★ショパンの旅路 Ⅵ 「白鳥の歌」~ノアンとパリⅢ
(演奏:高橋 多佳子)
1.ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.3つのマズルカ 作品59
3.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
4、ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61 「幻想ポロネーズ」
5.ノクターン第17番 ロ長調 作品62-1
6.マズルカ へ短調 作品68-4(遺作)
リスト没後120年特集を始めたばかりですが、早くもブレイクです。
出張から戻って、安曇野で高橋多佳子さんにサインをもらったこのディスクを聴いちゃったからです!
このディスクが世に出たことは大変にラッキーでもあり、ありがたいことだと思わずにはいられません。
というのは、ショパンの旅路の企画がいよいよ終盤になった時点で何かアクシデントがあったようです。突然制作会社が変わったにもかかわらず企画が続行したばかりか、収録の会場も一緒なら24bit録音(マルチビット録音)を採用し可能な限りⅤまでの条件を踏襲したうえで首尾一貫した大団円の作品に仕上がっています。
ファンとしては、本当に幸運に感謝したい思いです。
それに応えてこのディスクにおける多佳子さんの演奏は極めて充実していて、聴くたびに新たな感動を呼び覚まされます。
とにかく彼女には独特のピアノの音があるのです。彼女のブログの常連さんたちも口を揃えて私と同様、まずは何よりその“音”に魅せられたと言っておいでです。音色のパレットも広く奏法的にも思い切った表現をされるので、その“音の言葉”によって描き出される世界がとても深く豊かに彩られる・・・その世界が私の感覚に何とフィットすることか・・・。
その“音の言葉”は、正に今の時代を生きている私の世代の日本語でもありポーランド語でもありという共通言語だからだと思います。
もちろんショパンとも親しく会話ができる言葉でもあります。
何度も“ショパンの旅路”の全ディスクを通じてその言葉に親しめば親しむほど、外国語がうまくなるように、そこに盛られている何かを探り当てることができるようになっていくのです。
もはや私にとってショパン演奏は、このシリーズにたどり着いたことで一旦はゴールを切ったような思いにも駆られます。
もちろん、いろんな演奏家の演奏をこれからも楽しんでいきますけどね。
そんな多佳子さんはここでもそもそものコンセプトに則って、ショパンの語りつくせない思いをオトで代弁するという気概を感じさせ、切羽詰った思いと周到な解釈、それを可能にする余裕あるテクニックに欠くところはありませんが、遊び心とか虚飾はなしにそれぞれの曲の真髄に分け入っています。
ソナタ第3番はショパンが綿密に構成を練った作品だといわれています。多佳子さんの演奏は各楽章・各旋律の性格が絶妙に描き出されてコントラストされていますが、それがいたずらにソフィスティケートされていないことで却って素直に思いが伝わってきます。
マズルカもよく雰囲気が出ています。彼女の演奏はポーランドでも高く評価されているそうですが、日本的感覚でも最高級に美しいマズルカではないでしょうか。
舟歌も初めて聴いたときから素晴らしいと思っていた演奏です。特にコーダの最後のアルペジオ(小節の中じゅう“前打音”っていうところ)が鍵盤を駆け巡るところの出だし!!
何度聴いても胸がキュンっとします。
幻想ポロネーズも“わが苦悩”とショパンが記したという曲自体の在り方が、作曲家の声を代弁するというこの盤のコンセプトに合っているため、心情が吐露というより激白されている凄みを感じます。最後のクライマックスなど空前の美しさで炸裂している。。。
ショパン最後の野心作といっていいんだと思いますが、このディスクだけでなくシリーズ全体を見渡しても壮絶な中締めとなっています。
ノクターン作品62-2はもうあの世に半分以上行っちゃったような感じ。ここでのショパンは投げやりでもなければ人生を総括するでもない、この世に未練があるわけでもないがあの世に憧れを抱いているわけでもなく無為にそこに存在しています。すでに半透明になった魂が、これまで過ごしてきた人生の重みが彼に歩いてきた道のりを振り返らせてこの曲を遺させたのではないでしょうか。曲をこしらえるというより、ふと伏せた目を上げたときに漂っていた旋律を見つけて書き付けたのではというストーリーを多佳子さんの演奏を聴いて思い浮かべました。
そんなショパンになりきり、その世界に遊びそんな独白を描き出すということは単にピアノを弾くという行為を超えているのかもしれません。まぁ、プロの演奏家は作曲家の精神や魂とお話しするものだといわれるのなら、「ちゃんとお仕事してるのね!」って言っちゃえばいいのかもしれませんが。。。常人にはできませんな。そんなイタコみたいなコト!
最後のマズルカはエピローグ。すべてのエコーのごとく弾かれています。
最近ショパンの人生って幸せだったかどうかと、よく考えさせられます。。。
彼はピアノ音楽史上並ぶもののない大家であることに疑いありませんが、私の考えでは少なくとも生き方が上手だった人ではない。
彼自身が生まれついて持っていたもの、持っていなかったもの、そんな彼だから手に入れることができたもの、そして彼が決して手に入れられなかったもの。。。私もその多くを知っています。
私がもしその“生”を生きたのだとしたらどんな思いで終焉のときを迎えたのだろうか?
そして私は既に、彼には与えられなかった時間を生きる年齢になっている。
ただ、彼の遺してくれたものが自分の人生をとても豊かにしてくれていることに思いを馳せるときには、自身の芸術に最後まで殉じてくれた彼に感謝を禁じえません。
おっとそれを届けてくれる演奏家の人たちにも感謝しなくちゃね!
さて、日本人によるショパン晩年の作品集といえば園田高弘さんのディスクが真っ先に思い浮かびます。
作品57の子守歌から始まって作品61の幻想ポロネーズで終わるというプログラムを見た瞬間かっこいいと思いました。ずいぶんと楽しませてもらいましたが、今思えば演奏はやはり私のオヤジの世代のそれだと思います。
園田さんはもともと折り目正しい構成感を追求される弾き手であり、ショパン演奏としてはややよそ行きで画然としているように思えてしまいます。
そして私の時代には。。。 ちゃんと私の世代の弾き手が現れてくれました。
先に述べたようにショパン・ポーランド・日本・19世紀半ば・現在をシームレスに繋ぐ音による言語をもって演奏してくれるピアニストが。。。
嬉しいことです。
ところで私は新婚旅行で8日間のパリ旅行に行き、さまざまな景勝地とともに念願だったショパン所縁の地のいくつかを訪ねることができました。
ショパンは1849年の10月17日に亡くなり30日に葬儀が行われたのですが、亡くなったヴァンドーム広場に面した部屋(ショーメという宝石店になっていた)、葬儀が行われたマドレーヌ寺院、埋葬されたペール・ラシェーズ墓地にあるショパンの墓などを見て回りました。ピアノが上達するようにと祈ってみたものの、練習しなかったおかげでやはりかなえてもらえませんでした。(^^)/
ショパンもやはりしゃにむに練習してたのかなぁ? 努力せんヤツは許さんって思われちゃったのかもしれません。
下の写真はそのマドレーヌ寺院で買い求めた、新婚一発目に手に入れた記念のディスクです。
マドレーヌ寺院据付のオルガンで演奏されています。
★LA MADELEINE ET SES ORGANISTS
(演奏:フランソワ・ヘンリ・ヒューバート)

マドレーヌ寺院のオルガンはショパンの亡くなった年に設置されたようで、葬儀の際にはそれでショパンの24のプレリュードの第4曲、第6番が演奏されたといわれているようです。
後年、フォーレがここのオルガン奏者になっているほか、かの“レクイエム”を初演している場所でもあります。
オルガンは1923年に改装されているとはいえ、これだけの歴史を持っているのですからその演奏には大変に期待して手に入れました。なかなか壮麗ながら重々しくないサウンドが楽しめます。
ただ、唯一知っている曲であるフォーレのノクターンが、レゲエのリズムに乗っているみたいに聴こえてしまうのはいただけませんでしたなぁ。弾き方もそうだけど(ハモンドオルガンで後乗りのリズムをつけているような感じ)、音色のせいでもあるんじゃないかとおもうのですが。。。
まぁオルガンに関しては弾き手の個性を云々できるほどまだよく分らないのが正直なところですから、これ以上偉そうにいうのはやめにします。
ショパンの葬儀に際しては、楽団は彼の愛好したモーツァルトの“レクイエム”を演奏したようですね。私はフォーレのそれのほうが好きですが、ショパンが亡くなったときはまだ作曲されてなかったわけで。。。
どっちみち、死んじゃったショパンは聞けるはずなかったんだから関係ないか?
さて、リスト没後120年特集へ戻るインタールードを少々。。。
ショパンのピアノソナタ第3番(ロ短調ソナタ)は本当に多様な要素を巧みに織り込んで作曲されていますよね。
例えば第1楽章では、例の“ちゃららららん”という下降旋律から始まって、シンフォニックな和音のメロディーあり~の、魅惑の旋律あり~のに続いて、展開部ではそれらのエコーまで聞こえちゃうという凝りよう。メロディーがどんどんずれてずれて横滑りしていく感じで、初めて聴いたとき(奏者はアルゲリッチ)は悪酔いしそうでした。
普通の作曲家であればソナタ3曲分ぐらいのテーマが、惜しげもなく放り込まれているのではないでしょうか? エチュード・プレリュードを見ればわかるように、このころまでのショパンの霊感の泉にあるメロディーは枯渇することを知らなかったので、それらを老獪に纏め上げることができたなら、こんな聴きどころ満載、大量コンテンツによる極彩色の万華鏡的展開になっても不思議はありません。
翻って、リストの唯一のピアノソナタもよく“ロ短調ソナタ”として並び称される作品であります。
発表当初はいろいろな評価があったようですが今や遍く傑作の誉れ高く、音楽史上に不動の地位を確立しています。
しかしショパン作品の豊かさとは違って、ここではある種の深さが追求されています。
というのは、構造上はソナタといって差し支えないのでしょうが単一楽章(少なくとも切れ目なく演奏される)で、何より主要な主題は3つぐらいしかない。それで30分の曲に仕立て上げられているのであれば、深くならざるを得ないでしょう。。。
厳選素材(?)をソナタの構造に当てはめて、なんどもかんども手を代え品を代えして繰り出しているわけですが、なぜかとても聴きごたえのある曲として聴けちゃう。。。
それでも私の最も好きな曲のひとつです。それはおいおいご理解いただけることと思います。
ショパンのロ短調ソナタと同様、曲頭下降旋律の第一主題で始まりますがテンポがまるで違う!(^^)/
こんな調子でリストがショパンのロ短調ソナタの素材を全部使って作曲したら、ワーグナーのリングみたいになっちゃう。。。かも。
ジャン=マルク・ルイサダがとても興味深いディスクを発表しています。
★SONATAS
(演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)

1.ショパン:ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.リスト :ピアノソナタロ短調
3.スクリャービン:ピアノソナタ第9番 “黒ミサ”
4.ショパン:12の練習曲 作品10-3 “別れの曲”
ショパンとリストのロ短調ソナタを並べたうえで、ショパン・リストの末裔のひとりがどうなっていったかを確認するにはナイス・アイデアのプログラムだと思います。
その末裔とはスクリャービンであり、ショパン、リストの没後さらに時代が下ったのちに現れふたりの精神や技術を継いだところをふりだしに創作活動を展開し始めます。
ソナタでは第2番、第3番などが人気も高いし私も大好きですが、彼にとってこれは序の口。どんどん自身の芸術に磨きをかけていきます。
そして第5番あたりで、「とーとーいっちゃったか・・・」という感じになり、ここに収録されている第9番あたりまでくるとさらに“いっちゃって”黒ミサ・白ミサだのいわれるイカレた世界に到達し、やがて消えていきます。
最後の“別れの曲”はこの流れからすると“なんでやねん”ですが。。。
さてさて、ルイサダの演奏はデビュー時から個性的というよりクセっぽかったとおり、ここでもおよそエレガントではありませんねぇ。BMGへの移籍盤のフォーレなどはまだよかったのですが、風貌も含めてときとして“イカレテル”と思えなくもないルイサダがこの盤にはいます。デビューしたころはちっちゃなイタズラをしてイキガってたチンピラが、少しハクがついて凄みを帯びてきたのかな。。。っていうイメージを抱いてしまいます。
例えが、あまりにも申し訳ないのですが。。。
真摯に研鑽を積んで、その成果を世に問うているのはわかります。
でも彼の着眼点は、ショパン・リストのあら捜しに通じる部分ばかりにフォーカスされているように思えてならないのです。
彼と私の相性が悪いというより、信奉する“正義”が違う。という感じ。。。
ウルトラマンの論理とバルタン星人の論理がかみ合わないような。。。
私にとってのアンチテーゼともいうべき演奏。
ボロクソに言っているように聞こえるかもしれませんが、アンチ巨人の人がジャイアンツについて語っていると思ってください。その存在について認めてはいるのですから。。。
ウルトラマンとバルタンの例えも、どちらがウルトラマンとは言っていません。
気持ちの上では双方自分がウルトラマンというに決まっていますけど。。。
さて、このショパンのロ短調ソナタはちょいと遅い!
提示部の主題を繰り返さないですが“ねちょーっ”と弾いているため10分余りかかっています。提示部の締めくくりがアラウが弾いていた遺稿によるのに対し、楽章の終わりは通常通りに弾き終えるのが不思議です。そういえばサハロフも同じコトをやってましたが。。。
リストもちょっとお品がよろしくないように聴こえてしまう。
オト自体そもそも聴きなれない音符が聴こえる。いくつか気になったのだけれど、一例を挙げれば最後の3つの弱音の和音の直前のフレーズの頭が半音低いのではないでしょうか?そういう版がたぶんあるんだろうけれど、何もその版で弾かなくてもいいのにって感じがします。「こんなの見つけてきました!」って知ったかぶりしたいんだろうとも思えてしまいます。
自分にも実は似たような気質があるので、反発しているのかもしれません。
だとしたら、反省しなくちゃ!という思いもありますが。。。
でも、この演奏にはデビュー時の彼にはなかった、迫力というか骨太な部分をクライマックスの前後に感じることができます。
スクリャービンはイッちゃってる感が必要な曲であるため、最もしっくり聴けました。
そして、別れの曲、プログラム的には「何でここに?」って言う感があります。
これもじっくりしたテンポでという点はこれまでの演奏と変わらないのですが、万感の思いを込めて弾かれているという一点において、とても共感できるいい演奏であると思います。
確証はないのですが、この曲にも中間部通常の楽譜と違うのではないかというように聴こえるような気がします。思い込みかなぁ~。。。
さぁてと、予告編はここまでにします。。
特集に戻ったら、まずリストの“ロ短調ソナタ”を追いかけていくことにしようと思っています。
(演奏:高橋 多佳子)
1.ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.3つのマズルカ 作品59
3.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
4、ポロネーズ第7番 変イ長調 作品61 「幻想ポロネーズ」
5.ノクターン第17番 ロ長調 作品62-1
6.マズルカ へ短調 作品68-4(遺作)
リスト没後120年特集を始めたばかりですが、早くもブレイクです。
出張から戻って、安曇野で高橋多佳子さんにサインをもらったこのディスクを聴いちゃったからです!
このディスクが世に出たことは大変にラッキーでもあり、ありがたいことだと思わずにはいられません。
というのは、ショパンの旅路の企画がいよいよ終盤になった時点で何かアクシデントがあったようです。突然制作会社が変わったにもかかわらず企画が続行したばかりか、収録の会場も一緒なら24bit録音(マルチビット録音)を採用し可能な限りⅤまでの条件を踏襲したうえで首尾一貫した大団円の作品に仕上がっています。
ファンとしては、本当に幸運に感謝したい思いです。
それに応えてこのディスクにおける多佳子さんの演奏は極めて充実していて、聴くたびに新たな感動を呼び覚まされます。
とにかく彼女には独特のピアノの音があるのです。彼女のブログの常連さんたちも口を揃えて私と同様、まずは何よりその“音”に魅せられたと言っておいでです。音色のパレットも広く奏法的にも思い切った表現をされるので、その“音の言葉”によって描き出される世界がとても深く豊かに彩られる・・・その世界が私の感覚に何とフィットすることか・・・。
その“音の言葉”は、正に今の時代を生きている私の世代の日本語でもありポーランド語でもありという共通言語だからだと思います。
もちろんショパンとも親しく会話ができる言葉でもあります。
何度も“ショパンの旅路”の全ディスクを通じてその言葉に親しめば親しむほど、外国語がうまくなるように、そこに盛られている何かを探り当てることができるようになっていくのです。
もはや私にとってショパン演奏は、このシリーズにたどり着いたことで一旦はゴールを切ったような思いにも駆られます。
もちろん、いろんな演奏家の演奏をこれからも楽しんでいきますけどね。
そんな多佳子さんはここでもそもそものコンセプトに則って、ショパンの語りつくせない思いをオトで代弁するという気概を感じさせ、切羽詰った思いと周到な解釈、それを可能にする余裕あるテクニックに欠くところはありませんが、遊び心とか虚飾はなしにそれぞれの曲の真髄に分け入っています。
ソナタ第3番はショパンが綿密に構成を練った作品だといわれています。多佳子さんの演奏は各楽章・各旋律の性格が絶妙に描き出されてコントラストされていますが、それがいたずらにソフィスティケートされていないことで却って素直に思いが伝わってきます。
マズルカもよく雰囲気が出ています。彼女の演奏はポーランドでも高く評価されているそうですが、日本的感覚でも最高級に美しいマズルカではないでしょうか。
舟歌も初めて聴いたときから素晴らしいと思っていた演奏です。特にコーダの最後のアルペジオ(小節の中じゅう“前打音”っていうところ)が鍵盤を駆け巡るところの出だし!!
何度聴いても胸がキュンっとします。
幻想ポロネーズも“わが苦悩”とショパンが記したという曲自体の在り方が、作曲家の声を代弁するというこの盤のコンセプトに合っているため、心情が吐露というより激白されている凄みを感じます。最後のクライマックスなど空前の美しさで炸裂している。。。
ショパン最後の野心作といっていいんだと思いますが、このディスクだけでなくシリーズ全体を見渡しても壮絶な中締めとなっています。
ノクターン作品62-2はもうあの世に半分以上行っちゃったような感じ。ここでのショパンは投げやりでもなければ人生を総括するでもない、この世に未練があるわけでもないがあの世に憧れを抱いているわけでもなく無為にそこに存在しています。すでに半透明になった魂が、これまで過ごしてきた人生の重みが彼に歩いてきた道のりを振り返らせてこの曲を遺させたのではないでしょうか。曲をこしらえるというより、ふと伏せた目を上げたときに漂っていた旋律を見つけて書き付けたのではというストーリーを多佳子さんの演奏を聴いて思い浮かべました。
そんなショパンになりきり、その世界に遊びそんな独白を描き出すということは単にピアノを弾くという行為を超えているのかもしれません。まぁ、プロの演奏家は作曲家の精神や魂とお話しするものだといわれるのなら、「ちゃんとお仕事してるのね!」って言っちゃえばいいのかもしれませんが。。。常人にはできませんな。そんなイタコみたいなコト!
最後のマズルカはエピローグ。すべてのエコーのごとく弾かれています。
最近ショパンの人生って幸せだったかどうかと、よく考えさせられます。。。
彼はピアノ音楽史上並ぶもののない大家であることに疑いありませんが、私の考えでは少なくとも生き方が上手だった人ではない。
彼自身が生まれついて持っていたもの、持っていなかったもの、そんな彼だから手に入れることができたもの、そして彼が決して手に入れられなかったもの。。。私もその多くを知っています。
私がもしその“生”を生きたのだとしたらどんな思いで終焉のときを迎えたのだろうか?
そして私は既に、彼には与えられなかった時間を生きる年齢になっている。
ただ、彼の遺してくれたものが自分の人生をとても豊かにしてくれていることに思いを馳せるときには、自身の芸術に最後まで殉じてくれた彼に感謝を禁じえません。
おっとそれを届けてくれる演奏家の人たちにも感謝しなくちゃね!
さて、日本人によるショパン晩年の作品集といえば園田高弘さんのディスクが真っ先に思い浮かびます。
作品57の子守歌から始まって作品61の幻想ポロネーズで終わるというプログラムを見た瞬間かっこいいと思いました。ずいぶんと楽しませてもらいましたが、今思えば演奏はやはり私のオヤジの世代のそれだと思います。
園田さんはもともと折り目正しい構成感を追求される弾き手であり、ショパン演奏としてはややよそ行きで画然としているように思えてしまいます。
そして私の時代には。。。 ちゃんと私の世代の弾き手が現れてくれました。
先に述べたようにショパン・ポーランド・日本・19世紀半ば・現在をシームレスに繋ぐ音による言語をもって演奏してくれるピアニストが。。。
嬉しいことです。
ところで私は新婚旅行で8日間のパリ旅行に行き、さまざまな景勝地とともに念願だったショパン所縁の地のいくつかを訪ねることができました。
ショパンは1849年の10月17日に亡くなり30日に葬儀が行われたのですが、亡くなったヴァンドーム広場に面した部屋(ショーメという宝石店になっていた)、葬儀が行われたマドレーヌ寺院、埋葬されたペール・ラシェーズ墓地にあるショパンの墓などを見て回りました。ピアノが上達するようにと祈ってみたものの、練習しなかったおかげでやはりかなえてもらえませんでした。(^^)/
ショパンもやはりしゃにむに練習してたのかなぁ? 努力せんヤツは許さんって思われちゃったのかもしれません。
下の写真はそのマドレーヌ寺院で買い求めた、新婚一発目に手に入れた記念のディスクです。
マドレーヌ寺院据付のオルガンで演奏されています。
★LA MADELEINE ET SES ORGANISTS
(演奏:フランソワ・ヘンリ・ヒューバート)

マドレーヌ寺院のオルガンはショパンの亡くなった年に設置されたようで、葬儀の際にはそれでショパンの24のプレリュードの第4曲、第6番が演奏されたといわれているようです。
後年、フォーレがここのオルガン奏者になっているほか、かの“レクイエム”を初演している場所でもあります。
オルガンは1923年に改装されているとはいえ、これだけの歴史を持っているのですからその演奏には大変に期待して手に入れました。なかなか壮麗ながら重々しくないサウンドが楽しめます。
ただ、唯一知っている曲であるフォーレのノクターンが、レゲエのリズムに乗っているみたいに聴こえてしまうのはいただけませんでしたなぁ。弾き方もそうだけど(ハモンドオルガンで後乗りのリズムをつけているような感じ)、音色のせいでもあるんじゃないかとおもうのですが。。。
まぁオルガンに関しては弾き手の個性を云々できるほどまだよく分らないのが正直なところですから、これ以上偉そうにいうのはやめにします。
ショパンの葬儀に際しては、楽団は彼の愛好したモーツァルトの“レクイエム”を演奏したようですね。私はフォーレのそれのほうが好きですが、ショパンが亡くなったときはまだ作曲されてなかったわけで。。。
どっちみち、死んじゃったショパンは聞けるはずなかったんだから関係ないか?
さて、リスト没後120年特集へ戻るインタールードを少々。。。
ショパンのピアノソナタ第3番(ロ短調ソナタ)は本当に多様な要素を巧みに織り込んで作曲されていますよね。
例えば第1楽章では、例の“ちゃららららん”という下降旋律から始まって、シンフォニックな和音のメロディーあり~の、魅惑の旋律あり~のに続いて、展開部ではそれらのエコーまで聞こえちゃうという凝りよう。メロディーがどんどんずれてずれて横滑りしていく感じで、初めて聴いたとき(奏者はアルゲリッチ)は悪酔いしそうでした。
普通の作曲家であればソナタ3曲分ぐらいのテーマが、惜しげもなく放り込まれているのではないでしょうか? エチュード・プレリュードを見ればわかるように、このころまでのショパンの霊感の泉にあるメロディーは枯渇することを知らなかったので、それらを老獪に纏め上げることができたなら、こんな聴きどころ満載、大量コンテンツによる極彩色の万華鏡的展開になっても不思議はありません。
翻って、リストの唯一のピアノソナタもよく“ロ短調ソナタ”として並び称される作品であります。
発表当初はいろいろな評価があったようですが今や遍く傑作の誉れ高く、音楽史上に不動の地位を確立しています。
しかしショパン作品の豊かさとは違って、ここではある種の深さが追求されています。
というのは、構造上はソナタといって差し支えないのでしょうが単一楽章(少なくとも切れ目なく演奏される)で、何より主要な主題は3つぐらいしかない。それで30分の曲に仕立て上げられているのであれば、深くならざるを得ないでしょう。。。
厳選素材(?)をソナタの構造に当てはめて、なんどもかんども手を代え品を代えして繰り出しているわけですが、なぜかとても聴きごたえのある曲として聴けちゃう。。。
それでも私の最も好きな曲のひとつです。それはおいおいご理解いただけることと思います。
ショパンのロ短調ソナタと同様、曲頭下降旋律の第一主題で始まりますがテンポがまるで違う!(^^)/
こんな調子でリストがショパンのロ短調ソナタの素材を全部使って作曲したら、ワーグナーのリングみたいになっちゃう。。。かも。
ジャン=マルク・ルイサダがとても興味深いディスクを発表しています。
★SONATAS
(演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)

1.ショパン:ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58
2.リスト :ピアノソナタロ短調
3.スクリャービン:ピアノソナタ第9番 “黒ミサ”
4.ショパン:12の練習曲 作品10-3 “別れの曲”
ショパンとリストのロ短調ソナタを並べたうえで、ショパン・リストの末裔のひとりがどうなっていったかを確認するにはナイス・アイデアのプログラムだと思います。
その末裔とはスクリャービンであり、ショパン、リストの没後さらに時代が下ったのちに現れふたりの精神や技術を継いだところをふりだしに創作活動を展開し始めます。
ソナタでは第2番、第3番などが人気も高いし私も大好きですが、彼にとってこれは序の口。どんどん自身の芸術に磨きをかけていきます。
そして第5番あたりで、「とーとーいっちゃったか・・・」という感じになり、ここに収録されている第9番あたりまでくるとさらに“いっちゃって”黒ミサ・白ミサだのいわれるイカレた世界に到達し、やがて消えていきます。
最後の“別れの曲”はこの流れからすると“なんでやねん”ですが。。。
さてさて、ルイサダの演奏はデビュー時から個性的というよりクセっぽかったとおり、ここでもおよそエレガントではありませんねぇ。BMGへの移籍盤のフォーレなどはまだよかったのですが、風貌も含めてときとして“イカレテル”と思えなくもないルイサダがこの盤にはいます。デビューしたころはちっちゃなイタズラをしてイキガってたチンピラが、少しハクがついて凄みを帯びてきたのかな。。。っていうイメージを抱いてしまいます。
例えが、あまりにも申し訳ないのですが。。。
真摯に研鑽を積んで、その成果を世に問うているのはわかります。
でも彼の着眼点は、ショパン・リストのあら捜しに通じる部分ばかりにフォーカスされているように思えてならないのです。
彼と私の相性が悪いというより、信奉する“正義”が違う。という感じ。。。
ウルトラマンの論理とバルタン星人の論理がかみ合わないような。。。
私にとってのアンチテーゼともいうべき演奏。
ボロクソに言っているように聞こえるかもしれませんが、アンチ巨人の人がジャイアンツについて語っていると思ってください。その存在について認めてはいるのですから。。。
ウルトラマンとバルタンの例えも、どちらがウルトラマンとは言っていません。
気持ちの上では双方自分がウルトラマンというに決まっていますけど。。。
さて、このショパンのロ短調ソナタはちょいと遅い!
提示部の主題を繰り返さないですが“ねちょーっ”と弾いているため10分余りかかっています。提示部の締めくくりがアラウが弾いていた遺稿によるのに対し、楽章の終わりは通常通りに弾き終えるのが不思議です。そういえばサハロフも同じコトをやってましたが。。。
リストもちょっとお品がよろしくないように聴こえてしまう。
オト自体そもそも聴きなれない音符が聴こえる。いくつか気になったのだけれど、一例を挙げれば最後の3つの弱音の和音の直前のフレーズの頭が半音低いのではないでしょうか?そういう版がたぶんあるんだろうけれど、何もその版で弾かなくてもいいのにって感じがします。「こんなの見つけてきました!」って知ったかぶりしたいんだろうとも思えてしまいます。
自分にも実は似たような気質があるので、反発しているのかもしれません。
だとしたら、反省しなくちゃ!という思いもありますが。。。
でも、この演奏にはデビュー時の彼にはなかった、迫力というか骨太な部分をクライマックスの前後に感じることができます。
スクリャービンはイッちゃってる感が必要な曲であるため、最もしっくり聴けました。
そして、別れの曲、プログラム的には「何でここに?」って言う感があります。
これもじっくりしたテンポでという点はこれまでの演奏と変わらないのですが、万感の思いを込めて弾かれているという一点において、とても共感できるいい演奏であると思います。
確証はないのですが、この曲にも中間部通常の楽譜と違うのではないかというように聴こえるような気がします。思い込みかなぁ~。。。
さぁてと、予告編はここまでにします。。
特集に戻ったら、まずリストの“ロ短調ソナタ”を追いかけていくことにしようと思っています。