といった方がいいのかもしれません。要するに気持ちの一定の盛り上がりまでは表現できるし違和感がないのですが、そっからさき所謂“いいところ”が客観的に醒めた眼で見られているように思えてしまう。。。
もちろん演奏がコントロールできなくなっちゃうのは論外ですが、そうはいってもある意味“イッちゃって”ほしいところでリミッターをかけられてしまうと・・・。

ブレンデルがショパンやロシア物に手を出さない決断をしたというのもうなづけるような気がしました。彼が独墺系ではなく、そちらの方面の曲を極める決心をしていたら、もしかしたらこの上なく濃厚な仕上がりになっていたのかもしれません。

1曲目の“婚礼”は、その日の朝清楚で無垢な新郎新婦が、この日を迎えるまでに両親をはじめいろんな人のかかわりの中で育まれたであろう“確かな”と信じている愛情と同じだけの不安をかみしめるような演奏。盛り上がったところなど、最高に美しいピアノの音色も手伝って感動の渦になります。
こういう客観的に他人の心象を表現するときのブレンデルは、非常に多彩です。

続く“もの思いに沈む人”。これも雄弁極まりない!!
なんと言っても沈んじゃってるわけですから、いろんなことを考えまくっているブレンデルのお手の物。彼がその客体になりきってしまえば、独墺文学的な思索の幅は斯界で並ぶものがないぐらい深い人だし、テクニック的には弾き表せないものがないぐらい恵まれた人なので、一発でハマっています。

ブレンデルには“楽想のひととき”などの著作があり私も一応持っていはいます。
なぜこんな回りくどい言い方をするかというと、読めないからです。日本語が書いてあるのですが、日本在住40年の私にも意味がわからない。ってゆうかぁ、いくら翻訳だからってこれを読んで「ムツカシクテわからん」以外に何を思えって言うんでしょうという感じです。感想があるはずがありません。
それくらい物事を考え抜いた人が、納得してもの思いに沈んだ人を表現しているのですから、そりゃ迫真の演奏になろうってもんです。

“サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ”はコミカルな人柄ながら、ブレンデルは実直にその心情をある種の気高さまで付与して明らかにしています。
これら3曲はいろいろな心情を表しながら、音色がおしなべて明るいのがなお聴きやすさに繋がっています。

そしてカンツォネッタから休むことなく“ペトラルカのソネット”に移ります。
しかし、のっけからコクるのにアセってつんのめったような感じで始まるのはなぜでしょうか?
演奏としては、それ以前の曲と比して何の違和感もありません。
でも表現できているのが、こと“愛情”それも“愛欲”的な要素を含む愛情となると、何故かブレーキがかかるように思えるのは気のせいでしょうか?
ここに先に述べた“ストイックさ”が災いしているように思えるのです。

静かなトキメキを表現するとか、あーだこーだ頭の中で逡巡するところは非常によく判るのですが、「さぁ行けー!」ってとこでどうしても音のハギレが良すぎるような気がする。。。
特に第104番、これがこの3曲中では白眉でしょうけど、もそっとねちょ~っとアヤシイ方がいいんじゃないでしょうか?
喩えはヘンだけど井上陽水みたいに・・・っていっても、ブレンデルは“陽水”しらないか・・・。

最後に“ダンテを読んで”。
今まで話したことから、この演奏が悪かろうはずがないことはお分かりいただけると思います。

★エステ荘の噴水~リスト・リサイタル1
                  (演奏:アルフレッド・ブレンデル)

1.エステ荘の糸杉に 第1番 (巡礼の年:第3年より)
2.エステ荘の噴水 (巡礼の年:第3年より)
3.ものみな涙あり (巡礼の年:第3年より)
4.子守唄 (クリスマス・ツリー:第7曲)
5.忘れられたワルツ 第1番 嬰ヘ長調
6.不運
7.眠られぬ夜(問と答)
8.モソーニの葬送
9.死のチャルダッシュ
                  (1979年録音)

今回の記事を“ブレンデル”特集としたのは、この一枚が“巡礼の年”だけではないからです。でも冒頭の3曲、これがこのディスクの白眉であることは間違いないのですが、これが巡礼の年“第3年”からの抜粋です。
この第3年は、老境にあるリストが住んでいた居宅の身の回りにあるものが題材に採られていますが、客体そのものではなくそれらを通して自身の境遇や心情を表現しているというイメージに思えます。ここでは、心の中を旅行しているわけです。
したがってブレンデルであれば、まさに全曲録音すればよさそうなものなのに3曲のみの抜粋です。
“ペトラルカのソネット”より合ってるレパートリーのようにも思えるのですが、そのような性格の曲であればこそ審美眼が厳しくなっているのかもしれません。

それとも本記事の中ではこれが最も早く録音されていることから、このディスクの好評の勢い(我が国でもレコードアカデミー賞を獲得している)で、第1年、第2年の全曲録音が決まったのかもしれませんね。

ちなみにこの曲集には、第2年の“補遺”として3曲のとても演奏効果の高い、どちらかというとその弾き映えをより多く意図したと思われる曲集がありますが、ブレンデルは当然のようにこれらの録音はパスしています。
十分に予想できることで驚くには当たりませんが・・・。

ともあれ前回の記事で、“展覧会の絵”にカップリングされた曲とほぼ同じような系統の曲をここでブレンデルは演奏しています。
その盤でもブレンデルは確かに冴えたテクニックを聞かせていましたが、多少空々しいところもありました。

ところがここでの演奏はどうでしょう!?
浄化された魂が眼前に現れたかのようです。冴え渡った音色そして“リズム”!

“エステ荘の糸杉”は単に糸杉を表現したものではなく、それに重なってリストの凛とした信念こそが明らかにされていると思わせられる演奏です。
年齢を重ねたリストは、頑迷とも思える不動不屈の精神をそこに見ています。

“エステ荘の噴水”はもちろん描写音楽としても超一級の作品ではありますが、この潤いと清らかさをどこまでも両立させた奇跡の奏楽を前にすると、リストの自負、すなわち常に自身の音楽的感性に水のように自然に振舞いながら、“新しい音楽”を志向してきて、細く太くすべての流れを通りここに至ったという自信、新鮮な気持ちをこそ聴かされるような思いがしました。

“ものみな涙あり”にしても、なんと感動的に心に響くことか・・・。

“忘れられたワルツ”、小股の切れ上がったリズム、内声の描き分けにより他にはない際立って洒脱で立体的な演奏で楽しめます。なぜかこの落ち着かなさは、ただ単に楽しんで聴いてしまっていいか問いかけられてもいるようですが。

繰り返しになりますが、最初ピアノ曲を聴き始めたころは「何でこんなものがありがたがられるんだろう?」と半信半疑だったのですが、一度耳にしておいて、他のいろんな事柄を学び心を動かされることを体験して、再度この最高の演奏に帰ってきたからこそ、その真価が感じ取れるのだと思います。

もっと年を経てから聴いたら、また違うことを感じるのかもしれませんし、きっとそうだとおもいます。とても楽しみです。いい時間を重ねなければ!!

この曲集を聴いてさらに思うのは、音そのもの・和声・表現が、聴き手の心に特定の感情を思い起こさせることを期待して作曲されるという方式の嚆矢だと思います。
例えばドラマの効果音・・・サスペンスドラマでの不気味さ・不安さを表現する音列というか、そういったものをリストがせっせと研究して作曲されているようにも感じられました。
隠居して大きな屋敷を貸し与えられても、決して枯れちゃったわけではなく、精力的に未来の音楽・音響効果の実験をしていたのであると。。。

ところで晩年のリストを、我が国から憲法の研究をするために渡欧していた伊藤博文が聴いているという話があるようです。伊藤はそれにいたく感動して、何とか日本に教師として招くことは出来ないかと言ったとか・・・。

もしリストを招聘することに成功していたら我が国の音楽教育史はどうなっていたんでしょうねぇ。
交響曲“新世界~黄金の国より”なんてのを書いてたりして・・・ないでしょうね!
ここで聴かれた、未来を志向している音楽が創造されていることで充分でしょう。


関係ないけど、我が国のウォーターガールズの先生は中国に招聘されて行っちゃいましたねぇ。

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