goo blog サービス終了のお知らせ 

SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

ショパンの旅路 Ⅵ を聴いての雑感

2006年11月27日 01時33分19秒 | 高橋多佳子さん
★ショパンの旅路 Ⅵ 「白鳥の歌」~ノアンとパリⅢ
                  (演奏:高橋 多佳子)
1.ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.3つのマズルカ 作品59
3.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
4、ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61 「幻想ポロネーズ」
5.ノクターン第17番 ロ長調 作品62-1
6.マズルカ へ短調 作品68-4(遺作) 

リスト没後120年特集を始めたばかりですが、早くもブレイクです。
出張から戻って、安曇野で高橋多佳子さんにサインをもらったこのディスクを聴いちゃったからです!

このディスクが世に出たことは大変にラッキーでもあり、ありがたいことだと思わずにはいられません。
というのは、ショパンの旅路の企画がいよいよ終盤になった時点で何かアクシデントがあったようです。突然制作会社が変わったにもかかわらず企画が続行したばかりか、収録の会場も一緒なら24bit録音(マルチビット録音)を採用し可能な限りⅤまでの条件を踏襲したうえで首尾一貫した大団円の作品に仕上がっています。
ファンとしては、本当に幸運に感謝したい思いです。

それに応えてこのディスクにおける多佳子さんの演奏は極めて充実していて、聴くたびに新たな感動を呼び覚まされます。

とにかく彼女には独特のピアノの音があるのです。彼女のブログの常連さんたちも口を揃えて私と同様、まずは何よりその“音”に魅せられたと言っておいでです。音色のパレットも広く奏法的にも思い切った表現をされるので、その“音の言葉”によって描き出される世界がとても深く豊かに彩られる・・・その世界が私の感覚に何とフィットすることか・・・。
その“音の言葉”は、正に今の時代を生きている私の世代の日本語でもありポーランド語でもありという共通言語だからだと思います。
もちろんショパンとも親しく会話ができる言葉でもあります。
何度も“ショパンの旅路”の全ディスクを通じてその言葉に親しめば親しむほど、外国語がうまくなるように、そこに盛られている何かを探り当てることができるようになっていくのです。
もはや私にとってショパン演奏は、このシリーズにたどり着いたことで一旦はゴールを切ったような思いにも駆られます。
もちろん、いろんな演奏家の演奏をこれからも楽しんでいきますけどね。

そんな多佳子さんはここでもそもそものコンセプトに則って、ショパンの語りつくせない思いをオトで代弁するという気概を感じさせ、切羽詰った思いと周到な解釈、それを可能にする余裕あるテクニックに欠くところはありませんが、遊び心とか虚飾はなしにそれぞれの曲の真髄に分け入っています。

ソナタ第3番はショパンが綿密に構成を練った作品だといわれています。多佳子さんの演奏は各楽章・各旋律の性格が絶妙に描き出されてコントラストされていますが、それがいたずらにソフィスティケートされていないことで却って素直に思いが伝わってきます。
マズルカもよく雰囲気が出ています。彼女の演奏はポーランドでも高く評価されているそうですが、日本的感覚でも最高級に美しいマズルカではないでしょうか。
舟歌も初めて聴いたときから素晴らしいと思っていた演奏です。特にコーダの最後のアルペジオ(小節の中じゅう“前打音”っていうところ)が鍵盤を駆け巡るところの出だし!!
何度聴いても胸がキュンっとします。
幻想ポロネーズも“わが苦悩”とショパンが記したという曲自体の在り方が、作曲家の声を代弁するというこの盤のコンセプトに合っているため、心情が吐露というより激白されている凄みを感じます。最後のクライマックスなど空前の美しさで炸裂している。。。
ショパン最後の野心作といっていいんだと思いますが、このディスクだけでなくシリーズ全体を見渡しても壮絶な中締めとなっています。

ノクターン作品62-2はもうあの世に半分以上行っちゃったような感じ。ここでのショパンは投げやりでもなければ人生を総括するでもない、この世に未練があるわけでもないがあの世に憧れを抱いているわけでもなく無為にそこに存在しています。すでに半透明になった魂が、これまで過ごしてきた人生の重みが彼に歩いてきた道のりを振り返らせてこの曲を遺させたのではないでしょうか。曲をこしらえるというより、ふと伏せた目を上げたときに漂っていた旋律を見つけて書き付けたのではというストーリーを多佳子さんの演奏を聴いて思い浮かべました。
そんなショパンになりきり、その世界に遊びそんな独白を描き出すということは単にピアノを弾くという行為を超えているのかもしれません。まぁ、プロの演奏家は作曲家の精神や魂とお話しするものだといわれるのなら、「ちゃんとお仕事してるのね!」って言っちゃえばいいのかもしれませんが。。。常人にはできませんな。そんなイタコみたいなコト!
最後のマズルカはエピローグ。すべてのエコーのごとく弾かれています。

最近ショパンの人生って幸せだったかどうかと、よく考えさせられます。。。
彼はピアノ音楽史上並ぶもののない大家であることに疑いありませんが、私の考えでは少なくとも生き方が上手だった人ではない。
彼自身が生まれついて持っていたもの、持っていなかったもの、そんな彼だから手に入れることができたもの、そして彼が決して手に入れられなかったもの。。。私もその多くを知っています。
私がもしその“生”を生きたのだとしたらどんな思いで終焉のときを迎えたのだろうか?
そして私は既に、彼には与えられなかった時間を生きる年齢になっている。
ただ、彼の遺してくれたものが自分の人生をとても豊かにしてくれていることに思いを馳せるときには、自身の芸術に最後まで殉じてくれた彼に感謝を禁じえません。
おっとそれを届けてくれる演奏家の人たちにも感謝しなくちゃね!


さて、日本人によるショパン晩年の作品集といえば園田高弘さんのディスクが真っ先に思い浮かびます。
作品57の子守歌から始まって作品61の幻想ポロネーズで終わるというプログラムを見た瞬間かっこいいと思いました。ずいぶんと楽しませてもらいましたが、今思えば演奏はやはり私のオヤジの世代のそれだと思います。
園田さんはもともと折り目正しい構成感を追求される弾き手であり、ショパン演奏としてはややよそ行きで画然としているように思えてしまいます。
そして私の時代には。。。 ちゃんと私の世代の弾き手が現れてくれました。
先に述べたようにショパン・ポーランド・日本・19世紀半ば・現在をシームレスに繋ぐ音による言語をもって演奏してくれるピアニストが。。。
嬉しいことです。

ところで私は新婚旅行で8日間のパリ旅行に行き、さまざまな景勝地とともに念願だったショパン所縁の地のいくつかを訪ねることができました。
ショパンは1849年の10月17日に亡くなり30日に葬儀が行われたのですが、亡くなったヴァンドーム広場に面した部屋(ショーメという宝石店になっていた)、葬儀が行われたマドレーヌ寺院、埋葬されたペール・ラシェーズ墓地にあるショパンの墓などを見て回りました。ピアノが上達するようにと祈ってみたものの、練習しなかったおかげでやはりかなえてもらえませんでした。(^^)/
ショパンもやはりしゃにむに練習してたのかなぁ? 努力せんヤツは許さんって思われちゃったのかもしれません。

下の写真はそのマドレーヌ寺院で買い求めた、新婚一発目に手に入れた記念のディスクです。
マドレーヌ寺院据付のオルガンで演奏されています。

★LA MADELEINE ET SES ORGANISTS
                  (演奏:フランソワ・ヘンリ・ヒューバート)

マドレーヌ寺院のオルガンはショパンの亡くなった年に設置されたようで、葬儀の際にはそれでショパンの24のプレリュードの第4曲、第6番が演奏されたといわれているようです。
後年、フォーレがここのオルガン奏者になっているほか、かの“レクイエム”を初演している場所でもあります。
オルガンは1923年に改装されているとはいえ、これだけの歴史を持っているのですからその演奏には大変に期待して手に入れました。なかなか壮麗ながら重々しくないサウンドが楽しめます。
ただ、唯一知っている曲であるフォーレのノクターンが、レゲエのリズムに乗っているみたいに聴こえてしまうのはいただけませんでしたなぁ。弾き方もそうだけど(ハモンドオルガンで後乗りのリズムをつけているような感じ)、音色のせいでもあるんじゃないかとおもうのですが。。。
まぁオルガンに関しては弾き手の個性を云々できるほどまだよく分らないのが正直なところですから、これ以上偉そうにいうのはやめにします。

ショパンの葬儀に際しては、楽団は彼の愛好したモーツァルトの“レクイエム”を演奏したようですね。私はフォーレのそれのほうが好きですが、ショパンが亡くなったときはまだ作曲されてなかったわけで。。。
どっちみち、死んじゃったショパンは聞けるはずなかったんだから関係ないか?

さて、リスト没後120年特集へ戻るインタールードを少々。。。
ショパンのピアノソナタ第3番(ロ短調ソナタ)は本当に多様な要素を巧みに織り込んで作曲されていますよね。
例えば第1楽章では、例の“ちゃららららん”という下降旋律から始まって、シンフォニックな和音のメロディーあり~の、魅惑の旋律あり~のに続いて、展開部ではそれらのエコーまで聞こえちゃうという凝りよう。メロディーがどんどんずれてずれて横滑りしていく感じで、初めて聴いたとき(奏者はアルゲリッチ)は悪酔いしそうでした。
普通の作曲家であればソナタ3曲分ぐらいのテーマが、惜しげもなく放り込まれているのではないでしょうか? エチュード・プレリュードを見ればわかるように、このころまでのショパンの霊感の泉にあるメロディーは枯渇することを知らなかったので、それらを老獪に纏め上げることができたなら、こんな聴きどころ満載、大量コンテンツによる極彩色の万華鏡的展開になっても不思議はありません。

翻って、リストの唯一のピアノソナタもよく“ロ短調ソナタ”として並び称される作品であります。
発表当初はいろいろな評価があったようですが今や遍く傑作の誉れ高く、音楽史上に不動の地位を確立しています。
しかしショパン作品の豊かさとは違って、ここではある種の深さが追求されています。
というのは、構造上はソナタといって差し支えないのでしょうが単一楽章(少なくとも切れ目なく演奏される)で、何より主要な主題は3つぐらいしかない。それで30分の曲に仕立て上げられているのであれば、深くならざるを得ないでしょう。。。
厳選素材(?)をソナタの構造に当てはめて、なんどもかんども手を代え品を代えして繰り出しているわけですが、なぜかとても聴きごたえのある曲として聴けちゃう。。。
それでも私の最も好きな曲のひとつです。それはおいおいご理解いただけることと思います。

ショパンのロ短調ソナタと同様、曲頭下降旋律の第一主題で始まりますがテンポがまるで違う!(^^)/
こんな調子でリストがショパンのロ短調ソナタの素材を全部使って作曲したら、ワーグナーのリングみたいになっちゃう。。。かも。

ジャン=マルク・ルイサダがとても興味深いディスクを発表しています。

★SONATAS
                  (演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)

1.ショパン:ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.リスト :ピアノソナタロ短調
3.スクリャービン:ピアノソナタ第9番 “黒ミサ”
4.ショパン:12の練習曲 作品10-3 “別れの曲”

ショパンとリストのロ短調ソナタを並べたうえで、ショパン・リストの末裔のひとりがどうなっていったかを確認するにはナイス・アイデアのプログラムだと思います。
その末裔とはスクリャービンであり、ショパン、リストの没後さらに時代が下ったのちに現れふたりの精神や技術を継いだところをふりだしに創作活動を展開し始めます。
ソナタでは第2番、第3番などが人気も高いし私も大好きですが、彼にとってこれは序の口。どんどん自身の芸術に磨きをかけていきます。
そして第5番あたりで、「とーとーいっちゃったか・・・」という感じになり、ここに収録されている第9番あたりまでくるとさらに“いっちゃって”黒ミサ・白ミサだのいわれるイカレた世界に到達し、やがて消えていきます。
最後の“別れの曲”はこの流れからすると“なんでやねん”ですが。。。

さてさて、ルイサダの演奏はデビュー時から個性的というよりクセっぽかったとおり、ここでもおよそエレガントではありませんねぇ。BMGへの移籍盤のフォーレなどはまだよかったのですが、風貌も含めてときとして“イカレテル”と思えなくもないルイサダがこの盤にはいます。デビューしたころはちっちゃなイタズラをしてイキガってたチンピラが、少しハクがついて凄みを帯びてきたのかな。。。っていうイメージを抱いてしまいます。
例えが、あまりにも申し訳ないのですが。。。
真摯に研鑽を積んで、その成果を世に問うているのはわかります。
でも彼の着眼点は、ショパン・リストのあら捜しに通じる部分ばかりにフォーカスされているように思えてならないのです。
彼と私の相性が悪いというより、信奉する“正義”が違う。という感じ。。。
ウルトラマンの論理とバルタン星人の論理がかみ合わないような。。。
私にとってのアンチテーゼともいうべき演奏。
ボロクソに言っているように聞こえるかもしれませんが、アンチ巨人の人がジャイアンツについて語っていると思ってください。その存在について認めてはいるのですから。。。
ウルトラマンとバルタンの例えも、どちらがウルトラマンとは言っていません。
気持ちの上では双方自分がウルトラマンというに決まっていますけど。。。

さて、このショパンのロ短調ソナタはちょいと遅い!
提示部の主題を繰り返さないですが“ねちょーっ”と弾いているため10分余りかかっています。提示部の締めくくりがアラウが弾いていた遺稿によるのに対し、楽章の終わりは通常通りに弾き終えるのが不思議です。そういえばサハロフも同じコトをやってましたが。。。
リストもちょっとお品がよろしくないように聴こえてしまう。
オト自体そもそも聴きなれない音符が聴こえる。いくつか気になったのだけれど、一例を挙げれば最後の3つの弱音の和音の直前のフレーズの頭が半音低いのではないでしょうか?そういう版がたぶんあるんだろうけれど、何もその版で弾かなくてもいいのにって感じがします。「こんなの見つけてきました!」って知ったかぶりしたいんだろうとも思えてしまいます。
自分にも実は似たような気質があるので、反発しているのかもしれません。
だとしたら、反省しなくちゃ!という思いもありますが。。。
でも、この演奏にはデビュー時の彼にはなかった、迫力というか骨太な部分をクライマックスの前後に感じることができます。
スクリャービンはイッちゃってる感が必要な曲であるため、最もしっくり聴けました。
そして、別れの曲、プログラム的には「何でここに?」って言う感があります。
これもじっくりしたテンポでという点はこれまでの演奏と変わらないのですが、万感の思いを込めて弾かれているという一点において、とても共感できるいい演奏であると思います。
確証はないのですが、この曲にも中間部通常の楽譜と違うのではないかというように聴こえるような気がします。思い込みかなぁ~。。。

さぁてと、予告編はここまでにします。。
特集に戻ったら、まずリストの“ロ短調ソナタ”を追いかけていくことにしようと思っています。

Other “あづみ野” Stories

2006年11月15日 19時54分58秒 | 高橋多佳子さん
★ショパンの旅路 Ⅳ 「サンドとの愛」~ノアンとパリⅠ
                   (演奏:高橋 多佳子)
1.ピアノソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」
2.即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品36
3.ポロネーズ 第5番 嬰へ短調 作品44
4.タランテラ 変イ長調 作品43
5.バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.ノクターン 第13番 ハ短調 作品48-1
7.3つの新練習曲
8.前奏曲 嬰ハ短調 作品45
                   (2002年録音 スタインウエイ使用)

高橋多佳子さんのサインは14日の紀尾井のコンサートの際にいただいてホヤホヤのものです!

“あづみ野コンサートホール”における高橋多佳子さん(以下“多佳子さん”)のリサイタルは、既に記事にしたとおり大変にステキなもので、私をとても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。
そこまでならば「まこと期待通りであった」といえば済んだかもしれませんが、この安曇野行脚では本当に思いもよらないもうひとつの成果がありました。
それは多佳子さんを囲む素晴らしい皆様と出会えたことです。それにリサイタル翌日には-後述しますが-望外の体験までさせていただくことができました。
感謝の気持ちを込めて、記事にまとめてご紹介させていただきたいと思います。
後半に、予告したとおり安曇野での体験を踏まえてオーディオ談義を展開してみたいと思います。



まずは、“あづみ野コンサートホール”にて。。。
長谷川館長ご夫妻。
詳しいプロフィールはHPをご覧いただくとして、熱い思いが安曇野の地にベーゼンドルファーのピアノと素敵なコンサートホールをもたらし、多佳子さんのコンサートをはじめ数多くの企画を実現されています。とても親切にしていただきました。私のように思わず感謝したくなるような出会いのきっかけを、これまでにいくつも作ってこられたのだと思います。
本当にありがとうございました。

また、F女史にはたいへんご無礼をしてしまったと恥じ入っております。
あろうことか(後で聞いたのですが)日本ベーゼンドルファー社のやんごとなきかたに向かって、ベーゼンドルファー社が先立って発売した高級スピーカーの講釈を垂れてしまいました。(爆!)
でも、東京ハイエンドオーディオショウのデモで聞いたVC2の音色は、とても素晴らしいものだという感想はウソ偽りありませんのでひらにご容赦を。。。
また、くだらないオヤジギャクをかましてしまったことも重ねてお詫びをぉぉぉ~~。
スミマセンでしたぁぁぁ~。
磐田市の日本ベーゼンドルファー社の本社にあるという、コルトーと遠山慶子さんが相対で弾いたという連弾用ピアノ(?)はぜひ見てみたいものです。
こんなお話が伺えたことを大変に嬉しく思っています。ありがとうございました。

リサイタルのときお隣で、宿泊場所までお車で送ってくださったTさんにも御礼を。。。
昨年の多佳子さんのコンサートもお聴きになってらっしゃるらしく、「昨年は荒削りなド迫力の、今年は緻密に彫琢され完成された“展覧会の絵”を楽しんだ」とか。。。
このうえなくウラヤマシイと思わせられました。
ド迫力のバーバ・ヤガーは渋谷のタワレコで聴きましたが、あのベーゼンドルファーでのド迫力ってどんなんだったんだろう。。。
でも、宮谷理香さんとデュオでのくるみ割り人形を聴いたことを羨ましがっていただいたのであいこかな・・・
オーディオにも明るくていらっしゃり、興味深いお話を伺えました。ありがとうございました。

そして、Uさん。
日曜日にはご自宅までお邪魔させていただき(しかも送迎つき!)、素晴らしいシステムで多佳子さんの音源をはじめとするさまざまなソースを聴かせていたうえに、多くのことをご教示いただきました。
その全てが私にとってとても重要な情報であり、お宅で聴かせていただいた音は鮮烈に記憶に残っています。
実は、これまで永くオーディオの情報を見聞きしてきましたが、本当にオーディオを楽しんでこられたかたのパフォーマンスに直接触れたことはありませんでした。
素晴らしい音楽再生に触れさせていただいたばかりか、私に分かるようにご説明をいただけたこと、言葉に尽くせないほど感激しています。

また私が「これまで途方もない分量のクラシック音楽のディスクを耳にし海外のスター奏者の演奏に感嘆しつつも、高橋多佳子さん始め真摯に自分の芸術に取り組んでいる“我が国の”奏者にこそより深い共感を覚えるようになった」と申し上げたところ、賛意を示していただいたことは最も嬉しい瞬間でした。

生の演奏会を聴くことの大切さ、ソースにおける雰囲気情報がいかに大事かということを実際の音とともに明らかにしていただいたことで、自分がどのような音を志向してディスクを耳にしていったらいいのかをイメージするヒントをいただけたような気がします。
本当にありがとうございました。

もしも私がどんなシステムで聴かせていただいたかご関心おありのかたがいらっしゃれば、ステレオサウンド別冊の管球王国第42号で特集されている2名の愛好家のうち、安曇野氏在住のUさんの紹介記事をご覧ください。
ご自宅のリスニングルームで、自作の管球アンプを用い“世界にここにしかないスピーカー”を駆動されています。アルテックの4発のウーファーのサウンドを土台にオンケンのホーンなどで構成される高能率スピーカーの威力はすごいです。まさに打ちのめされました。まさに「部屋になじんだ音」という感じでしょうか。とても自然な音で、こういう音をノーカラーレーションというのかと思いました。
U様のようにとても自然に音楽再生に臨まれている皆さんはこんなレベルで音を聴いていらっしゃるのかと思うと、もう少し居住いを正さないといけないなと。。。

というのは、私は今までいろいろなスピーカーを聴いてきましたが、無意識に聴こえない音をイマジネーションで「ある」と思って聴くのが当たり前になっていました。逆に出すぎた音は頭の中で補正してという作業をするのも当然のことと思っておりました。
このブログでも、実演を聴くのはディスクを聴くときのイマジネーションの引出しを増やして深く豊かに聴けるようにする目的があるといい続けてきたとおりです。
ところが、このシステムの前では、眼前にある音が全てでまったくストレスがない。。。
少なくとも頭の中で何かを足したり引いたりしなくてもよいのです。とてもスムーズに音が発せられているのでかかっている曲の要請がない限り、サウンドは声高にその個性を主張することもありません。まさに音が出ているのではなく、部屋とともに「そこにある」という感じでした。
ピアノぐらいならそこで鳴っているといわれても信じられるくらい。
最も驚かされたのはプッチーニのオペラで、カレーラスの歌はどこまでも伸び弦楽器群はまさに「織り成す」というサウンド、コントラバスが弾み、ティンパニもオーケストラサウンドに溶け合いながらその輪郭がいささかもぼやけない。。。 私のこれまで聴いたシステムであったなら、たとえ全部聴こえたとしても「ギュー詰め」という印象を免れないものになってしまったに違いありません。
ピアノ演奏における多佳子さん同様、音楽再生に関してUさんにはまだ登るべき高み・課題があることが見えているのだろうと思いますが、私にはここまで登り詰めることができるのかと思わせられるばかりでした。
いまどきの言い方をすれば、相当「パネエ」取り組みをしないと足元にも及ばない。。。まぁ、競争じゃありませんからできることを楽しんでボチボチやっていくしかないのですが。
なんか、Uさんのお宅で鳴っていたような自然な音楽を雰囲気良く再生できるシステムを入手・ブラッシュアップすることは、私がハンマークラヴィーアソナタやらラフマニノフのコンチェルトを弾きこなせるようになるのと同じくらいの難易度があるようにも思えてしまいます。

そのUさんも先だってまでは私同様会社勤め、いえ私など比較にならない重責を担われてきた方です。そんな環境の中で機器の自作、トランスのオーダー・調整など気の遠くなるような過程を経て今の音にたどり着いておられる訳で、私も先ほども述べたように無理はできないとはいえ、どうせやるならエクスキューズなしで取り組まなくちゃダメじゃないかと痛感しました。
私が「知るは好むにしかず」のレベルだとすると、Uさんは間違いなく「好むは楽しむにしかず」の境地をいってらっしゃる。
今さら「半田鏝を持とう」などと思うことはありませんが、所有する機器をあらゆる手段で状態をいい方向に追い込んでいく中でできることは努めて実現したいものだと。。。“道楽”であっても勇気を持ってやりたいことをやり楽しい人生の時間を積み重ねたいと思います。


さて、実はUさんは多佳子さんの要請を受けて安曇野でのリサイタルを録音されています。多佳子さんは今後の演奏会の勉強の材料にするおつもりだったようです。そしてこの記録は多分すでに紀尾井での演奏に生かされ、これから先の演奏の中にもきっと生かされていくに違いありません。

録音はPCM方式とDSD方式の2系統で行われており、両方式の音を聴かせていただくことができました。行き届いたシステムで聴くと方式の違いにより音の“質感”が違うことがハッキリと分かる。。。

余談ですが多佳子さんにはPCMのディスクのみ届けられています。が、私は双方の音源を聴くことができました。「多佳子さんでさえ聴いていない音源を。。。」と思うと理由もなく頬が緩む私はやはり小市民。。。(余談終わり)

まだ真新しい実演の記憶のうちに録音と照らしあわせてみて、実演の印象を再確認することができたところがある反面、実演では印象に残ったのにフィードバックでは顕著に聴き取れなくなっていたところが思いのほか多いことに驚かされました。
以前の感想を述べた記事で、「あのとき」「そのとき」と断ったのはこのためです。再生音を聴いたときに、印象が変わったことは実は少なくありません。
このことから「座席の位置による音の変化、ホール全体の雰囲気などはいかに精密な録音装置でも同じ感想をもたらすように収録することができない」といえるのではないかと思うのです。仮に“収録”ができたとしても視覚情報などは不足しているため、同じ感興をそそられるところまで行かないのではないでしょうか?
総括すれば、「目から入った情報・会場の雰囲気情報は一度限りのものであり、演奏中の奏者・聴衆と共有した思いはそのときに味わいつくすほかない」ことが証明されたと感じた、ということになります。

実演が“一期一会”であるという確信は、早くも紀尾井のリサイタルに臨んだ際の私の態度にフィードバックされました。その場をいかにしてより楽しいものにするかと考えたところ、自分の興味本位に、それこそ全ての音を“舐めるように”聴くのではなく、演奏者を信じて応援するような気持ちで聴くとよいのではという思いに達しました。実践したところ、果たして自分も楽しめる幸福な聴き方ができたと思います。


ところでUさんのシステムでは、安曇野リサイタルの音源からモーツァルトK.333とアンコールのラ・カンパネラ全曲、ラフマニノフのソナタは第1楽章、展覧会の絵からは冒頭のプロムナードを聴きました。
ここでは高橋多佳子というピアニストが、いかにひとつひとつの音にそれぞれの役割を演じさせようと働きかけているかが改めて実感できました。
実演に触れているときはひとつの所作に耳目が行ってしまうと、並行してあるいはわずかに後に施されている演奏上の仕種などを聞き漏らしてしまうんでしょうかねぇ。。。
振り返ってモニター的な聴き方をさせていただいたことで、多佳子さんの演奏ではひどくたくさんのことを一度に成し遂げようとされているものだと仰天するとともに、聴き逃していたことに気づくことができてホッとしました。

それら実演の音源とあわせ、多佳子さんの“新譜”と小山実稚恵さんが弾くラフマニノフのソナタの第1楽章(ソニー盤)、上原綾子さんの弾く展覧会の絵冒頭のプロムナード(エアチェックされたものでポーランドの“ショパンの家”でのライブ録音)聴き比べさせていただきました。
それぞれの奏者の解釈の違いもさることながらここでは録音の質感をテーマに聞き、Uさんと意見を交わさせていただいたのですが、結果として私には「演奏している場の雰囲気の再現」というテーマ俄かに浮上してきたのです。

そしてそれは、聴きなれたディスクの再生時に決定的に実感されることとなりました。
それはUさん所有のトライエム盤“ショパンの旅路 Ⅳ(記事冒頭の写真はエクストン盤の私の同じディスク)”からピアノソナタ第2番第1楽章、私が持参していたトライエム盤“ショパンの旅路 Ⅴ”からバラード第4番をかけていただいたとき、“トライエム盤”と“エクストン盤”(オクタヴィアでリマスターされた盤)のサウンドの差が話題に上りました。
新譜をはじめとするエクストン盤では、多佳子さんのピアノの音をヴィヴィッドにクローズアップして“分かりやすく”提示してくるのに対して、トライエム盤はヴィヴィッドさはわずかに後退するものの録音会場であるワルシャワ・フィルハーモニー大ホールのロケーションをより自然に感じさせるような雰囲気で鳴ることに気づいたのです。

もちろんこれはどちらが良いとか優れているという話ではありません。
多佳子さんも仰っているようにディスクは演奏家だけで製作されているものではなく、ディレクターやエンジニアの作品でもあるわけですから、そのかたがたの音への指向が当然に反映されるでしょう。殊に新譜の場合“渾身の一撃”というアーティストの強い意志が希求されているわけですから、ストレートアヘッド(言い過ぎはわかっています。トライエム盤のサウンドの傾向との比較論)な音はまったくコンセプトに沿った選択であり、見事に要請にこたえているともいえます。それはそれで素晴らしいことです。

でも私としてはトライエム盤の雰囲気も捨て難い。
U様の機器で聴けばちゃんと違いがわかってしまうのだから。。。
いつか私の“システム”と“聴く耳”がいまよりも成長した暁には、そのときの気分によって“クローズアップ”・“雰囲気”をチョイスして楽しみたいものです。
というわけで、トライエム盤を手に入れられるようなんとか手を尽くしてみよう。。。


いまひとつ私が思ったことは、ディスクが製品として出来上がったときの音は、アーティスト&ディレクター・エンジニアがモニタースピーカーからフィードバックされた音を聴いて決められている訳で、使用されている機器の性格に大きく影響されているのではないかということ。
それが自宅で聴くときの装置と違うという時点で、同じ再生音が耳に届くということは事実上ありえなくなる。。。(もちろんまったく同じ音で聴かなければならないという命題はどこにもありませんし、それを目指したら多様性のないシステムになってしまう。。。)

実は紀尾井ホールのリサイタル終了後、多佳子さんから新譜のディレクターであるオクタヴィアレコードのOさんをご紹介いただき、何をしゃべったらいいか分からないまま(!)「これからもいい録音をお願いします」とご挨拶させていただきました。(私に言われるまでもなく当然にやってくださってますけど。。。)
その際にお伺いしたところでは、新譜録音時のモニタースピーカーは私が予想していた“B&W802”ではなく、“GENELEC1031”とのことでした。
このモデルは既に次世代機種にモデルチェンジしているから、もはや手に入りません。

こうなると家で再生するときに目指す音のベクトルを決めるために、市販のディスクではなくマスターを一度“GENELEC1031”で聴くことができると一番いいんだけどなぁ。。。独り言です。

とにもかくにも、現状を思えばそれ以前に「せんとあかん」ことは山積しているのでそれを片付けないうちに何を言っても「ちゃんちゃらおかしい」のですが。。。
本当にさまざまなテーマに気づかせていただいたUさんに改めて感謝申し上げます。
ありがとうございました。


なおUさんのシステムで聞いたショパンの葬送ソナタ第一楽章は、ホールの雰囲気をよく伝えるとともに、ショパンの魂の叫びを伝えるかのようでした。殊に中低音が我が家で聞いているものとまったく違う。自然でありながら神秘的で深い音、そして主題をリピートした際にさらに深い音色になっているところなど、多佳子さんの施したわずかな工夫すらあまねく再現していることが実感できました。
演奏・再生ともに文句なし。実はこんな音が詰まってたのねぇ~って感じでした。
もちろん、この曲だけでなくディスク全体を通して多佳子さんの素晴らしい演奏が繰り広げられていますよ。
私にとってのスタンダードになってしまっているので、最高の演奏としか感想が述べられないのですが。。。
ただ、葬送ソナタの前奏の終わりから右手単音の第一主題がでるところまでの拍がどうしても取れない。いつも出だしだけ“???”となってしまう。。。
どぉしてなんだろぅ???
テーマディスクですから、一応ちょっとだけ思うところを書いてみました。

ともあれ“たいへんなものを聞いてしまった。エライことになった”というリサイタルでの銅鑼の音の印象は、そのままU様の家のサウンドを聴いての印象にもあてはまることとなったのでした。
まずはトライエム盤の物色からですねぇ。。。

高橋多佳子ピアノリサイタル in 紀尾井ホール

2006年11月14日 23時59分59秒 | 高橋多佳子さん
11日のあづみ野に続き、14日に紀尾井ホールでの高橋多佳子さん(以下“多佳子さん”)のリサイタルに行ってきました。
結果的にアンコールまで含めて、3日前とまったく同じプログラムでした。
そして今日もまた多佳子さんは全身全霊を傾けて素晴らしい音楽を作ってくれました。とっても嬉しく思います。
今朝多佳子さんのブログに「今日は応援しながら聴かせていただく」と書き込み、そのとおりにしたつもりですが、結局は単純にとても楽しんでしまった。。。


いちばんの感想は「いろんな場所、いろんなピアノ、いろんな条件下で演奏しなくてはならないピアニストは大変だぁ~」です。

4日のうちに、同一のピアニストが同一のプログラムを演奏するのを聴いて「何か新味があるのか?」とお思いになるかたもいらっしゃるかもしれません。ですが、私には当初予想したとおり、いえそれ以上にまったく別物に聴こえました。
そしてそれぞれがかけがえのない音楽体験として私の心に刻まれました。

実際、双方のリサイタルに行くための障害は時間が取れるかということだけでしたが、これはやりくりできました。
(旅費とかは「何とかしようと思えば何とかなる」ものだと・・・。何とかするのはこれからですが。。。)
最初思ったのは、あづみ野コンサートホールのピアノはベーゼンドルファーの銘器であり、紀尾井ホールは国内有数のホールが有するスタインウエイであるということ。ピアノが違う以上、出来上がる音楽も変わるだろうと。その違いを楽しみたいと。。。
スタインウエイは野外などでも演奏できるように、音が遠くへ飛ぶような音色・特性があり、ベーゼンドルファーは室内のサロンなどで演奏されていたピアノをその特徴を生かしたうえで音量や音色などを大きなホールなどでも対応できるように改善・改良していったものだと聞いていました。で、果たして今日はその音の相違はハッキリと聴き取ることができました。もちろん、ディスクで聴きなれた音は今日のスタインウエイのそれです。

ただ私が聴感上それ以上の差の原因だと感じたのは、ほかならぬ“ホール”です。
あづみ野コンサートホールは約100名ぐらい、紀尾井ホールは数百人は収容できるホールです。広さがまったく違う。。。
私は12列目の15番という1階の真ん中より若干後でホール中央よりやや右側という位置でした。電話で予約したときにイメージしたのとほぼドンピシャ。ホールのエコーをある程度感じられ、ピアノの直接音は響板にはね返ってピアノの右前に飛び出していくということでやや右側を選びました。

要するにピアノとの距離感が違うことにより、ピアノ固有の音色の差と相まってあづみ野ではピアノの直接の音色が多く、紀尾井では壁に反射した間接音をたっぷり含んだ音色を聴いたということになります。
また、紀尾井ホールは舞台奥の壁が半円状に奥まっている。。。低音域の音が余計に後に行ってしまい、良く言えば雰囲気のいい音になり、悪く言えば音の輪郭が聴こえにくいエッジのきいていない音になりかねない。。。

この条件はモーツアルトのように、和音の数が少なく流麗なスケールが鍵盤を駆け巡るような曲においては、多佳子さんの弾き出すよく粒立ちがそろった右手の単音の連なりは、鈴を転がしたような美麗な音となりゴージャスに雰囲気よくなるという効果が期待できます。
反対にラフマニノフのように音数がやたら多く、和音にも効果的にとはいえ、不協和の音がいっぱい入っていると、音が混濁して収拾がつかなくなるのではという懸念があるのではないかと。。。
そこをどうされるのか。。。期待と心配が半々。
展覧会の絵など中低音で強打した音の余韻がのこっている上を高音域で旋律が走るような場面もあるので、余計に心配でした。。。

でも当たり前の話ですが“高橋多佳子”はそれを十分に心得て、その条件下で最善の音楽を聴衆に伝えるべく一心不乱に演奏してくれたと思います。


前半、先般りかりんさんとのデュオの際にオソロで着てらっしゃった赤のドレスでご登場。。。
まずモーツァルトのK.333。
最初さりげない入り方で始まりましたが、やはり少々緊張されてたかもしれません。でも音響はプログラム中の曲の中では最も有利と思われる条件であることも手伝ってか、雰囲気のよい演奏。
そして第一楽章の再現部、旋律の霊感に満ちた音色が会場に流れ出るや、3楽章の終わりまでとても幸福なモーツァルトとのランデブーを楽しませていただきました。特に第2楽章の中盤以降はなおさら幸せなモーツァルトとの邂逅があり、うっとりと聞き惚れたものです。

さあ、音響の渦がいっぱいのラフマニノフのソナタ。
これはいささか驚きました。解釈が違うということはないだろうと思いますが、特に第一楽章中間部、テンポが以前の演奏と違っていたんじゃないかと思えるくらいタイム感を長く取っておられたのではないでしょうか?拍節のうちの長さは変わらないわけですが、その中の時間の感じ方だけをじっくり目に捉えるようにされたように思われました。
理由はそうしないと音が混濁するからではないかと。。。
また、機銃掃射のような音のシャワー(?)は主にペダルの操作によって背景の音として溶け込ませるものと、ブリリアントに際立たせるものを一層明確により分けて弾きわけておられたように見受けられました。ただ、意識されてたのか、結果的にそうなったのかはわかりません。
その結果反射音で響きはより豊かになっているのに、旋律を構成する音に関してはハッキリと聴き取ることができました。そしてディスクやあづみ野では元気良く粒だっていた音の一部がお行儀良く主役の旋律を支える和音の中に溶け込んでいるのをも聴くことができたように思います。
ラフマニノフの2番ソナタ第1楽章の中には、クライスレリアーナの第1曲を思わせるパッセージが出て来るように思われますが、これに気づかせてくれたのが多佳子さんのディスクでした。今日の演奏では、そのパッセージの自己主張が少なく絶妙に背景の音の中に溶け込みかかっていい雰囲気になっていたと思います。
そして、ここでもロマンチックな第2楽章は厳格なテンポのうえで細心の彫琢を施されながら歌いに歌い、第3楽章も拍節の間の時間をたっぷりと感じながら弾き上げていかれました。
ただご本人が仰っていた「炸裂する」ように聴こえるためには、残響が多すぎてここでも雰囲気良く鳴ったという感じではありましたが。。。

そして後半。
先日のあづみ野のときと同じお洋服。。。したがって、冒頭の終演後の写真も先回と同じお姿であります。
これは、展覧会の絵のサプライズでイスから立つときに便利なのでという洋服のチョイスではなかったかと。。。勝手に考えてます。

その展覧会の絵ですが、これはディスクに極めて忠実な演奏が実現されていたのではなかったかと。。。
音色など特にさすが同じスタインウエイらしくとても似ていたと思います。ただ私の座った位置からだと、残響はディスクより実演のほうがはるかに多め。
あづみ野で感じたプロムナードのペダルによる音作りについて、今日聴いた限りでは特に顕著な違いが聴き取れなかったように思います。演奏が本当にそうだったのか、ホールの音響上効果が聴き取りにくかったのかは分かりません。ただここでも音にきちんとした役割を与えてそれを極めて厳格にコントロールする多佳子さんは、ひとつひとつの音の性格付けを念入りかつ慎重に施していっていました。殊にペダルを踏み込んで音色を輝かせるとき、テンポがスローで響の背景のうえに旋律の音を置いていくときなど、物理的にそれを実現するためにいつもよりやや背中を丸めて思いを込めておられているように思えました。
ここでも残響がせっかく施された性格付けを、聴き取りにくくしていたようにも思われます。でも、脱力から生み出されるスコーンと抜けた気持ちいい響きがあったかと思うとふっと抜いた表情付けで惹きつけられることもあり、十分に楽しく聞かせていただくことができました。

そして終曲がキエフの大門であることは、スタインウエイ・大ホールという条件に最適だったのではないでしょうか?
和音は厳かでありながら華麗に響き、圧倒的な迫力を味わうことができました。
そしてサプライズの銅鑼。聴いてる周りの人はだれも特殊なことをしているとは思わなかったようです。楽譜に元からそう書いてある奏法と思っていたのではないでしょうか?
それほど自然で、曲の雰囲気・最後の盛り上がりを表す効果として貢献した工夫だと思われていたのではないかと考えます。

アンコールは本当に「お楽しみタイム」でした。
トルコ行進曲は今日も私にピッタリのサイズ。例の旋律を中間で弾かれた際にリピート後の音量が密やかになりふっと耳を寄せた瞬間、トゥッティのオクターブが元気に明るく響くなど説明すると当たり前のことなのですが、実際の音を聴くと思わず口元が緩みそうな効果を持って聴こえるのは凄いことかも知れません。
前打音の置き方も私には非常におしゃれでイケてるものに思われました。そんなところが、しっくりきたのかなぁ。

最後のラ・カンパネラも、エクスキューズなしの名演奏だったですね。曲が終わって私もそうでしたが、周りの方からもとても充足感が伝わってきました。

終演後サイン会に長蛇の列。。。
今日はマジックが金色だったら“ショパンの旅路Ⅳ”に、黒だったら“Ⅲ”にサインをもらおうと思い、2枚持っていきました。そうしたら、何種類も何本もマジックがある。。。さすが。。。
結局金色で“Ⅳ”にサインをいただきました。これもまた、エピソードを考えて遠からずアップしたいと思います。
オクタヴィアのディレクターの方をご紹介いただけたことで貴重な情報をお伺いすることができたり、マネージャーのU山さんにもいろいろお話させていただけ予定完遂という感じで帰途につくことができました。


今日もやはり「今日も本当に幸せなひと時をありがとうございました。栄村でもがんばってください。」とお礼を申し上げたいと思います。

高橋多佳子ピアノリサイタル in あづみ野コンサートホール

2006年11月13日 23時41分42秒 | 高橋多佳子さん
“たいへんなものを聞いてしまった!! これはエライことになった。。。”
これがリサイタル後の第一印象です。


11月11日、大糸線の穂高駅から会場へは歩いて向かいました。
途中穂高神社では七五三で着飾った小さい子たちの笑顔がまぶしく、色とりどりの木々の葉、薄陽に映える枝いっぱいの柿の実、わさび畑など自然に恵まれた小路を気持ちよく抜けていくと、常念岳をはじめとする連峰が雲間に現れ、写真のとおり梓川の清流が足元を走っているという絶景。


会場の“あづみ野コンサートホール”は梓川にほど近い、素晴らしいロケーションにありました。眼前に広がる平地はたまにキツネがすごい勢いで駆けていくこともあるそうです。


私が会場の“あづみ野コンサートホール”に到着したのは15時前後。
開場は18時だったので、近くのサ店で時間をつぶせばくらいに思っていたのですが、およそそんなものはない(!)うちに着いてしまった。入口前でどうしようか迷った挙句ともあれ中に入ったのですが、コンサートホールの館長さんご夫妻をはじめとする皆様と談笑するうちに、結局ロビーに開場まで居座ってしまいました。

今回の安曇野行脚は、高橋多佳子さん(以下“多佳子さん”)の素晴らしい演奏はもちろんのこと素敵な皆様との出会いがあり、私にとってとても楽しく素晴らしく、示唆にとんだ体験となりました。それらは後に記しますが、長谷川館長ご夫妻、U様、F様、T様ほかお世話になったかたにまずもって御礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。

さて、開場の直前まで多佳子さんはリハーサルを続けていました。ふと息抜きにロビーに現れても、数分後にはまたホールからピアノの音がもれ聞こえてくる。。。
私が到着してからだけでもリサイタルの時間をはるかに越える入念な調整、ロビーのみなさんも「ゼッタイに手を抜かない」と舌を巻いておられたのが印象的。私にはこれだけで、もう今日の演奏の成功が確信されていました。この点ご本人がどうかは知りませんが。。。
しかし初めてGパン姿の多佳子さんを見ましたが、スマートさに絶句!それにユニクロにあんな仕様のジーンズってあったんだろうか?

私には、多佳子さんの演奏は十全な準備の後に現実化された“理想”そのものだと思われるのですが、彼女はそれでもなお登るべき更なる高みを知り、それを志向して最善のチャレンジを惜しまない。。。
その全身全霊を傾けた演奏は当然一回一回がかけがえのないものであり、ピアニスト本人は会場でもブログ上でも反省を口にされていますが、その体験を共有できることだけでこのうえない幸せにほかなりません。
今回もそのことを改めて実感できた充実した演奏会でした。最高の奏楽を楽しめたことは言うまでもありません。

まずはモーツァルトのK.333のソナタ。
常々多佳子さんが、スケールが大事といっているのがよくわかりました。モーツァルトは特に一曲のうちで曲想がコロコロ変わるのですが、そのたびごとに音色・表情(オトもお顔も)ともに適切に性格づけられていました。私が小さいころモーツァルトはロココの作曲家と言われたことがありましたが断じてそうじゃない、柔和な表情はありますが、結構画然とした演奏だと(そのときは)思いました。

ラフマニノフのソナタ第2番は、さんざん新譜を聴きこんで刷り込んで、予習十分って感じ。。。
実際の演奏は、聴衆の息遣いと演奏がシンクロしてディスクよりはるかに表情が豊かに思えたものです。多佳子さんが聴衆の呼吸を計ってそれに乗って演奏したのか、聴衆の息を呑む瞬間を演奏でリードしたのかはこの際どうでもいいこと。。。
幻想的な第2楽章、畳み掛けるような第3楽章と、演奏者・聴衆、そこにいた人全員が時間と空間を共有して圧倒的な音響の中を駆け抜けたといった風情でした。
そして弾き終えた後はステージへ出てきたときと同じように、客席の真ん中の通路をにこやかに戻っていかれました。


後半のムソルグスキーも、入れ込んだ大熱演。この曲こそプロムナードから各絵画の描写で表情が全て異なるわけですが、入念にかつとても自然に描き分けられていたように思います。殊に印象的だったのはダンパーペダルのマジックで、最初のプロムナードからディスクでは比較的ストレートに弾き進められていたと思っていましたが、実際は推進力を維持したままでかなり音色を作りこんでおられました。同様のことは、バーバ・ヤガーからキエフの大門へ移るところ、最初の鐘の音ひとつで雰囲気がガラッと変わったのも今まで誰の演奏からも聴き覚えのない鮮やかさでハッとさせられたところなど、随所で味わうことができました。
すべて今後ディスクを聴くときのイマジネーションの素ですね。

で、記事冒頭で私が取り乱した問題の“たいへんなもの”ですが、それはやはりサプライズの“銅鑼”です。
正直に言いますと、ディスクを聴いたときにそのチャレンジには目からウロコだったのですが、私の再生装置の音からはその演奏効果はハッキリと判らなかったのです。
多佳子さんが何がしたいのか、どれほどの思いがこもっているのかは、渋谷でのコメントから痛いほど分かりましたが、ディスクの音からだけでは何故そこまでのチャレンジをしたのか量りかねていました。
でも、今回の実演に触れて確信しました。
「ピアノはヤワな楽器でない」と多佳子さんが言うとおり、鍛え上げられたピアニストの手の筋肉の柔らかいところ(?)から直接弾き出された音は共鳴音を伴って、絶妙の音量で銅鑼の響きになっている。。。
やはり高橋多佳子はスゴイと思わされました。そしてこれは実演に触れないと決して判らないことだと。こんなことをレコーディングの現場で閃いてしまうっていうのは、常人ではない!(← ホメてます。。。)

このブログの記事でも以前、この銅鑼のチャレンジを“蛇足”だという人がいるかもしれないと書いたのですが、そんなかたが実際にもしいたら「実演を聴いてからモノを言え」と私が反論します。
いやホント、私には奏法そのものよりも、実演での演奏効果のほうがサプライズでした。
そして、“エラいこと”というのはディスクに当然入っているはずのこの音を「どうやって取り出すか?」という問題のことです。(再生音の件は、永年の私の夢の一端をあっさり叶えてくださったU様との話を交えて次回記事で触れます。)

さてさて、音楽の園から「展覧会の絵」の音世界を巫女さんが全身全霊を込めた激しい祈りとともに呼び寄せるかのごとく、恐ろしいほどの集中力をもって進められた演奏も、いよいよ左手のオクターブのトリルを最後に完璧に閉じられました。体力はもとより全ての感情・感覚を総動員して、多佳子さんは性も根も尽き果てたという感じだったのではないでしょうか?
演奏後の表情は“上気して”とまでいうと語弊があるかもしれませんが、少なくとも涼しい顔をして袖に引っこまれたわけではないでしょう。アンコールはないかと思っていました。

果たして多佳子さんも一旦はそう思われたようですが、サービス精神で「お楽しみたーいむ」となり、まずモーツァルトのトルコ行進曲を弾いてくれました。音の質感・雰囲気、そして解釈ともにどこにも作為的なところはないけれども私のイメージするところにピッタリ。こういうことって、ありそうでない。
そして、なんとリストのラ・カンパネラを最後に弾いてくれた。。。大サービス!
ややハスキーな感じのするベーゼンドルファーの銘器から打ち鳴らされたり、引き出されたりするさまざまな鐘の音。(このときは)とてもスリリングな演奏に聴こえました。

手を振ってステージを後にされた多佳子さん、十分に演奏を堪能させていただきました。
ありがとう。。。


その後は、サイン会と相成りまして、ショパンの旅路の“Ⅵ”にサインをもらいました。(^^)/
これは近日中に、ショパンの晩年(というか死んだ後)を話題にした記事を構想しているのでそのときにトップの写真でアップします。そのために“Ⅵ”にサインをもらったのだから。。。
これからも多佳子さんのイベントに出かけたときには、ラジオ体操のハンコのように一枚ずつにサインをもらうのじゃぁ~。。。とご本人にも言いました。

さて、K.333で「そのとき」、ラ・カンパネラで「このとき」と書いたのには理由があります。それは次回の記事で、ご説明したいと思います。もしよろしければ乞うご期待。
このブログをオーディオの記事だとお感じの方には役に立つ話があるかもです。

“渾身の一撃!”によせて

2006年11月06日 01時06分15秒 | 高橋多佳子さん
高橋多佳子さんの新譜の感想をアップしなくてはとずっと思っていました。
彼女はこの一枚を「渾身の一撃」として世に問うたといっています。
私はこのディスクが大事に、大事に制作された過程を知り、ピアニストの良心に起因する執念とでも言うべきものがそこに込められていることは十分に理解していましたから、なおさらそれに応えられるだけの自分の思いを込めた文章を起稿しないとという思いばかりが募っていました。

実は28日に3回聴いてすぐに長大な感想文は書き上げました。
情報は音以外にも極めて多くを持っていましたから。。。
ただ、読み返してみてそれでは伝わらないと感じました。
そうこうしている間にも、何度もCDを聴き続けているうちに別途メモが何枚も溜まっていきました。
そして連休前にもういちど文章を組み立てたのですが、自分の腹に落ちなくてアップしませんでした。そのことは、高橋多佳子さんのブログのコメント欄にも記しています。
「何度聴いても、感動してます。ありがとう。で勘弁してください」と。
それを切り貼りして・・・(誰かがやったことみたいですね)・・・も、うまくいかないので結局のところ「破棄」しました。
よくもまぁ、ブラームスやらデュカを彷彿させるようなことをやってしまったものだと思っています。B型なのに。。。


このディスクに関しては、まず高橋多佳子さんに「おめでとうございます」と言うことが必要だと感じています。そして、はっきり言ってしまえばそれだけでいいと思います。
まず、ラフマニノフ。楽譜を一音符にいたるまで作曲者の創作したものを吟味して演奏効果も、作曲家の思いも、そして自身の思いも最善の形で伝えられるようにと願って完成された楽譜があり、それを十全のテクニックで完全に弾き表しているのが確かに聴き手である私にわかります。

そして、ムソルグスキー。楽譜を詳細に検討されて、元になった絵も仔細に観察されて、音を弾き出すとき言葉も画像もなくてもそのイメージは「明快に」伝わる。それは絵と整合しているかが問題ではなく、絵から感じたであろうイメージがいかに鮮明に浮かぶかという基準でですが。かねて演奏会での楽曲説明や楽譜への書き込みなどから「視覚的」なイメージを念頭において演奏されているのではないかと思っていたので、元の「絵」が本当に存在するこの楽曲は与しやすいのではないかと思っていました。音化するのは頭でわかっていても実際に手指を使ってイメージに忠実に実現しようと思うと、とんでもなく難しいことであるはずなのに。。。
結論だけいえば、楽譜に極めて忠実に弾き進められながら、これをも見事に実現されていると実感できます。
さらに、自身のオーケストラ版を耳にしたときの思いを乗せて、最後に「楽譜にない」ことまで敢然と実現されている。

誤解を恐れずにいえば(わかっていただけると思うので)「やりたい放題」ですよね!(^^)/

これを、スタッフの皆さんとやり遂げたということ、そしてそれが聴き手にあまさず伝わり「やったね!」という快哉を叫ばさせている事実、この2点を以って高橋多佳子さんは望んでいたものの殆どを手にされたといっていいのではないでしょうか?
これに対して心からの「おめでとう」を申し上げ、感動を「ありがとう」と感謝申し上げる。。。
感想はといわれれば、私の能力ではそこまでしか「腹に落ちた」表現は見当たりません。

とはいえ少々自分なりに感じたことを書くと、ラフマニノフは高橋さんの切り貼りした楽譜の冒頭にロシアの風景がイメージとして何点か記されていましたが、スケールが大きい演奏に仕上がっていることを除いては、書かれていたことを直接感じ取ることはできませんでした。
風景として、疾風が湖の水面を掃いていく波紋とか、シベリアの凍った針葉樹とかをどこかに探そうと思って聴きもしましたが、私には見つけられませんでした。
標題音楽としてではなく、本来この曲がそうであるように絶対音楽として再現されているんだろうと今では思うようになりました。
ただタワレコイベントで実演を聞いたときに、このソナタの第2楽章に「月の凍った光を浴びた針葉樹林を漂白している」というようなイメージを持ったのは事実です。非常に夢見心地でかみしめながら徘徊するのが楽しい。。。っていう感じでした。
そのイメージをディスクに求めましたが、再生音の問題なのか実際の演奏の違いなのかわかりませんが、どちらかというと「オト情報」としてディスクからは耳に届き風景というか場面はあまりイメージが浮かばなかったのです。
ただ、その繊細なきらめきと詩情は、実演とは別の趣で楽しませてくれていますけれども。
ご自身で楽譜を作られた結果、そのコンセプトどおり分厚いオトの細胞のひとつひとつに血管がバイパス手術されて血のめぐりがよくなったような印象です。見通しがすこぶるいい。
人によってははっきりモノを言いすぎだと思う人もいるかもしれませんが、私はこれこそがこの曲の素直な流れで、演奏もそれを素直に表現されているのだというように感得ことができます。
さらにいえば高橋多佳子さんの演奏を聴いたことで、いかにアシュケナージが初稿版を使っているのに聴かせ上手か、言い換えると他人が聴きやすいように腐心して演奏しているかということがわかります。晦渋な曲をそう聴こえないようにするために心を砕いて、言い換えれば「曲を助けて」いる。クズミンは、ホロヴィッツ版を用いていかに演奏効果を高めようとしているか、がわかる。いずれも聴衆に聴きどころを提供するために自身の演奏のスタイルを適合させているけれども、高橋さんは作曲家・演奏家の思いが素直に弾いてストレートに弾き表せるような譜面を起こすことでこの問題を解決している。そして、ワイゼンベルクが、コチシュが、グリモーがそれぞれの演奏で何をコンセプトにしているかということがわかるようになったような気がするのです。
そんな意味でもこの曲をさらに手許に近づけてくれた恩人たるべき演奏ということができます。

反対にムソルグスキーは標題音楽の最右翼であり、ちょっとした間の取り方、音量を絶妙にコントロールすることでとっても生き生きとしてわかりやすい解釈を実現されている。
「グノームス」や「古城」などではラヴェルの「絞首台」ほどに目だった響きではなくとも、ずっと続くリズムが重要な効果を担っていることに気づかされて、案外「絞首台」作曲のルーツはこんなところの研究成果かもしれないなどと思ったりしました。
また「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ」では、富豪と貧民という感じではなく「ずんぐり」と「のっぽ」の対話。。。そう「ムソルグスキー」と「ラフマニノフ」の対話のようにも聴こえます。
シュミュイレのキンキン声が卑屈で上目遣いでなく、「タメを張っている」ように表現されているように思われることからそのような感想が生まれるのかもしれません。
そして曲は最後には大迫力ながら、多分演奏されているときの頭はクリアに保たれ、全ての強音を鳴らしきって曲は閉じるのですが。。。
問題のサプライズ。きっと「楽譜にない」「蛇足」との感想を持つ人はいると思います。
でも「思いの発露」として敢えてここまで表現したという点を私は大いに歓迎しています。

そして強引に総括してしまえば、このディスクは「ショパンの旅路」シリーズを高橋多佳子さんの今世紀キャリアの「起」とすると、「承」の嚆矢の一枚ということになるのでしょう。
後年、大いに実のあるディスコグラフィーを顧みたときに、やりたいことをやりつくした準備・演奏ともに十全な一枚との位置づけになるものであることにいささかの疑いもありません。というところでしょうか?

今後、安曇野・紀尾井と実演に接することで、さらに自分のイマジネーションの引き出しを豊かにして、このディスクとも永く付き合っていくことにしたいと思っています。

いいCDに出会ったときには日ごろの真摯な修練の精華として趣深いディスクを届けてくれる演奏家のみなさんに感謝したい気持ちでいっぱいになります。
まさに、このような演奏に出会ったときは・・・
繰り返しになりますが、終生の友となるだろうCDをありがとう!(^^)/

しかしよくこれだけの文章に収まったもんだ。。。


さて私のメインステージでの都合上、本ブログの更新は最短でも金曜日までできません。
コメント等のチェックもどこまでできるかわからないのですが、金曜日の晩には帰ってきて、土曜日に高橋多佳子さんの安曇野のコンサートに出かける前に拝見したいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
一応、お断りまで。。。です。

高橋多佳子さんのタワレコ渋谷ミニ・コンサート

2006年10月29日 23時48分35秒 | 高橋多佳子さん
私だけの生写真じゃぁ~~(^^)/

と喜んでココに掲載したらみなさんに差し上げたも同然なんでしょうね。
でも、高橋多佳子さんに「アップします」って言っちゃったから・・・
5月に撮ったツーショット写真もあるからいいのだ。
(・・・実は女房も写っている3ショット写真まである・・・)

昨日の午後3時から渋谷のタワーレコーズで、「New Album発売記念 高橋多佳子ミニ・コンサート」がありました。
出かける直前、風呂に入ってシャンプーして身ギレイにして出かけたことはみだしなみとして言うまでもありません。他のヒトの何かの機会にやるかどうかは決して聞かないこと!
そんなこんなで、時間的に少しばかりアセってたのですが、案外首尾よく20分前には到着!
満員電車に揺られ渋谷駅前交差点の人ごみをすりぬけ、駅から約5分を小走りで駆け込んで・・・
大汗かいてるじゃん!!!

何を言っても自分のせいなのでこれくらいにして、店内に入ったらとにかく新譜をお買い上げと探したけど、行きなれたピアノ曲売り場ですぐに見つからない・・・
「まさか、売り切れ!? 間に合わなかったか・・・」と一瞬真っ白に。。。速攻でレジのおニイさんに「高橋多佳子さんの新譜・・・」と聞いたらほいきたとばかり飛び出してきてくれたけれど、実は探している・・・。どょーん・・・
結局、日本人演奏家のCD棚があって、そこに2枚だけありました。「ほっ、よかった・・・」
会計で「サインの引換券になっております」とご丁寧なご説明があり「ありがとう!」といいつつも、「そんなんなくたってお知りあいだもんねぇ。お願いしたらもらえるからいーんだよー」なーんて思いながらようやく落ち着いた私のココロ。
下の写真が、イヴェントの最後にサインをもらった「私の」ディスク。ジャケットの表紙にサインをもらったのは初めて。CDケース前面にかざるのじゃぁ!!

折りしも店内にはのピアノ版「展覧会の絵」がかかってるじゃない。会計を終えてはじめて気がつき「まぁー、グーゼンだこと!」と。
それが、しばらく聴き進むうちにどうも気になる。。。聴いたことのない音源だなぁ。。。
何ぶんしょせんBGMでお客様の邪魔にならないようにかかっている程度なので低音感ゼロ。それでも「いーじゃんか・・・」と思ってたら、それが新譜の演奏でした。
今まで1ケ月以上もおあずけくってたのに、こんな形で聴くことになろうとは・・・

よく考えれば(よく考えなくてもという説もある)そうですよねぇ。
わざわざそこで演奏するため、新発売のディスクのプロモーションに来ているピアニストを前に別の人の演奏をかけませんよねぇ。
うーん、気づかなかった。

ピアノが見えるほうへ行くとイスが並べてありました。「おぉ、やはり席があるのではないか!早くツバつけねば」と思ったら、ヒトはいないのにカバンやらハンカチやらが置いてあってみなさん抜け目がない。それでもなんとか、一番最後の列に何とかもぐりこめてラッキーみたいな感じでした。
と、イヴェントスペースのほうを見ると・・・新譜はもちろん、ディスコグラフィーがまとめて進行役の横の棚にどどーん! 「さがすなよぉ!!」

さてさて、演奏会。
高橋多佳子さんが、冒頭写真のとおりのいでたち(説明がめんどい)で颯爽と登場。相変わらずお美しくて背が高くて、姿勢がよくていらっしゃる。ウルワシイ!
ピアニストって案外猫背が多いんですよね。このまえここでみたポリーニがまさにそうだった。それが悪いんじゃないけど、演奏中ピアノに覆いかぶさるようにして弾いてらっしゃる方もいるし。。。
ご自身にあった弾き方がたまたまそうだっただけなのかもしれないけど、絵になるほうがいいに決まってます。もちろん、高橋さんとて表現上必要なときには、楽曲の要請にしたがった体勢をとるんでしょうけど。
(この日はなかったけれど、11月14日の紀尾井ホールでのコンサートではザラにあるリサイタルでは絶対に見られない体勢で演奏がなされる瞬間があることが聞けました。何をするかはわかっているけれど、実際どうするものなのか興味津々)

この日のイヴェントに関して「なにを弾こうかな」とブログで書いてらしたけど、新譜の中からラフマニノフ2番ソナタの第2楽章と、展覧会の絵からバーバ・ヤガー~キエフの大門を聴かせていただきました。

まずは、ラフマニノフ。
曲目紹介がなく冒頭10秒あまり「なんだったかしらん」状態でしたが、高音の弱音から入る音の響きにふっと身を任せられたときソナタ2番の中間部だと気づきました。幻想的な響きを精妙にコントロールするなかにメインとなる音はしっかり前面に出ていて、響きに身を任せているだけでは気づかないほどに極めて厳格に弾き分けられている。
この癒しの揺らぎの心地よさと、厳格な音の支配。音にその役割を十分果たさせるが、余計なことは一切させないぞという厳しさを当然の如く聴き手コンシャスに進めてしまうことができるのが高橋多佳子さんなのであります。

技術的なことはよくわかりませんが指による打鍵のコントロールはもちろん、ペダリングにこそ実は大きな秘密の技があるんだとおもいます。種明かししたってだれもできやしないんだから、コツを教えてくれればいいのに。まぁ、できっこないことを話してもらっても無駄というより、イメージが共有できなくてコトバすら通じないかもですね。

会場は当然営業中でノイズもあったでしょうに、まったく気になりませんでした。曲は極めて精妙に弾き進められ、耳を澄ましていたら響板のうえに音の粒子が水蒸気のように立ち上っていくのが見えるよう。その昔「Hi-fi」の再生で目標とされていた「倍音の霧」とはこれかという感じ。どことなくスクリャービンのそれにも似た神秘的な響きを交え、音の優先順位・位置関係、ピアノの上の空間に解き放たれた後の音の響きさえもコントロールしてしまっていたように思われます。
そう、聴衆の呼吸までも。。。

イヴェントでの高橋多佳子さんのコメントにラフマニノフのソナタは「対位法的書かれている」という件があり、以前とあるピアニストがラフマニノフとバッハの曲を交互に並べたディスクを発表しており、時代の離れた2人の作品なのに構成感が似ているなぁとおぼろげに感じたのはそのせいだろうと膝を打ちました。しかし、正規の音楽教育を受けていない私に、本当のところはじつは「わかりません!!」(^^)/ (なら書くなと言わないでね。)
その他コメントはいずれも興味深いものでした。
ロシアがお好きなこと、ラフマニノフのソナタの版への思い、展覧会の絵はムカシから大好きでオーケストラ版のように最後華々しく終わるのに近づけるための工夫などを話していただき、演奏の後半へ。

展覧会の絵からは、バーバ・ヤガー~キエフの大門でした。
ものの5秒ぐらい中空を見つめ集中されたかと思うと、いきなりの強音から寸分の狂いもなく音が繰り出されて(紡ぎだされてなんて生やさしいものではない)、曲は知っているものの思わず不意を突かれたかのよう。
ここではオーケストラ版では金管楽器が轟きまくるところもあり、全身を利用して表現される高橋さん。力が入っているように見えて、打鍵のときは完璧な脱力ができているのでしょう。。。抜けなければいけない音はスコーンとどこまでも抜ける。また、左足を「だん」と踏み込む、鍵盤からの指の離し方、手首の角度などを調整すること多数、またはペダリングの妙によって、ここでもピアノの上で猛り狂う音のカオスを、水族館の小魚の群れがさっと身を翻すように統率してしまう・・・

そして、ラフマニノフでもムソルグスキーでも、音のグラデーションが要求されるときの走句が鮮やかやこと。鳥肌が立ちました。高橋多佳子の演奏を聴くのであれば珍しいことではないですが。
実演で聴くとやはりディスクでは味わえない感動があります。なんといってもホンモノ・・・と言ってはミモフタもないんでしょうけどね。
これまで音としては、昨年11月新潟県三条市で聴いたラフマニノフのパガニーニラプソディからの抜粋のラスト前、昇り詰めたあと最後に収斂した音、9月のショパン即興曲第一番のトリオ前にいったんブレイクする最後の音、そして今回のグラデーション。曲ならやはり9月のショパンの「エオリアンハープ」エチュードでの感じきった旋律の表現。
これらは、私の心に深く感動として刻まれるとともに、いろいろなディスクを聴くときのイマジネーションの源泉となっています。
終演後、そんなふうに音を手なずけてしまうことができる高橋多佳子さんを「猛獣使いみたい」と言ったら、横にいた方に「えっ」というカオをされてしまいました。高橋さんのブログには「魔法使いみたい」と言い換えたけど、やはり猛獣使いのほうがピンとくるかもしれない。

最後に、楽譜の話を若干。
以前、彼女のブログにカキコして、楽譜の「版」について聞いたことがあります。
そのときは、「動物的勘」で選択している。とのお答えをもらっていました。
楽譜選択に関しては、それまでの経験やあらゆる感覚を手がかりに、すでにこの世にいない作曲家のすでに一人歩きしている作品を演奏するのだから、演奏家の責任で最大限の努力をして決めているというような意味だと理解していました。

展覧会の絵は、ブックレットによるとオリジナル楽譜のコピーを取り寄せられるなど、やはり周到に準備されているとはいえ、楽譜に極めて忠実に弾かれているようです。
しかし、ラフマニノフのソナタは1913年版の初稿版と1931年の改訂版の2つの版がもともと存在しているのですが、いずれも採らずピアニスト本人が双方のいいところを選んで「切り貼り」して演奏しているのです。

ホントに切り貼りしてありました。下の写真は双方の楽譜を「切り貼り」して自分用の世界でひとつだけの楽譜にした原本です。

丁寧に切り抜いてそして貼り付けてある。ところによっては一小節の中でも版が何度も入れ替わる(それも双方の楽譜を貼り付けた上で鉛筆であっち・こっちと行方を示してある)など非常に手の込んだもの。ピアニストが演奏家としての責任において、いずれもラフマニノフが書いた楽譜のうちからある目的を持って選択したものであるということがハッキリわかりました。

もう少し「切り貼り」楽譜について書くと、2種類の楽譜から取捨選択しているので小節数が変わる。したがって楽譜のコピーを切り貼りした後、一番左の列に何小節目かがわかるようこれも鉛筆できちんと書かれている。

演奏家「高橋多佳子」の秘密を最も垣間見たと思えたのは、楽譜への書き込みでした。マネージャーさんからは「珍しいことに彼女、日本語で書きこみしているんですよ」と説明を受け、この点でも極めて親近感を持ったのですが私の関心は内容でした。(もちろん日本語で書いてあったからこそわかったのですが)
というのは、高橋多佳子さんは楽曲をまず視覚的なイメージとして捉えて、それをありとあらゆるピアノの可能性を駆使してどのように表現するか、そのやり方を本能的にあるいは工夫して実現していくという工程で作品を追い込んでいくのではないかということ。
これは、コンサートで楽曲の説明をしてくださるときにも「雪がはらはら」とかそういう情景的なイメージを語られることが多かったのでそうではないかと思っていたのですが。
具体的には、ソナタの冒頭に、これも鉛筆でわれわれがロシアをイメージするときに違和感のない情景・景色を示す言葉が3つありました。企業秘密かもしれないので書きませんが。。。 その他、随所に書き込みがあって、いかに深く読み込んでおられるかを裏付けていましたね。
それだからこそ、あれだけのおしゃべりの後でも、楽曲の世界にあっという間にトランスできてしまうかもしれないと妙に納得でした。

また、おもしろかったのは、第一楽章の始まって数ページ目に、左手(だと思う)6連符(?)のアルペジオの音符を丸で囲み矢印で欄外に引っ張った先に「いまいち」と書いてあったこと!
ラフマニノフの作曲上の音の選び方が「いまいち」だと言っておられるのか、「いまいち」うまく弾けないので「おさらい」しなければならないのか、私の知らない「いまいち」というテクニックがあるのかはわかりませんが、非常に興味をそそられました。

また、彼女は折々自身を庶民派ピアニストと言ってますが「ショパコンの入賞者が何を・・・」と内心思っておりました。しかし、上記の楽譜を貼り付けたバインダー右下隅の白いシールには「367円・税抜350円」だって。。。
うーん、やはり庶民派なのかもしれない。芸術はお金じゃないんだ! と。

さあ、これだけ予習したので家へ帰って装置をきちんと調整してから聴こうかなというところで、以降は次の記事にします。

最後の最後、心配事2つ。
あれだけ音をコントロールしてしまう彼女は、指揮者になりたいなどと言い出さないだろうか?

ピアノの前に座ると、少しのコンセントレーションで曲の世界に入ることができる彼女は楽しいおしゃべりの後、その余韻が消えないうちに、すなわち聴衆がまだ楽しいおしゃべりモードのうちに超本格的な演奏体勢に入ってしまうことで、聴衆をおいていってしまわないだろうか?そしてそのことが聴衆の違和感につながらないだろうか?


今日もオーディオのイヴェントに行っちゃったもんだから、ここまでしかアップできなかったなぁ。でも、最新鋭のキカイでまた「新譜を(!)」聴いてきたから、その感想も含めて暫くのうちにアップできるようにしたいなぁ。

高橋 多佳子さん

2006年10月25日 02時42分33秒 | 高橋多佳子さん
東京インターナショナルオーディオショウの記事、最終回です。
われながらまだ書くのかと思いますが、ショウのことは冒頭ごくわずかです。
オーディオについては、多分もうしばらく書くことはないような気がします。
とにかくいろんなムシが私の中で疼いて、とめどなくもだえちゃいそうなので。。。


あくまでも、今回の主役はピアニストの「高橋多佳子さん」です。

さて、オーディオショウのブース巡りをする中で、ノア(NOAH)社が輸入元となっているフォーカルというメーカーのスピーカーをいたく気に入ったというお話をしました。
この親切なNOAH社のブースでは、来場者のリクエストに応えて最上級のシステムでお気に入りのディスクをかけてくださるので、最終日に2枚のCDを持っていきました。
1枚目は前回の記事を参照いただくとして、もう1枚が冒頭に写真がある高橋多佳子さんの「ショパンの旅路Ⅴ:霊感の泉」です。
今までにもっとも私が聴いた回数の多いディスクです。

フォーカルの中堅機種とエントリークラスの発売日未定のニューモデルで、このディスクの同じ曲をかけていただきました。
さすがに、同じ曲を同じブースで2度かけさせた客は私しかおるまいて・・・
NOAHさん、ホントにありがとうございました。甲斐性はないけどマジっすよ。。。
道は遠いですが。

「小心者のB型」である私にしては大それたことをしてしまった。

さてさて、最初に聴いたニューモデル「Chorus836V」は40万円弱とのこと。
おフランス製なのに、今の時期の晴れた日に苔むした庭園をみるような、少し日本的にくすんだ音を出します。
よくまとまった音でいろんなソースでとても魅力的と思ったのですが、ピアノはアタックが埋もれて輪郭がぼやけ実際のグランドピアノ以上に音像が大きくなり、響きがにじんだというかふやけてしまった印象でした。
後ですんばらしい上級機を聴いてしまったからそう思えるのです。
これはこれで、CPは相当高いと思いましたよ。

そして問題の「Electra 1027 Be」は90万円弱です。
前回、ピアノが弦をハンマーで叩いて発音する楽器であることを再認識したといいましたが、このスタインウエイ(だと信じてるけど)独特の打鍵時の輝きがホントたまらない。
この音がきっちり再生されるのでフォーカスがびしっと決まり、単音の旋律もコーダ前の和音もすべてが華やかになり過ぎない絶妙な具合に鳴る。
このポテンシャルを持ったスピーカーならきちんと音を追い込めばとんでもなく自分好みの音が出せると確信できました。

これがそのスピーカーです。

ともあれ2回もわがままを聞いてくれた(隣のブースを合わせると3回!)NOAHさんに感謝!!


で、高橋多佳子さんです。
先に、ディスクをご紹介しちゃいましょう。

☆ショパンの旅路Ⅴ「霊感の泉」~ノアンとパリⅡ
               (演奏:高橋 多佳子)
 1.バラード第四番へ短調  作品52
 2.即興曲第三番変ト長調  作品51
 3.スケルツォ第四番ホ長調 作品54
 4.ノクターン変ホ長調   作品55-2
 5.幻想曲へ短調      作品49
 6.3つのマズルカ     作品56
 7.英雄ポロネーズ変イ長調 作品53
 8.子守唄変ニ長調     作品57
                (2002年録音 スタインウエイだと思う)

もう百回は聴いていますので、全てが私のスタンダード・理想です。
特にはじめて聴いたときから「バラード第四番」と「幻想曲」の音と感情の飛翔には打ちのめされました。

ショパンのあまたある名曲のうち「バラード第四番」はトップを争うお気に入りです。
3曲と言われれば、あと2曲は「舟歌」と「幻想ポロネーズ」を迷わずあげます。

ところで、私はよそのブログにお邪魔してカキコするとき「クラウディオ アラウ」というドイツ(チリ出身だけど)のピアニスト(故人)の名をハンドルネームとして借用しています。
実は、故アラウの「バラード第四番」は高橋さんの演奏が現れる前までは、私の最も好きな演奏でした。ですが、このディスクの演奏を聴き返すにつけアラウから首位の座を奪ってしまったわけです。
そんないきさつがあって初めて高橋さんのブログにカキコするとき、ハンドルネームを「クラウディオ アラウ」としました。
下の写真は、このディスクのジャケ裏にサインをしていただいたものです。



さてと、高橋多佳子さんの魅力を3つあげるとすれば、美人でスタイルがよくてお人柄も楽しくて最高ということ。。。

あぁそうだ、肝心の演奏の魅力を3つあげれば、
・決して窮屈にならず切迫したストレートないろんな想いを表現でき、
 その幅が極めて広いこと
・高橋さんからしか聴くことができない音とそれに伴ってかもし出される
 情感があること
・ポーランドで得たものも自身の想いもピアニズムに翻訳したときに、
 私にジャストフィットするようなさじ加減になること。

それは彼女と私は同世代で、概ね同じ日本で同じ時間を生きてきたことにもよるのではないかと分析してみたりしています。
実際には何度もディスクを聴いた私のほうが、彼女の呼吸に知らず知らず合ってしまったのかもしれませんが。。。

彼女は私にリサイタルが素晴らしいものだと改めて気づかせてくれた恩人でもあります。
生演奏を聴いたときの経験が、次にディスクを聴いたときにイマジネーションを働かせる助けになると気づきました。
より深い聴き方ができ、がぜんCDを聴くことが楽しくなりました。
そんなこんなで、彼女から教えていただいたことは多くとても感謝しています。
CDどころか人生そのものにさえ深みが増したように思っているからです。

その高橋多佳子さんの代表作は、今のところ「ショパンの旅路」シリーズ全6巻・7枚のディスクです。
電力の通っている無人島(そんなんあるんか!?)へ行くとき持っていきたいCDと言われれば、迷わずこのシリーズを挙げます。
ホントにこれさえあればいいと思わなくもありません。
まぁ、他にもあるにこしたことはないというか、実際はあってほしいのですが。。。

このシリーズは、ショパンの若いころから晩年までを自身の成長に重ねて弾き進めていって、最後はショパンの晩年に相当する年齢での演奏に至るようになっています。
そして、それぞれの世代のショパンの心情をピアニストが代弁する・・・というようなコンセプトのアルバムに仕上がっています。
それゆえか、あまりショパンのエレガントで浮ついたような側面は出てこない、努めて厳しめに解釈された全身全霊をぶつけた作品であることがしみじみ感得されて心を打たれました。
当然に成長を重ねた晩年に至るほどしり上がりに楽曲・演奏ともに内容も充実し、大団円を迎えていることはいうまでもありません。
今回は「Ⅴ」を挙げましたが、それは好きな曲が入っているからというだけです。
全巻にわたり力こぶをいれてお勧めしたいですね。

世界中のどこにもない日本人によるショパン。
日本人であるならば、とくに共感しやすいだろうショパンと言っておきましょう。

そんなディスクを何日か取り上げるのを措いた理由は、本日10月25日に「ショパンの旅路」シリーズ完結以降、初めての高橋多佳子さんのディスクが発売されるからなのです。
簡単に言えば、今回は発売のお祝い記事ですね。
「ラフマニノフのピアノソナタ第二番」・「ムソルグルキーの展覧会の絵」のカップリング。。。
ロシア物が大好きといわれる高橋さんによるものだけに期待はいや増します。

事情で私が入手できるのは土曜日になりますが、楽しみを先送りするのもたまには悪くないかな。

彼女の予定、その後は10月28日には渋谷のタワーレコーズでのインストアイベントがあり、11月11日には長野の安曇野で、14日には東京の紀尾井ホールで新譜発売記念のコンサートがあります。

実演に接することはディスクを聴くときの楽しみを格段に増やしてくれるのだ。
行かずばなるまい!!

ラフマニノフのディスクも、いずれ十分聴きこんだうえでご紹介しましょう。