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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

チューニングと心の弦

2007年12月20日 22時31分23秒 | 高橋多佳子さん
★ショパンの旅路Ⅲ 「マヨルカの風」~マヨルカ島にて
               (演奏:高橋 多佳子)
1.24の前奏曲 作品28
2.ノクターント短調 作品37-2
3.バラード第2番 ヘ長調 作品38
4.ポロネーズイ長調 作品40-1「軍隊」
5.4つのマズルカ 作品41
6.スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
               (2001年録音)
   (エクストン盤・直筆サイン入り(^^;))

クラシックギターの達人の先輩から調弦についてご教示いただいた。
当方とてアコースティックギター(フォークギター)とはいえ、手遊びに扱ってきた年季だけはそれなりに長い。
にもかかわらずそんなこともできんのか・・・とは思わないでほしい。
難しいんだから! (^^;)

そうはいいながら、力量に不相応な高級ギターを使用していると認識してはいるので、『モノ』にどうこう文句が言える筋合いではない・・・でも、やはり「チューニングが気持ちよく合っている」という感覚で演奏できないこともままある。
オカシイと思っても、その次弾いたときにはチャンとあってたりするものだから・・・という具合である。

今回、ほとんど実践していることを教えていただいたのだが次の2点には瞠目させられた。
曰く、開放のハーモニクスで調弦するときにあわせるほうのペグを回しながら調弦すべし。
その後、わずかにずれることを承知で和音を鳴らしてうまく響くように調整すべし。
これを心がけるようにとのご託宣であった。

そして積年の疑問に対しても回答をいただいた。
弦のコンディション、フレットやブリッジの温度や湿度等、そのときの環境によって必ずしもチューナーで完璧に合わせたとしても和音で響かせた時にヌケた気持ちよい音で鳴るか・・・というとそうでないらしい。

聞いてしまえば、こんなことで何十年もおかしいと思い続けていたのがむしろ可笑しい。(^^;)
早速、この稿を仕上げたら試してみたいと思っている。


★ショパンの旅路Ⅲ 「マヨルカの風」~マヨルカ島にて
               (演奏:高橋 多佳子)          

1.24の前奏曲 作品28
2.ノクターント短調 作品37-2
3.バラード第2番 ヘ長調 作品38
4.ポロネーズイ長調 作品40-1「軍隊」
5.4つのマズルカ 作品41
6.スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
               (2001年録音)
               (トライエム盤)

ところで、調弦の際に「両弦のハーモニクス音をペグを回しながら聞け」ということで思い当たったことがある。
ハーモニクスの音が近づくと音が共鳴してウヮンウヮンウヮンとうねる・・・さらに近づくとうねりがゆっくりになりワ~ンワ~ンという感じになる。
そして、うねりが消えたときにピタッとチューニングが合った状態になるわけである。


自分の越し方、どんな時間の使い方をしてどんな音楽をどのように嗜好してきたかという習慣やクセによって、自分の感性の弦の音程が、実は決まっているのではないだろうか?

そして、我々が新しい音楽や演奏を耳にするとき、この感性の弦いわば「心の弦」との共鳴の度合いで、自分の気に入る演奏かどうかが決まってくるのではないだろうか?


当然、自分の趣味とまったく違う楽曲、あるいは解釈・音色のものであるときには共鳴しないからピンと来ない・・・。


そして、実は味わい深いと思って楽しんでいるのはこの「うねり」の機微・加減なんじゃないだろうか?
自分の「心の弦」の共鳴する波長と、今そこで鳴っている音楽の波長・・・近いんだけどそのびみょ~な誤差から生じるうねりこそが、コクだの深みだのという感覚として感知されるのでは?


そしてそれがピタッと合ったとき・・・これこそが自分の理想とする解釈だと、何の違和感もなく受け入れられるときには、自分の心の中にある弦もそれこそ心置きなく共鳴して歌うんじゃないだろうか。
または歌っていることすら気づかないぐらい、居心地よく透明になれる・・・。(^^;)

ここで紹介した高橋多佳子さんの「ショパンの旅路」シリーズは、何度も書いているとおり私の心の弦にいつでもジャスト・チューンである。
もとより第Ⅴ集のバラード第4番以外は、当初少しずれていたところがあったかもしれない・・・でも、私のほうが心のペグをしらずしらず回したのか、今や完全に私の理想の演奏と一致していると思える。


この第Ⅲ集にせよバラード第2番、スケルツォ第3番のコーダなどでは、どんなに高名な方であっても他の演奏家からは絶対に聴けない多佳子さんの魅力が炸裂している。

それが体の中を音が何の抵抗もなく突き抜けていくような感じ・・・。(^^;)

寸分の違いもない同質な響きが私の心の中にあるからだと、ファンである私は一方的に信じている。



もとより研鑽を積んだ音楽家が渾身の力を込めて世に問う演奏は、どれも尊い。
やはり大家あるいは飛ぶ鳥を落とす勢いのアーティストによるそれは、普遍的に多くの人の「心の弦」を揺らすことができるのだろう。

でも「音ガク」のガクが「楽しみ」である以上、聴き手が一方的に好き、キライを判断することも許されてよいのでは・・・?

いかがなものだろうか?(^^;)


そして、エクストン盤とトライエム盤。
私にとって、雰囲気よくリラックスして聴けるのがトライエム盤であり、すこしチャレンジャブルになっているときに聴いてスカッとするのがエクストン盤である。

そんなことでも、心の弦の揺れ方は変わる。
もとよりオーディオもかじっている私は、プレーヤーも気分によって使い分けている。

楽しみは尽きない。(^^;)

高橋多佳子 ~音楽の贈り物~ コンサート

2007年11月05日 03時17分05秒 | 高橋多佳子さん
☆高橋多佳子 ~音楽の贈り物~
 《前半》
1.篠原敬介:Forest of The Piano
2.平吉毅州:こどものためのピアノ曲集『虹のリズム』より 4曲
3.ショパン:3つのワルツ 作品64
4.ショパン:スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31

 《後半》
5.ラヴェル:水の戯れ
6.ガーシュウィン/江口玲編:ラプソディ・イン・ブルー

 《アンコール》
※ ラヴェル:オンディーヌ ~ 夜のガスパールより
               (2007年11月4日 於ヤマハ立川)


高橋多佳子さんのコンサートに行った。
ヤマハ立川の3周年記念の企画らしい。通常はクリスマス・コンサートのようなものを企画しているらしいが、それとは別に練った企画らしい・・・営業努力としてまことに望ましいありかたである。(^^;)

プログラムに“A Present of the music”と銘打たれているとおり、店舗のファンに喜んでもらおうという心づくしが感じられて本当に好ましい・・・などと常体文に切り替えたのをいいことに偉そうに聞こえるように書く気はないのだが、本当にありがたい企画であった。
(^^;)
それに3周年記念のアトラクションなので、誕生日に数字の3が入っている人は入場料がタダ!!
かく言う私は3月生まれなので足代だけで聴けちゃった!(^^)v

今後、立川方面に足を向けて寝れないな。。。
私も楽器を扱うものの端くれとして、YAMAHA製品にはたいへんお世話になっているから、たまにはこのような施しを受けるのもよいのかもしれないが。(^^;)

さて、これくらいヤマハの立川店を持ち上げれば御礼もできたと思うことにして、ナミダものの感動を味わうことができたコンサートを振り返ることにしたい。


篠原敬介作曲の「ピアノの森」のテーマ曲は、月灯りの中で森の中に捨てられたピアノをイメージするべき曲とのこと。
そう多佳子さんの説明を聞くまでもなく、“どことなく”ドビュッシーを思わせる音遣いが聴き取られる曲であった。

先般の大感動の“月の光”でも感じたことだが、多佳子さんの演奏ではアルペジオの爪弾きとその際の絶妙なペダリングが有機的で生命力があり、雄弁な表情を表すということが再確認された。
演奏者の思い入れの深さが、曲をさらに深い聞きものにしているなという印象を受けた。


平吉毅州の『虹のリズム』は子供のための曲集からの抜粋。
一流の演奏家の手にかかると、他愛のない曲なんてものは存在しないと思われる。
自分がブルグミュラーの練習曲を弾く時と、上手な人とでは「入れ込み方」が違うんだろうと思っていたが、やはり演奏会にかけるに足る曲だと真に実力ある演奏家がみなした時にはそのような命が曲に与えられるのである、と信じられた。


ショパンのワルツ作品64の3曲は、ショパンの旅路に入っていないこともあって貴重な機会であった。
確か第2曲は何かの機会に聴いたことがあって、すごく矍鑠とした・・・というか颯爽とした演奏で「へー」と思ったものだが、今日はそのときからすると随分としっとりしたような感触であった。
第3曲がもっとも印象に残っているのだが、多佳子さんは実際に踊るワルツを随分と意識しているのではないかと思った。
以前の記事でスホーンデルヴルトのプレイエルを使ったショパンを聴いて、舞曲としてのショパン演奏を云々したが、ワルツはやはり円舞曲であり、多佳子さんも殊にマズルカとの親近性を指摘されたように踊れるものであるのが望ましいと思ってらっしゃる・・・のかもしれない。
さらに表現のスケールもショパンの旅路のころより大きくなっている・・・そんな気がしてもいる。

そうそう、ワルツの第3番を例示されたように、是非ともショパンの曲に隠れたマズルカ部分をあまさず指摘してみてもらいたいものである。
そんな曲を集めてみましたという趣向のコンサート「ショパンの曲中のマズルカ部分を訪ねて・・・」という企画はできないものだろうか?

変ロ短調ソナタの第2楽章のスケルツォの中とか、太田胃酸の宣伝のプレリュードの第7番だってマズルカといえばマズルカだよなぁ~。。。
で、全曲弾いたらプログラム全部になっちゃうかもしれないからボツかなぁ~。(^^;)

最後の、スケルツォ第2番は私にとっては前半の白眉。
第3番は何度か聴いているが、実演ではこれも初めての曲である。
今度は強音のコントロールが素晴らしい。文字通り「炸裂」していた。
彼女も以前紀尾井ホールの演奏前だったかにこのブログにコメントを寄せてくださって「炸裂したい」という表現をされていた。
その意味では、今日の演奏は会心の実感をお持ちに違いない。

冒頭の問と答えのような炸裂の後、左手のアルペジオ伴奏に乗って例の美しいメロディーが奏でられるわけだが、そこの伴奏のコントロールの素晴らしさ、右手の旋律の志の高さには震えがくるほど感激した。
ショパンの旅路で聴きかえす時など、永く忘れられない演奏だと思う。



後半はラヴェル“水の戯れ”から始まった。
はっきりいってラヴェルは多佳子さんに合っている。(^^)/
私のことだから何を弾いても合っているというだろうが、真に合っていると思う。

テンポはまずはゆっくりとって・・・と思う間もなく、音色のブレンドが絶妙なのである。
そして旋律線を浮き立たせるようにする部分と、伴奏部分の音の重層的なたゆたいの表現に傾注する部分とを、多分経験から感覚的に摑んでおられるんだと思う。
どうすると音の連なりで飛沫が飛び、流れ、波がおき、うねりが生じるのか・・・多分にペダルの技術によるところだと思うが、すべてを包含して「魔法」だったといっておけば間違いない・・・かな。(^^;)


プログラムのラストは、“ラプソディ・イン・ブルー”である。
実演では3回目であるが、聴いたのは夏以来久しぶりであった。多佳子さんはその間にも何回かは公演にかけていると思うので、どのように曲が成熟しているかを期待して聴いたが、驚くべきことに一聴した印象がまるで違う・・・。

見事に自身の音楽に昇華した、としか言いようがないと思う。

ジャズにカテゴライズされる演奏しかこれまで聞いたことのなかった私は、彼女の生涯2回目と3回目のお披露目を聴いているが、なにをおいても初々しい演奏というイメージではあったがクラシックのノリだと思っていた。
それはそれでいいのではあるが・・・。

でも、今回は違った。
他の誰でもない高橋多佳子の曲になっていた。
曲の構成上、気まぐれに場面展開していくわけだがすこぶる自然にこなれて聴こえたし、そうであるからこそ必然的な流れに思われたし・・・ピアニストがこの曲を弾くたびに興奮すると言っているとおりの感興が聴き手にもちゃんと伝わってくるような演奏になっていた。
私と一緒に穂高で聴いた人たちが聴いたら、さぞや快哉を叫ぶだろうなと思いながら・・・最初から最後まで、味わいつくせたんじゃないだろうか?

このような経験のできる自分はつくづくラッキーである。(^^)v
この曲を録音するのであれば初々しさと洗練がないまぜになっている“今”こそが旬・・・であると思うがどうだろう?
没後70年同士のラヴェルとのカップリングも良いが、ツィメルマンが来日公演で演奏しようとしたガーシュゥインの他のピアノ曲もあるし・・・。
(それは主催者のショパンを入れろという要請で、バラ4に入れ替えられちゃったらしいが。)



そしてアンコールの“オンディーヌ”にはナミダものに感動。
まずは演奏解釈も、テンポをじっくりとってこの曲のグロテスクさと洗練を本当に微妙に(多分ペダリングの妙によって)マッチングし、さらに大迫力をも実現していて最高であった。(^^)/

鳥肌立ちっぱなしの演奏終了後、ブラヴォーといえばよかったかもしれないがあまりの素晴らしい演奏に声もなかった。
拍手だけはいつもより一生懸命した・・・。(^^;)

何十種類ものこれまで聴いたすべての演奏を消去して、彼女の今日の演奏を上書きしてしまってよい!!
・・・そんな演奏だった。

曲中で盛り上がり、絶頂から水の塔が崩れ落ちてくるばかりの表現はまさに私の心の中で理想と思っている解釈であったし、最後の単音のモノローグにいたってはその雰囲気、雄弁さにおいて空前絶後といっていいと思う。
最後のアルペジオの波が消えて、余韻の中にわずかに不協和音が残り、ダンパーペダルを離すときの気配の絶妙なこと・・・和音がフッとクリアになりその響きを余韻として全曲を終了する・・・ラヴェルはこんな効果を狙ったんだということが改めて感得されたものである。

冒頭の音色の湿り具合(乾き具合?)はフランソワのそれを、途中で音の粒をアルペジオでキッパリと表現するところにはアルゲリッチを、全体の構成をスケール大きく構えるところはセルメットを思わせるような・・・と分析することもできようが、この演奏を前にすれば、私にとっては「そんなの関係ねぇ」である。

断言する。

私の中でかつてクラウディオ・アラウが高橋多佳子の“バラード第4番”の演奏にシャッポを脱いだように、“オンディーヌ”ではかつて聴いたピアニストの演奏のどれもが高橋多佳子に道を譲らねばならない・・・と。

どれだけ書いても、この感動は言葉に仕切れないので演奏についての薀蓄はこのへんにしておくことにする。(^^;)



さて実はこの曲“オンディーヌ”は、彼女が先日行った新潟(!)のコンサートで(プログラム変更して)採り上げた曲であった。
そのコンサートに私は仕事で行けなかった。
彼女のブログに「生オンディーヌを聴けなかったことは残念」と伝えていたところ、今日の演奏会でのアンコールとなったのである。

終演後、彼女の母君とお話しする機会を得て「ファンってプログラムが希望通りだと、勝手に自分のリクエストに応えてくれたと解釈するんですよ」などと話をしていたが、本当にきっとそうだと思っておりとても喜んでいる私がいる。(^^;)

なんてったって、ラヴェルの“水の戯れ”より“オンディーヌ”の方が演奏時間も長ければ、技術的にも至難だと思われる・・・そんな曲を選曲してくれるにはきっと理由があるのに相違ないのだ!!

多佳子さん、本来のプログラムより重たいアンコールをありがとう!(^^)/
感謝しています。m(_ _)m



もうひとつ母君によると「“オンディーヌ”を聴くのは久しぶり、10年以上前ではないか」とのこと・・・。
私が「先日新潟でも演奏されたようですよ・・・」と申し上げ先ほどの会話になったのであるが・・・。

そうか、そんなに長い間自分の中で暖めていたんだ・・・。
ショパンの旅路以前にいったん自分のものにしてあって、そしてまた採り上げて演奏しているのなら、あれほどの完成度であることも十分に頷けるような気がする。
そして、ショパンであれだけ私の感覚にフィットした演奏が可能ならば(彼女の演奏に私の感性が合わさってしまった部分もいっぱいあるが・・・)、ラヴェルであっても当然感じ方は共通なんだろうと思われ、なんて自分は幸せものかと思ったものである。
自分で弾けないのに、自分でこうであってほしいという解釈で曲が聴けてしまうわけだから。(^^;)



これだけの感動を与えてくれたのは、もちろん多佳子さんの技量によるものであるがそれを忠実に音に変えることのできるヤマハのピアノの優秀さによるところも大であるといえるであろう。

最後にこれぐらいは持ち上げておかないと、今日の感動のお礼にはなるまい。(^^;)
ほんとにそう思っているんだから・・・。

いつも前向きに!!

2007年09月09日 23時29分34秒 | 高橋多佳子さん
新宿駅西口のイベントスペースに人権関連の催しが展示されています。

現在冒頭写真のように『著名人から青少年に向けたメッセージ』が掲げられており、各界の著名人がそれこそいろんなメッセージを発信しておられます。

小梅太夫さんや木村政雄さん、ダ・カーポのおふたりに中村メイコさん・・・これらの方の言葉からは、青少年ではない私も少なからぬ刺激を受けました。(^^)/

まぁ私とて永遠の青年、万年オヤジですから・・・。(--;)


さて、その中でも私にとっては特に目を弾く一枚の色紙。(^^;)
      

そう、これは高橋多佳子さんの手になるものであります。

いつも前向きに!!

B型の多佳子さんらしい言葉が、これまた多佳子さんらしい見通しのよい筆致で書かれていて演奏同様ステキです。
(^^)/

ちなみにパネル全体はこんなふうです。
          

昨年のモーツァルト忌に八王子の人権の集会の中でミニ・リサイタルをされているぐらいですから、このようなところに色紙が出ていても全く驚くには当たらないことですが、やっぱり見つけてみると嬉しいものです。

あの日のポーランドについてのお話を、あらためて思い出してみました。

のみならず「人権」・・・個人的には油断ならない問題だと認識しています。

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その3) 

2007年08月22日 18時53分52秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート 《第2部》
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第2部》
 (2台ピアノ)
9.アレンスキー:2台ピアノのための組曲 第1番 作品15
10.ラフマニノフ:2台ピアノのための組曲 第2番 作品17

《アンコール》
※チャイコフスキー:花のワルツ ~「くるみ割り人形」より
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)

さて、第2部はアレンスキーの2台ピアノのための組曲第1番。
この曲を共演したことが、おふたりがデュオを組むきっかけだったんだそうです。

この組曲は前回のコンサートでも聴いているはずなのですが、これもまったく曲の印象が変わってしまいました。
まずは第1曲“ロマンス”ですが、曲のイメージのコメントは前回同様“ロシアの冬”というもので「雪がはらはら男女の親密な語らい・・・」といった濃密なこってり系の曲だという印象があったんです。
が、今回聴いた後はすっきりさわやかなとても聴きやすい系の曲じゃんか!・・・という感じにイメチェンです。(^^;)

旋律がまたチャイコフスキーの“四季”の“5月:白夜”に「よく聴くと、ん~、どこか似ているぞ」状態であることにも気づきました。
前回どうして気づかなかったんだろう・・・と思うぐらい似ている・・・。
そして更に、その旋律がまったく同じ形で何度も回帰するんです。
ロンド形式の曲なんだろうか?
私の感覚に照らすと、ショパンの“バラード”やリストの“愛の夢”みたいにちょっとずつでも変奏して味わいを違えたら・・・と作曲者に注文をつけたくなってしまいました。

これも演奏が練れて余裕が出てきたからこそ感じられるようになったこと・・・に相違ありません。

第2曲は“ワルツ”。
軽妙洒脱でピアニスティックかつ演奏至難な曲。
聴いている分にはおもしろい曲ですが、確かにこの曲をふたりで息を合わせて弾くのは難しいかもしれませんね。

私の体験に照らすと、エレキギター曲を演奏するときに拍の取り方がフィーリング任せになると、拍の表に入るか裏に入るか、合うか合わないかは目をつぶって運任せ・・・という状態になることがありますが・・・「よくそうならないな」と思いました。
まぁプロだから・・・当たり前か。。。(^^;)

最後の“ポロネーズ”。
理香りんさんは自身が担当するリズム・セクションが「重たい」と仰いますが、確かにパワーは増していながらも、ずっと見通しがきいていたように思います。
ここでも強弱・表現の幅を大きく取ることができるようになったことが絶大な効果をもたらしています。
この調子で迫力はそのままに、さらに小股の切れ上がったリズムに練り上げることができるといいななどと期待したりしてみてもいいでしょうか・・・。(^^;)

そして理香りんさんから「このポロネーズのトリオ部分がとてもアレンスキーらしい」というコメントがあり、注意して聴いてみました。
なるほど、音の遣いかたには妙に洗練されたものを感じ興味深いものがありました。
でも私の感想は・・・アレンスキーの「器用貧乏さ」が感じられた・・・というものでありました。

たしかにハイセンスだし、どの点をとってもすこぶるつきの一級品だと感じられるのですが、控えめというか猫の目のようだというか気まぐれ・・・執着がない・・・んですよねぇ~。

それを美徳と思えばいいんですが、優柔不断というか中途半端と聴いてしまうと、せっかく万能の作曲家であるかもしれませんがその長所がスポイルされちゃうんじゃないかなぁ~。。。
アレンスキーがメジャーになりきれないのは、結局その押しの弱さに起因するんじゃないでしょうか?

ひとつの曲にいろいろ詰め込むんじゃなくって、さっきも言ったようにリストの“愛の夢”やクイーンの曲のように同じ旋律でも「あ~なの、こ~なの、そぉ~なのぉ~」って感じで“ぐゎぁーつ”と押したならと素材のセンスは抜群なんだからウケルと思うんだけどなぁ~。

その控えめなところがセンスだと言われれば返す言葉はありませんが・・・。(^^;)

                  

本割の最後を飾るのは、メインと目されるラフマニノフの組曲第2番。
この曲も、音量・表現の幅が広くなったことでいちだんと食い応えのある演奏に変貌していたのが嬉しかったですね。

多佳子さんはピアノの森のコンサートで第2ピアノを弾いていたと思いますが、プリモ・セコンド両方を経験されたことで、また清水さんとの共演を経たことできっと得られたものが大きかったのでは?
もしそうだとすれば、それらは既に多佳子さん、否、デュオ・グレースのものとして消化され、とても自然に演奏の中に生かされていると思いました。

この曲でも、アレンスキー同様曲目解説がおふたりによってなされました。
これが、またビギナーにとっても、ある程度知識をもっている人にとっても示唆に富んだ話であり興味深く聞かせていただきました。

たとえば、最初の曲の大きな手を生かした和音での曲の始まりはわかっていることとして、作曲年代が第2番のコンチェルトと同時期であり、その曲を髣髴させる箇所があるというもの・・・。
一瞬エッと思いましたが、おふたりの演奏で聴いたら冒頭の和音の回帰する前の部分などまさにその雰囲気が横溢しており納得しました。

実は帰宅の後、アルゲリッチ&ラビノヴィチでその部分を聴いたんですが余りそのような香りはしませんでしたねぇ~。
だから、今回聞かなければずっとそれに気づかなかったんだろうな・・・と思った次第。

解釈の違い以前に、デュオ・グレースとアルゲリッチ&ラビノヴィチとでは曲の捉え方がまったく違うようにも思われてなりませんでした。
ラビノヴィチはロシア人なんですが、我々日本人が思うロシア音楽的な濃密さはデュオ・グレースの演奏のほうにより多く感じましたね。

アルゲリッチ&ラビノヴィチは、もっと響きをスリムに整理してスポーティというかスタイリッシュに弾き上げたという感じ・・・もちろん、どちらがいいという訳ではなくいずれも説得力のある演奏であります。
個人的には、アルゲリッチが自分の持てる破壊力をラビノヴィチと合奏するためにセーブしているように思えるんですが、エコノム等と演奏しているときにはどんどんアチェレランドしてってしまう彼女に、ラビノヴィチが見事に猫の首に鈴を付けた演奏というふうに評すことができるのかもしれません。
アルゲリッチの霊感の濃やかな閃きといったよさをスポイルすることなく、驀進する猛々しさだけを封印した名指揮者ラビノヴィチということにしておきましょうか。(^^;)

同じことは終曲の“タランテラ”にも言えて、デュオ・グレースによる説明では「毒蜘蛛に噛まれたら、一晩中でも踊り続ける」というのがタランテラという曲目の由来であるということでありました。
実際の演奏を聴いたらば、これはホントによくわかりましたね。
タランテラ・・・をこの意味で解釈するのであれば、まさにデュオ・グレースのようにワイルドかつ華やかに弾かれるべきであって、アルゲリッチ組はここでも整理されすぎている感があります。
ただ、そのように解釈して弾かねばならないかというとそんな決まりはないわけでして、ここでもどっちがいいという話にはならないとは思いますけどね。(^^;)


さて、アンコールは“花のワルツ”です。
ずいぶん以前の多佳子さんのブログで、冒頭のハープを弾く技を編み出したような記事があって、アンコールがこの曲であることがわかったときにはとても興味をそそられました。

そして、結果はといえば予想・想像を遥かに上回る魔法のようなタッチ・・・それはハープを模倣しているのでしょうがハープ以上の効果をピアノのタッチとペダルの効果から生み出しえている、正に魔法でありました。
これがあるから「高橋多佳子の演奏会には行かなきゃいけない」というそんな音色。

両手の肘から前が絶妙な孤を描き、指先がしなやかに鍵盤の上を掃いて上を向くと・・・「あーら不思議な音がする。」・・・という感じでした。
座席からは、鍵盤を掃き終わって上を向いた手指の形しか見えてないので何が起こっているかはわからないんですが、壮絶に凄い技だと思いましたけどねぇ~。

多佳子さんはピアノのどの秘孔をどのように突いたら、どんな音が出るのかつかんでるんでしょうね。
恐るべし・・・。(^^;)

おふたりともアフターアワーズの曲であるにもかかわらず、心底精力的に楽しく弾きあげてくれました。
多佳子さんのコンサートでは、アンコールにおいても開放感に満ち溢れたとても素直で心に響く演奏が期待されるのですが、今回も例外ではなくプログラム中の曲とはまた別のリラックスした楽しみを提供してくれるものでした。

聴いている私の頬がパッと明るくなるような感じで、最後まで盛り上がり全ての聴衆が快く喝采を贈って大団円を迎えたのでありました。


終演後、前回記事に掲載したプログラムへのサインをいただき、おふたりの写真を撮らせていただきました。
冒頭の写真が、そのお宝写真です。(^^)/
快く応じていただき、本当にありがとうございました。

次回公演がいまから楽しみです。(^^)v

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その2)

2007年08月21日 17時58分48秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート 《第1部》
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第1部》
 (2台ピアノ)
1.モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ 二長調 K448
 (宮谷さんソロ)
2.ショパン:マズルカ 作品59-1
3.ショパン:マズルカ 作品59-3
4.ショパン:「黒鍵」のエチュード 作品10-5
 (高橋さんソロ)
5.ショパン:ノクターン 変ロ長調 作品9-1
6.ショパン:即興曲 第1番 変イ長調 作品29
 (連弾)
7.ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番 嬰へ短調
8.ブラームス:ハンガリー舞曲 第6番 変二長調
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)


前回記事から報告しているデュオ・グレースのコンサートについてです。
例によって、個々の曲の感想を記しておきましょう。

今回もスタートはモーツァルトの“2台ピアノのためのソナタ”でしたが、前回のコンサートでは開演に間に合わず、会場内をロビーのテレビで映していたものを途中から観戦した曲目であります。

前回は「あれ、おとなしい」というのが感想・・・記録にそう書いてある。。。(^^;)

終演後の多佳子さんもそう思ってらっしゃったフシがありましたが、この点今回は俄然良かったですね。(^^)/
テンポは速からず、遅からずで適切だったし・・・。


生で聴いたということを差し引いても、弱音から強音までのダイナミクスの幅が飛躍的に大きくなったことと、表現の思い切りがよくなった・・・裏を返せば2人で演奏しているときにお互いの持ち味を思いっきり表現しても、音楽的に転覆しなくなった(しないことが判った?)ことにより、推進力、生気といったものが格段に前面に出てきておふたりが楽しんでいるさまが音としても聴き手に伝わってくるようになっていたと思います。

掛け合いのときの音色の表情付け、それぞれの奏者が2つの音を合いの手で入れるだけのところでも「思わせぶり」のニュアンスがびみょ~に違う・・・こういったところを発見する度にニヤリとしてしまいますよね。(^^;)
おふたりもここはキメの聴かせどころだと心得て、最高にコケティッシュな彩りを添えてくれました。

今回はっきり感じたんですが、この曲は1stピアノが思いっきり華やかに魅せる役で、2ndピアノは何か先生ぶった役回りであるように思います。
初演の経緯に鑑みれば、モーツァルトもそういうシチュエーションを前提として作曲しているようですが、多佳子さん理香りんさんにあってはどっちが主導権を取るということでもなく、絶妙の力関係で演奏を展開されていたと思いますね。

ただおふたりであるならば、まだまだ練り上げられるようにも思います。
何度聴いても爽快になれる曲なので、長く弾き続けていって欲しい曲であります。


続いては、おふたりのショパンのソロ。
売り物の「ショパンがちんこ対決」とのコメントがありましたが・・・なにも対決しなくとも。(^^;)
まずは、里香りんさんのソロですが、前回はもっちりしたタッチによる堅実な演奏ぶりが印象に残っていたのですが、今回は選曲のせいもあるんでしょうか・・・多少印象が変わりました。

マズルカにおける思い切った表現には、もちろんニュアンスの差はありますが幾分「高橋多佳子化」したのではないかと思わせるものがありました。
旋律の単音を念を込めたように持続する集中力には、聞いてるほうも思わず息を呑むところがあり理香りんさんの真骨頂を見たような気がしましたね。
作品59-2も弾いてほしかったなぁ~。
あの3曲がセットだと思うし、実は2がいちばん好きだったりするモンで・・・。(^^;)

多佳子さんのソロは、ノクターン第1番。
このところ何度か聴いている曲ですが、この曲の内包する微熱・火照りという要素が最も感じられた演奏となりました。
先に残念だといった音色のくぐもりが、ここではいい方に作用したのかもしれません。

考えすぎかもしれませんが、多佳子さんの演奏に清水和音さんとの共演の跡が感じられるような気がしてなりませんでした。
以前このバックステージでも特集した清水さんの男気あふれるノクターン集・・・多佳子さんの演奏が男化したのではもちろんありませんが、あの焦燥感というか、そこまで行かないけど火照り感に通じるものがあるように思ったのであります。
多佳子さんが清水さんの演奏に共感を寄せているという情報を持っているから、そのように思い込んでしまったのかもしれませんけど・・・雰囲気的にやはり・・・心なしかそう感じます。

“即興曲第1番”はいつものようにかわいくて、愛おしくてしょうがないという弾きぶりでした。
とくに曲の終わりの和音の素振りについては、とっても名残惜しそうな感じが印象的。多佳子さんにとってお気に入りの曲なんだろうなということが伺い知れます。
そしてこの曲はノクターンとは逆に、もっと後方の座席でハッキリした音で聴きたかったと最も強く思った曲・・・であります。


前半最後はブラームスのハンガリー舞曲の連弾。前回聞いたときにはここはドビュッシーの“小組曲”でしたね。
しかし“ハンガリー舞曲第5番”って、激しく久しぶりに聴いた超有名曲でした。
5番のプリモが多佳子さん、6番では理香りんさんとここでも分業制でいろんな意味で楽しめます。
この曲でも旋律のダイナミクスの振幅を非常に大きく取っていることが、デュオの技術の深化を感じさせました。そのほかにもいろんな意味でデュオ・グレースの可能性、このふたりによる表現の可能性を探るうえではとても興味深く有意義な選曲であったと思います。


ここで15分間の休憩です。

第2部へ続く!(^^)/

八王子いちょうホール Duo Graceコンサート (その1)

2007年08月20日 17時57分44秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 宮谷理香 Duo Grace コンサート
                  (演奏:デュオ・グレース)
《第1部》
 (2台ピアノ)
1.モーツァルト:2台のピアノのためのソナタ 二長調 K448
 (宮谷さんソロ)
2.ショパン:マズルカ 作品59-1
3.ショパン:マズルカ 作品59-3
4.ショパン:「黒鍵」のエチュード 作品10-5
 (高橋さんソロ)
5.ショパン:ノクターン 変ロ長調 作品9-1
6.ショパン:即興曲 第1番 変イ長調 作品29
 (連弾)
7.ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番 嬰へ短調
8.ブラームス:ハンガリー舞曲 第6番 変二長調

        ・・・休憩・・・

《第2部》
 (2台ピアノ)
9.アレンスキー:2台ピアノのための組曲 第1番 作品15
10.ラフマニノフ:2台ピアノのための組曲 第2番 作品17

《アンコール》
※チャイコフスキー:花のワルツ ~「くるみ割り人形」より
                  (2007年8月19日 八王子いちょうホール)

デュオ・グレースのコンサートを聴くのはデビュー公演以来であります。
高橋多佳子さん、宮谷理香さんによるこのユニットは、結成以来何度かの共演を経た今日、期待通りに全般的に長足の進歩を遂げておられることが確認できて嬉しく思いました。

デビュー・コンサートでは2人で合わせて弾くことの楽しみ、合奏したらこんなに楽しかったという音楽する喜び・発見が全身からあふれ出ていて、なによりもその新鮮味が好ましかったように思います。
聴く側の当方も、弾かれているお2人の美質の違いを見出して楽しませていただいた・・・そんな公演だったように記憶しています。

なんといっても、このバックステージに記録が録ってある訳でそのときの感覚をちゃんと思い出すことが出来るんですよねぇ~。。。
あらためて日記ってすごいなぁ~と思ったりして・・・。(^^;)


とはいいながら、こう毎日ディスクのことを書いていると何を書いたか・・・書いたことを忘れちゃったディスクもあるんですけどね。


そして今回公演では、おふたりの美質をもちろん尊重してるんでしょうけど、合わせるところはキチンと合わせて・・・というだけにとどまらず、2人で表現したら音楽の幅がどれほどまでに広がるのかを追いかける観点からも楽しむことが出来た、と感じています。

そんなことは、デュオ・ユニットであれば常にクリアし続けていくべき課題であり、当たり前だといわれるかもしれませんが、まずは順調な成長を遂げていらっしゃる姿をちゃんと確認できたことだけでも、応援しているものとしては嬉しく思うのであります。


おふたりには関係ない話ですが、いちょうホールは確かに音響面でも素晴らしいホールだと実感したものの、当日の座席がF列(前から6列目)であり、このホールの造りからすれば「もう少し後だったら良かったな・・・」というのが悔いといえば悔いですね。
多佳子さんの“瞬殺美音”のようなスタインウエイのスコーンと抜ける音を芯に持つピアノの直接音をもう少しはっきり聞けるようにするためには・・・2ndピアノは響板を外しますからあまり席が前過ぎると1stピアノより更にくぐもった音に聴こえてしまうように思います。
ピアノの音色は録音されたものをいつも楽しんでいる耳には、殆どがキチンと芯が聴こえるロケーションで収録されているものを聴いているために、余計にそう思えてしまうのかもしれません。
ただ、コンサート会場にはゼッタイに録音では拾いきれない音というのが確かにあって、その成分の多くは個々のピアニストが楽器から直接探り出す直接音に含まれているものだと思うのです。

私が、紀尾井ホールに何度か訪れたうちでそれを聴き取るベストの座席位置は2階席の1番前であると判ったように、いちょうホールではどこらへんがいいか確かめないといけないなと感じました。
今の感じだと「12~15列目ぐらいがいいんじゃないかなぁ~」と想像していますけどね。

当日の開演前のステージ・・・お客さんがほとんどいないのは会場直後だからですよぉ・・・。(^^;)
                  


ところで楽曲説明を含めたおふたりのMCも楽しく、こなれてきましたね。
アレンスキーやラフマニノフの解釈の一端を説明いただいたことは本当に興味深いものがありました。
一流の演奏家が楽曲をどのように捉えているか、曲のイメージをどう解釈して演奏に臨んでいるかという内容であれば、おふたりで楽しく“感覚的な会話”が続いてもとても嬉しく聴いていられるものです。

かねてより多佳子さんは、演奏家がコンサートに来て下さったお客様に一言も口をきかないような進行に疑問を呈されていました。
気さくな話しかけや、今回のようなトークを織り交ぜながら進行する方式を模索されて来ているのを私は知っています。
私にはその気持ちはよくわかるし、志にも心から共感しています。

ただ、今回の進行に関してもデビュー時のようなことはないものの、うるさ型の男性の聴き手にとっては、2台ピアノをソロに切り替える幕間の自己紹介のしかたにはもう少し工夫の余地があると思わされるものがありました。
ドレスの話題も楽曲紹介も、おふたりの会話は言いたいことがハッキリしていて楽しく素敵です。
でも最初の自己紹介の挨拶中などで話の目的か伝わりにくい会話・投げかけをされると、日頃家庭で家人から行き着く先のない話を聞かされてしぶしぶ相槌を打っている男性にとっては疲れちゃうものがあるのです。
最初の幕間・・・ここのMCだけは、もそっと超一流ピアニストらしい振る舞いをしていただけるとさらにカッコいいかな・・・と。

演奏内容に関係のない、余計なお世話ですいませんけどね・・・。(^^;)


さて愚痴だ注文だという話は今回限りにして、いかに楽しませていただいたかを次回以降ご報告することに致しましょう。(^^)/

シャープネスvs.ファンタジー

2007年06月29日 00時20分24秒 | 高橋多佳子さん
★ショパンの旅路 Vol.2 「旅立ち」~ワルシャワからパリへ (エクストン盤)
                  (演奏:高橋 多佳子)
《DISC1》
1.ノクターン 第3番 ロ長調 作品9-3
2.ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
3.ボレロ ハ長調 作品19
4.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
5.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.バラード 第1番 ト短調 作品23
《DISC2》
7.12の練習曲 作品25
8.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
9.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
10.4つのマズルカ 作品33
11.へクサメロン変奏曲 ホ長調
                  (2000年録音)

言わずとしれた高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”シリーズの第2集です。
もしかしたら言ってもらわないとわからないという人がいるかもしれませんが、その辺には余り干渉しないでいただきたいと思います。(^^;)

先般、あずみ野コンサートホールで多佳子さんにサインをしてもらったので嬉しいのです。
この話をしだすと進まないので、本論に移りたいと思います。


“ショパンの旅路”シリーズは、ショパンの若いときからの作品を順を追ってピアニストの成長と共に録音していくというコンセプトのシリーズでした。
第1集の作品10の“12の練習曲”から始まって、第6集の終曲、ショパンの絶筆とされるマズルカまで1曲たりとも私を満足させないものはないという、素晴らしい演奏が堪能できました。
その中でも、作曲家ショパンの初期から中期に至るまでの名曲を揃えたのがこの第2集。

先日も「初めてショパンを聴くなら」と聴かれたときに、まず私の多佳子さんとの出会いのきっかけとなった“Ⅴ”を挙げましたが、前期の曲ならといわれてこの“Ⅱ”を推しました。

もちろん演奏は、どの曲集のどれをとっても文句のつけようがありません。
最近、多佳子さんのディスクを聴く私のスタンスのほうが「高橋多佳子が弾くの正しいのだ」という姿勢であるので、文句が出ないのです。(^^;)
正義の基準が多佳子さんの演奏側にありますから、これをご覧になった人はそれを差し引いて判断していただく必要があるかもしれません。
でもこのバックステージぐらい、私の基準に照らして書きたいことを書いていいスペースだと思っているので許してくださいな!


ディスクは、多佳子さん自身思い入れを持っているという作品9-3の“ノクターン”に始まり、“華麗なる大円舞曲”、“アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”という人気曲も収め、りかりんさんとのコンサートでソロで演奏された2曲“エオリアン・ハープ”と“即興曲第1番”があるかとおもえば、“ボレロ”“へクサメロン変奏曲”などというなかなかお目にかからない演奏まで聴けてしまうというバラエティ豊かなもの・・・。

また、ミケランジェリ信望者の私としては、彼のDGへの唯一のショパン録音である10のマズルカ集のB面に収められている“バラード第1番”“スケルツォ第2番”が両方とも入っているディスクであることも興味深いです。

まぁこれを聴いてしまえば、ミケランジェリなにするものぞ・・・ですね!
と、ちょっと大袈裟に書きましたが、いかんせんミケランジェリは私のおじいさんの世代のイタリアの演奏家。。。
私のクラシック音楽の歴史の中では今でも確かに神様ですが、すでにホントに神様になっちゃったから。。。
「今現在、最も共感できる演奏は?」と聞かれれば、是非もなく「多佳子さんの(^^;)」・・・ということになります。
もちろんミケランジェリは素晴らしいですよ! 彼の流儀で(絶好調の時の)彼を凌駕する人は、未来永劫現われないと思います。

またノクターンでは、作品9で1と2を敢えて外しているところまでが何故かニクイ選曲に思えてしまいます。
私は作品9のノクターンを多佳子さんから全曲聴いていますが、全部違った演奏会だったなぁ~。
作品9-1は先日の安曇野と東村山、作品9-2は北軽井沢と3月のガラコン、作品9-3は初めて行った新潟県の三条でのコンサートですね。
もちろん作品9-1・2いずれも絶品だったので、できれば録音してもいただきたいのですけど。。。


実は、作品9-3を三条のリサイタルで聴いた後に“エクストン盤”を聴いて、失礼極まりないことに多佳子さんのブログに「作品9-3のが素晴らしかったから、ディスクを録音しなおして欲しい」と書き込んじゃったことがあります。
それほど実演が素晴らしかったということでもあるのですが、今回お詫びして訂正しないといけないのかなと思うことがありました。

というのは、この記事でご紹介するディスクは、実はこのディスクです。(^^;)


★ショパンの旅路 Ⅱ 「旅立ち」~ワルシャワからパリへ (トライエム盤)
                  (演奏:高橋 多佳子)

《DISC1》
1.ノクターン 第3番 ロ長調 作品9-3
2.ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
3.ボレロ ハ長調 作品19
4.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
5.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.バラード 第1番 ト短調 作品23
《DISC2》
7.12の練習曲 作品25
8.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
9.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
10.4つのマズルカ 作品33
11.へクサメロン変奏曲
                  (2000年録音)

念願かなって、先ごろ入手することができた廃盤になっている(レコード会社がなくなってしまったため)“トライエム盤”の同じディスクです。

先に“シャープネスvs.ファンタジー”というタイトルを説明させていただくと、“エクストン盤”・“トライエム盤”、それぞれのディスクの音の傾向を一言で表現したつもりなのです。

別にジャケット写真を比較した時に“エクストン盤”が色黒でシャープに見え、“トライエム盤”からはハトが飛んでいるなど手品師のようなファンタジーを感じるというわけではありません。(^^)/
でもジャケットに関してタイトルのロゴやレイアウトが変わっているのは別にどうこう思いませんでしたが、背景の写真まで違っているとは・・・実際並べてみるまで気づきませんでしたねぇ~。
あらためて、日頃物事を如何にのんべんだらんと見ているかを痛感しました。


さて、この2枚はもちろん音源は同じはずです。
“トライエム”が持っていた原盤マスターを“エクストン”が譲り受け、DSD方式でリマスターしてもう一度世に出してくれたという経緯があるようです。
だから“エクストン盤”が出たからこそ、私は多佳子さんの“ショパンの旅路Ⅰ~Ⅳ”の演奏に触れることができたわけで、“エクストン・レーベル”のオクタヴィア・レコードには感謝感激なのです。

でも、この2枚の音の傾向は聞き比べてみたところ明らかに違います。
“エクストン”が“シャープネス”で“トライエム”が“ファンタジー”なのです。
そして、作品9-3に関して言えばこのディスクのオリジナル音源となっている元の録音には、きっと多佳子さんが実演で聴かせた音が入っている・・・ということがわかったのです。
その音が“エクストン盤”では聴こえない。。。少なくとも私の現行システムでは引き出せないのです。
その結果、私が勝手に命名した多佳子さんの“瞬殺美音”を「録音時点では彼女がものにしていなかったのではないか?」と思ったためにコメントのカキコに至ったというわけです。
実際にはスクリャービンの幻想曲の演奏などで明らかなように、彼女は前世紀からその音色を誇っていたんですけどね。

そして今般、マランツのユーティリティー・プレーヤーとプリメイン・アンプの組み合わせで“トライエム盤”を聴いたところ、もちろん実演ほどの鮮やかさではありませんが確かに瞬殺美音が聴き取れるのです・・・。

りかりんさんとのコンサートを特集した私の記事でも、作品25-1、作品29について多佳子さんのウルウルの表情付けと美音を愛でておりますが、家で聴く時は「コンサートのときの演奏を連想することで豊かに聴けるようになる」というような趣旨のことを書いたように思います。
でも、“トライエム盤”には、やっぱり実演のときと同じ音と思しき音がちゃんと聞き取れるのです。

“瞬殺美音”だけに留まらず、演奏しているロケーションの雰囲気情報、フレージングの情感、奥行き情報も“トライエム盤”のほうが私には自然に聴こえるし。。。

要するに“エクストン”と“トライエム”、もともと情感・奥行き情報とも入っている同じマスター・テープから「何をどのように聴かせるか」という方針が違うということなのではないでしょうか?
つまり“エクストン盤”ではチョッと音場が平面的になるリスクを犯しても、音を硬質に圧縮して、とにかく演奏を勢いよく聞かせようというコンセプトだと思います。したがって、“音”がすぐ耳につくわけです。

逆に“トライエム”は音を少し緩めに開放することで、自然にに広がりを感じさせる音場を優先し、雰囲気良く聴かせようというところに留意をしたマスタリングが施されていると見受けました。
作品25-9や25-10の中間部など、背景の音がフリーに広がっていくので前面の音が窮屈さを感じさせず煌めくのです。
したがって聴いているうちに一瞬で音楽に引き込まれて、自分から次の響を聴きに行きたいと知らず知らずに追いかけていってしまう仕掛けとなっています。
それこそがファンタジーのカラクリ。。。
“トライエム盤”のほうが、私にはあっているのかもしれません。


ここで毎度のことながらお断りさせていただきますが、この比較はどちらが良い・悪いという評価ではありません。
どちらの仕事も、エンジニアはトーンマイスターとしての良心に則った仕事をしているのですから、私が仕事ぶりをどうこういう筋合いのものでもありません。
事実として私の現行機器を使用した場合には、“トライエム盤”に(結果として)強調されている情報のほうがファンタジーを感じさせる音であるために、勢いやピアノのシャープさを強調した“エクストン盤”よりもゆとりを持って聴けたような気がするということです。
これがフォーカスのあったアグレッシブな音楽を聴きたい人や、比較的口径の小さいスピーカーでくっきりと聴きたい人には私と逆の判断をする人がいてもおかしくありません。

とにもかくにも演奏よし、プレーヤーをとっかえひっかえ、ディスクも傾向が違うものが2種類あるとなると同じホールでいろんなところに陣取って聴いたような体験ができて興味深いです。

でも、やっぱりピアノの音色周りの空気に開放感が感じられるために、例の抗しがたい魅力を持った美音が聴き取れる“トライエム盤”を入手できたことが、とてもラッキーだったと思っています。

なんだか、録音に関する薀蓄の記事になってしまいましたね。(^^;)



※出張のため先日付投稿します。

生きる力を秘めたディスク

2007年06月20日 20時35分30秒 | 高橋多佳子さん
★ロシア・ピアノ名曲集
                  (演奏:高橋 多佳子)
1.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第7番 変ロ短調 作品83 「戦争ソナタ」
2.スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28
3.ラフマニノフ:楽興の時 作品16
                  (1994年録音)

A)ロシア・ピアノ名曲集なら、やっぱり僕はスクリャービンなんです。。。
T)スクリャービン・・・?
  あの曲、1番録音のとき苦労したんですよ!
A)でも、プロコフィエフの第3楽章の7拍子なんて難しそうじゃないですか?
  頭の中がくちゃくちゃになりません?
T)確かに。。。
  だけど、3と4とか、4と3とか、どこをどのようにリズムを取るか(コツを)摑んでしまえば大丈夫ですよ。
A)ヒントがあるんですね?(^^;)
  でも、スクリャービンはそれよりも難しいんですか?
T)そう。手を思い切り大きく広げなければいけないうえに、入り組んだ旋律をきちんと弾き分けないといけないので、
  プロコと比べてスクリャービン・ラフマニノフは難しいですね。


先日安曇野で高橋多佳子さんと話した内容の一端です。。。
もちろん“T”が多佳子さんで、“A”がアラウさんです。(^^;)
この後にCDの録音の話になり、すいすい行くこともあるかと思えば、何度弾いてもうまくいかずゼッタイ弾けないとナーバスになることもある・・・というようなことを仰っていましたっけ。
そりゃいつまでも残るものですから、芸術家としては慎重を期してリリースしたいという気持ちがあるのは当たり前の話だし、出来上がりに関して神経を遣う気持ちはよ~くわかりますけどね。(^^)/

しかし、プロコフィエフよりスクリャービンのほうが難しいというのは私には驚きでした。
指の運動性能だけが問われる曲であるならカンタンと言われてもイメージ沸くんですが、あの変態的リズムがすんなり整理できているという頭の中とは、いったいどんなつくりになっているのか覗いてみたいものです。


サインはジャケットの裏表紙にいただいています。(^o^)/
                  

ところで、このディスクにはかけがえのない特徴が3点あります。
1.怖いもの知らず、正統的にしてアグレッシブな解釈と、それを実現した演奏
2.ピアノ自体の音色の素晴らしさとあますところなくそれを捉えた録音
3.高橋多佳子さんの弾き出すピアノの音色のパレットの多彩さ

かねてエキサイティングかつダイナミックだと感じてきた(曲自体は最近まで意味不明だったけど・・・)この演奏でのプロコフィエフ、これ以上ない繊細さと神々しいまでの雄々しさと表現の幅を誇り、瞬殺される美音の連続であるスクリャービン、技巧的な要求を完全に満たして独自の世界に行きついたラフマニノフと、非常に愛聴してきたディスクです。
全体的としてホントに若々しく生き生きしていますが、デビュー盤のショパンではそれほど感じられなかった今に繋がる多佳子さん独特の個性が強く感じられ、彼女はこのころスタイルを確立したんじゃないかと思ったりしています。


実は、このディスクに出会ったのは静岡市の図書館でした。
“ショパンの旅路Ⅴ”に感動し、それ以前のディスコグラフィーを探していた私ですが、Ⅰ~Ⅳが配給会社の事情でどうしても手に入れられずに歯がゆい思いをしていた時、まったく気なしに目に飛び込んできたんです。
もちろん、すぐに借りて聴きました。そして、スクリャービンに憑かれてしまったというわけです。(^^;)

しかしながら最初のプロコフィエフの感想は、「やはり絶望的にわからん」でした。
第3楽章はよく耳にすることがある曲ですから、馴染みはあったんですが「弾くほうはうまくいけば爽快感を得ることができるんだろうけど、聴くほうとしてはジャズにも似たノリのよさ以上の聞くべきところがあるのか?」という程度の認識しかなく、音楽的に味わいどうこうは理解の外でした。

一方、ラフマニノフも秀演とは思いましたが、余りにもスクリャービンに感激したために影がうすかったですね。


スクリャービンの幻想曲は、それまでにザラフィアンツ、ジューコフご両人の演奏を聴いていて、これらも絶対的な名演として深く私の心に刻まれています。
多佳子さんの演奏も図書館で聴いた記憶だけであれば、これらと同列に素晴らしい・・・ぐらいの感想だったのかも知れません。

でも、自分で苦労してディスクをなんとか手に入れて、自宅のシステムでちゃんと再生してみてビックリ!!!

音がいい・・・。

深~いピアノのクラルテ、ピアノ自身の素晴らしい音が豊かな雰囲気を伴って再現されています。これほどピアノの音を美しいと思えるディスクもあまりないのではないでしょうか?

さて、今でも多佳子さんの演奏でもっとも好きなものがショパンの“バラード第4番”であるのは変わりませんが、“エロス&タナトス”の表現というか、曲を通して愛と死の妄想の中で頓死するほどもだえちゃいたくなるのは、このスクリャービンの幻想曲ロ短調に他なりません。

この音楽上では明らかにショパンの末裔である作曲家の手になる音楽が、こんなに立派な流儀で弾き遂せられているのはなかなかないと思います。

さらに特筆すべきは、初めて旋律的な主題が出てくるところの音色。。。
ピアニシモでおずおず顕れるのですが、明らかに瞬殺美音の大サービス状態で悶絶しそうになりますねぇ。
それが、幾度も大事にだいじに展開されて、とうとうクライマックスに上り詰めるときの視界が大きく開けたかのような感動ときたら、そりゃもうこたえられません。

そしてこのディスク全般を通して聴いて感じるのは、3人の作曲家のそれぞれの作風を見事に捉えた曲集になっているということ。
スケールの大きな生命力・躍動感が堅実な奏楽の中から立ち上ってきます。(^^)/

要するに、やっぱり多佳子さんの弾くスクリャービンの幻想曲に最も共感できる・・・ということです。(^^;)


最後に多佳子さんから聞いたエピソードをもうひとつ。
ある高名な音楽評論家の先生が、病を得て入院された際に病床へ持ち込んだディスクがこの“ロシア・ピアノ名曲集”と故クラウディオ・アラウの何枚かのCDだったんだそうです。
その先生曰く「このディスクから“生きる力”をもらった」と多佳子さんに連絡あった由。

このエピソードからも多佳子さんの演奏のポジティブなパワーが伺えます。
また多佳子さん本人が感動を与えた人から贈られた言葉に、今度は多佳子さんが心底感激されていてなかなかない“いい話”だと思いました。
ついでながら、病床にあった先生が併せて聴こうとされたのがアラウ盤だったことを、わざわざ“私”に教えてくださるところも嬉しいじゃないですか!


ますます高橋多佳子というピアニストを応援したくなりましたね。(^~;)

我が人生に一片の悔いなし!

2007年06月17日 22時53分44秒 | 高橋多佳子さん
このところいささかハードな日程が続いていて、ちょっとバテ気味なんです。
熱が出たり・・・(言い訳、以下省略)のために、先日安曇野でお会いして高橋多佳子さんと話したときの話題のひとつをご紹介してお茶を濁させてもらいます。(^^;)


彼女はご自身のブログでも「北斗の拳」について触れておられましたが、ホントにお詳しい。
その記事が取り上げられたときには、私もつられてコメントにいろいろとカキコさせていただいてしまいましたが・・・。

殊にラオウの最期、「我が人生に一片の悔いなし」というセリフまわしのところなど、驚くほどよく覚えてらっしゃる。。。
ジャンプに掲載されたのは何年も昔のことなのに・・・。

ピアニストはあんなに長い曲を暗譜することができるぐらいだから記憶力がいいんですかねぇ~?


逆に多佳子さんからは先日の「ラオウの葬式には行ったんですか?」と真顔で聞かれてしまいましたが・・・「生憎と行っておりません」とお答えするよりありませんでした。
「葬儀委員長は谷村新司さんだったんですよね」とお返しして一矢報いるのが精一杯でした。。。


もちろん彼女がお好きな漫画は「北斗の拳」だけではなく、「ガラスの仮面」「ピアノの森」の話もありましたんで・・・・・・くれぐれも誤解のなきよう。


なお冒頭の「牛に引かれて」の写真はJRの長野駅にあるものです。
この会話が松本市(長野県)でされたことと、話題が漫画(絵)なのでトップの写真に掲載したに過ぎません。

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in 東村山市立中央公民館ホール

2007年06月14日 00時00分00秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 ピアノリサイタル
  東村山市民合唱団 第30回定期演奏会記念 ~The Fantastic Musical Journey~ 

《前半》
1. スカルラッティ:ソナタ ホ長調 K.380 (L.23)
2. ベートーヴェン;ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」
3. ショパン:ノクターン第1番 変ロ短調 作品9-1
4. ショパン:ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1 「子犬のワルツ」
5. ショパン:ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
6. ショパン:スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39

《後半》
7. ドビュッシー:前奏曲集第1集より「亜麻色の髪の乙女」
8. リスト:パガニーニによる超絶技巧練習曲集 第3曲 嬰ト短調「ラ・カンパネラ」
9. ガーシュウイン:ラプソディ・イン・ブルー (江口 玲:編曲)

《アンコール》
※ ドビュッシー:ベルガマスク組曲より 第3曲 「月の光」
※ ショパン:24の前奏曲集より 第15曲 変ニ長調 「雨だれ」
                  (2007年6月12日 東村山私立中央公民館ホール)

曲を書くのに、ほとんど前の記事のコピペで済んでしまった・・・。(^^;)

諸般の事情(残念ながらショパンの事情ではない)により、12日は徹夜明けになることが判っていたのですが、池田町のリサイタルを聴いて多佳子さんとお話をしたときに、東村山にもそそくさ出向こうと決断してしまいました。

結果が大満足になることは判っていましたから。。。(^o^)/


ここは当然と言えば当然、池田町のホールよりかはずいぶんデカイ・・・。
置いてあるスタインウェイも、それに比例したようにデカイ・・・多分鍵盤は同じ仕様だろうけど。。。

演奏プログラムは一緒です。
でもステージの奥行き、ホールの壁の迫り出し、ピアノの大きさを考えて、座席を19列目に取ったため、低音がまろやかになったり、残響の乗り方が少し変わったりしたため曲の印象はすこし変わったように思います。

少なくとも、聴き手の私としては少し客観的に聴くことができた・・・と言えるかもしれません。


多佳子さんの解釈にも変更はないと思いますが、多佳子さんの気分は大きく違っていたと思います。
池田町で同じプログラムで演奏しているからか、気負いもなくリラックスしてらっしゃったと思います。
スカルラッティが始まってほどなくペースを摑まれ、終始和やかに、それでいて鮮やかに弾き上げられた、弾いてて楽しい演奏会だったのではないかとお見受けしました。
実際どうだったかは知りませんけど・・・。(^^;)


というわけで、池田町の演奏で気づかなかったことだけレポートにしてご紹介しておきましょう。

まず、そのスカルラッティでは演奏の“気分”が違ったように思います。
池田町では前から4列目でピアノの音が直接聴こえる位置だったこともあり、高音での音の芯がキラキラ飛んできたんですが、今回はほどよくエコーが乗って落ち着いている。。。

多佳子さんもホールが広いためなのか、それとも何かの霊感が降りてきたせいか池田町のときよりも装飾が多かったんじゃないかなぁ~。
前は音のキラキラが目立ったんですが、今回はトリルそのものが印象的でしたねぇ~。


次はベートーヴェンの悲愴。
MCで多佳子さんは、ベートーヴェンをバッハ・モーツァルトの古典派からロマン派への架け橋になった人だと解説されましたが、まさにその通りの演奏だと思いました。

何種ものレコードを聴いていますが、今回の実演を聴いてベートーヴェンの和声に含まれる不協和な音が如何に音の味わいを膨らませているか・・・これも初めて気づいたですねぇ。
今の時代のプログレを思い起こしてしまいましたが、当時の感覚でもまさにプログレッシブな音楽の想像だったに違いありません。

男らしい旋律と仰る第2楽章も、距離をおいて聴いたことでずいぶんゆったり聴けました。
ここでも気づきがあったのですが、中間部の三連符の和音伴奏になるところって、もしかしてシューベルトの音楽にそっくりじゃないですか!?

シューベルトはベートーヴェンを心から敬愛していたので、当然この曲を知っていたでしょうし、シューベルトのインスピレーションの源って案外ここら辺の曲なんじゃないかと思ってしまいました。

当の多佳子さんは、あまりシューベルトを弾いてこられていないようですが・・・・・・まぁ、その気になったら弾いてください。(^^)/
私が好きな作曲家ですから。。。
第18番ソナタの“幻想”なんか合うんじゃないかなぁ? (言うのは勝手ですよね!)


ショパン・メドレーを今日の演奏で聴いたなら、強引ソナタ連続説は唱えなかったでしょう。(既に呼称を変えています)
多佳子さんのショパンはいつ聴いてもホントに素晴らしい。。。

特に“嬰ハ短調ワルツ”を多佳子さんがどのような曲だと考えて奏でているのかを、ぜひ知りたいですね。
このような解釈で弾く人は彼女しかいないと思うから・・・。
説明は難しいですが、多佳子さんは雄渾とまでは言えなくとも確固とした足取りで弾きます。
翻ってこの曲には、一般にセンチメンタルというか「よよよよよ・・・」という感じのイメージってありませんか?

“スケルツォ第3番”って、スケルツォを並べてしまうと1番・2番より地味に思えてしまいますが、こうやって聴くと恐ろしく弾き映えする曲ですよね。
もちろんウマく弾けたらですけど。。。
多佳子さんのは獲物を狙うトラかヒョウかって感じで、しなやかにハジけてました。

私の席からでは、やはり中間の神様が降りてくるような下降パッセージが残響でキラキラ感が池田町のよう聴こえなかったです。
だから、いつもディスクで聞いてるような感じ・・・この点では、池田町の方がいいロケーションだったなぁ~。

この日の演奏では最後のコーダよりその前のブリッジになる部分、ここで音が漸増していき曲調が膨らむイメージにたまらなく“ぞわぁぁあ~”っときましたねぇ。
その後例のコーダのフレーズが煌びやかに駆け回り、炸裂する音に会場は皆ノックアウトされていました。


全編とおしていえることですが、多佳子さんの左手の刻むリズム・・・ショパンは指揮者のようであれと言っているようですが・・・の作り出すノリ、ジャズ・フュージョン界でいうグルーヴ感のような感覚がすごく活きている・・・。
だからとても気持ちいい。(^^)/

弾き終わって袖に向かっておられる間、拍手とともに賛嘆のため息があふれました。


そして休憩。。。
ロビーでみなさん「ショパンがスゴイ」だ、「ベートーヴェンがすばらしいだ」と勝手なこと言ってましたね。
「全部いいと言わんかい。」
と思ったことはナイショです。(^^;) カドが立つから・・・。

私はもちろん、オトコは黙って・・・です。 
会場に知ってる人いなかったし・・・。


今回も演奏同様、多佳子さんのMCで名言が飛びましたね。
「まいど、ありがとぉございます」とうぐいす嬢も現われたし、白鳳関まで・・・時事ネタが入るようになったとは、スゴイ進歩だと思いますね。



休憩後、ドビュッシー。。。
これは、やはり今回のように距離をおいて聴いた方がいいですね。
なにせ使っているピアノは、スタインウェイのコンサート・グランドなのですから。


ラ・カンパネラは、今まででもっとも情感を高橋多佳子流に自然な感じで溢れださせるというイメージで弾けてたんじゃないでょうか?

この曲は最も実演で多く聴いているかもしれませんが、特に前半が今まででいちばん表現意欲にあふれてそれが成功していたんじゃなかったかしら・・・。
弱音・間を活かして独特の雰囲気あふれる演奏だったと思います。


そしてプログラムの最後、ラプソディ・イン・ブルーです。
私はかねて、これはゼッタイ「のだめ」の影響で選曲されたに違いないと睨んでいたのですが、そうであることが判明しました。
安曇野コンサートホールでも、そこにいらしたみなさんに「きっとそうに違いない」と言いふらしていたので嬉しかったです。(^^)/

実は安曇野で、私は多佳子さんの書込の入ったこの曲の楽譜を見せていただいています。
書き込み入りの楽譜を見たのは、ラフマニノフの第2番ソナタの時に続いて2回目でした。
といって、譜面を見てすぐ音が頭の中で鳴ることはありませんが。。。

そのとき「中間部の曲調が変わるところで飛び切り感動した」と口ずさんだところ、その部分のページを開いて示してくださいました。

その部分の楽譜のイメージはよく覚えています・・・フレーズが単音で味気な~く書かれていました。
「これを演奏するとあのようになるのか?」と思ったものですが、今回もあの楽譜を感動的に聴かせてしまうことができるピアニストという人種を心底尊敬したものです。

さてさて池田町のときは初演で緊張されていたんじゃないかと思いますが、今回はずいぶんと余裕が感じられました。
特にこの曲は、弾いてらして楽しかったんじゃないんでしょうか?


ところで自分の居場所を「クラシック畑」とおっしゃる多佳子さんが、今後この曲をどのように弾きこなしていきたいと思ってらっしゃるのかが気になります。


私には今回の“クラシックの流儀”と“ジャズの流儀”のブレンドの程合いが、ベスト・チョイスだと思えて仕方ないんですけど。


もしピアノパートだけをジャジーに弾くんだったら、ペダルで音を練り上げる意識をもうすこし控えて、鍵盤に脱力した腕の重みを乗せた指を着地させるという弾き方でなく、いい意味で鍵盤をひっぱたけばいいんだと思いますが・・・。
打鍵方法をいじくるのは大変なことでしょうからねぇ。

またクラシックでは一般に、楽譜を読み込んでそこから読み取れる作曲者の演奏上の要請に基づいて音色や雰囲気を変えるんだと思いますが、ジャズの場合は先に気分があって、それに相応しい音色や演奏法(アドリブとか楽譜をいじることもふくめて)をとる順番のように思います。

でも、クラシックの花園のお姫様である多佳子さんの演奏は完全に前者ですからねぇ。
ジャズ・ピアニストの演奏のほうが確かに気分の切り替えスピードが速く、その対比の度合いが顕著ですけど。。。

これ以上は、あんまりジャズを意識しすぎないほうがいいんじゃないかなぁ?


ガーシュゥインにアドヴァイスしたと言われるラヴェルの言をパクれば・・・
「あなたは既に一流の高橋多佳子なんだから、今さらゴマンといるジャズ・ピアニストの亜流になる必要はない」
なんてね。(^^;)


あまりにも、奏楽がいきなり“こなれて”しまったので驚くと共に、多佳子さんのピアニズムのかけがえのない部分を、ご自身でスポイルすることのないように・・・などと毎度の心配癖がでてしまいました。

ここでも多佳子さんの強靭なリズムへの感覚が、演奏を活気あるものに感じさせるポイントになっているのに相違ありません。

この日の“ラプソディ・イン・ブルー”の演奏は、確かにご本人が「自分に合ってると思う」と自信を覗かせてらっしゃるだけのことはある。
わずか2・3日のうちに、楽曲を自分のものに昇華しきってしまわれたと感じました。

恐れ入ったもんです。


花束贈呈があって、アンコール。。。

まずドビュッシーの“月の光”がとっても素晴らしかったです。

もちろん節度あるとはいえ、しっかりした音色で音を鳴らされたドビュッシー。。。
フレーズの間の取り方やアルペジオの音色など、まるで夢の中での魔法のように感じられました。
アフター・アワーズの音楽としてこんなに感動し、ウルウルきたのは初めてです。


ところで安曇野で多佳子さんが話してくれたことの中に、ツィメルマンについて「完成度が考えられないほどスゴイ」とか「自分たちと演奏中に考えていることが違うかもしれない」という言葉があったんです。
そして、ご自身の演奏の「完成度を上げたい」とも仰っていた・・・。


でもこのアンコールの演奏を聴いたうえは、私はあえて申し上げたい!
「あなたは既に一流の高橋多佳子なんだから、今さら二流のツィメルマンになることはない」と・・・。(^^;)

同じ言い方ではちょっとナンなので、今度はオシム監督のマネをするならば・・・
「高橋多佳子はツィメルマンにはなれないかもしれないが、ツィメルマンにないものを持っている」

おぉ、こっちのほうがしっくりくるかもしれない。

今もショパンの旅路を聴きながらPCやってますが、多佳子さんほど心の中がまっさらで、いろんな刺激・・・もちろん曲も・・・に対してビンビン素直に反応し、それを自分にしかできない流儀や音色で伝えてくれることができる人はいないと感じ入っています。

“月の光”は自分も弾いたことがある曲だけに、なんであの楽譜からそんな風、つまりこんな涙が出るほど感動的に弾けちゃうのかが本当に不思議です。
ホント悔しいくらい・・・。(^^;)


こんな体験をしてしまうと「完成度って何なんでしょうね?」って思ってしまうのです。

ツィメルマンの音楽は、ディスクもブラームスのソナタ以降の殆どを持ってるし、かく言う私も“超”がつくほど大好きですが、スタイリッシュでホットな歌心と気位の高いところが魅力。
実演においても音色の選択・解釈はもちろん、演奏そのもののできばえもこのうえなくすばらしいのでしょう。

多佳子さんはランランにも触れて、アドレナリン出まくりの演奏態度から繰り出される突き抜けた奏楽に、演奏上の問題は何も関係ないって感じだと、ため息交じりとまでは行かないけれどやや唖然という感じでした。
ランランも演奏の「完成度」がトランスした世界ですごくできちゃう方なんでしょうね。
それはよくわかります。弾いてるときのパフォーマンスからも・・・。


でも、私は『高橋多佳子』の演奏からこの2人から感じられない、より素晴らしい魅力を見出しています。
同じ魅力に絆されている人を何人も知っていますし・・・。

少なくともリサイタルでは、この“月の光”のように多佳子さんの心の赴くままに弾かれたなら、誰にもまねできない“感覚的な魅力”で聴衆を感動させることができるんです。
そしてその魅力は、若干“質”的には違うかもしれないけど“感覚的”で“誰にもまねできない”という点でホロヴィッツのそれに通じるものがあるといえるかもしれません。

私が多佳子さんの実演で心底揺さぶられたのは、思えばこの感覚的なところによるものが多かったですね。
三条での、ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲の第18変奏のピアノ独奏版とか、埼玉でのショパンのエオリアン・ハープや即興曲第1番なんかまさにそう・・・。

話があらぬ方向へ行ってしまいましたが、要するにこの世のものとも思われない美しい“月の光”に心が洗われました。
多佳子さんにはまたこんな演奏が聴かせていただけるよう、頑張ってほしいと思うばかりであります。


そして最後は池田町と同じく“雨だれの前奏曲”・・・。
前よりずっとしっかりとした足取りで、でも表情にことかかないいい演奏でした。
ことにコーダ最後の変ロ音以降、単音で降りてくるところがギターのハーモニクスを思わせる音色で。。。

なんでこんな音が出せるの???

底知れぬ技を秘めた多佳子さんに、畏敬の念を思える私でありました。(^^)/


このリサイタルでもう一つ感じたこと・・・。
MCのノリがよくたくさん話された時の多佳子さんは、演奏も同じようにノリが良い。
逆にMCの具合が、演奏のノリのバロメーターであるのかもしれません。
MCが多いと訝しく思うリスナーがいると思いますが、私の経験では高橋多佳子さんに限っては口数の多いときの方が、調子がいい演奏が約束されるような気がします。


徹夜明けでもこんなに充足させてくれた多佳子さん。。。
終演後、お目にかかっていろいろな感謝の気持ちを伝えて帰途に着きました。


帰ってからは、すぐ夢も見れないほどに爆睡したことは言うまでもありません。(^^)/

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in 池田町創造館

2007年06月13日 00時00分00秒 | 高橋多佳子さん
★高橋多佳子 ピアノ・リサイタル
  ~The Fantastic Musical Journey~ 安曇野の風にのせて音楽で世界を旅しよう

《前半》
1. スカルラッティ:ソナタ ホ長調 K.380 (L.23)
2. ベートーヴェン;ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」
3. ショパン:ノクターン第1番 変ロ短調 作品9-1
4. ショパン:ワルツ第6番 変ニ長調 作品64-1 「小犬のワルツ」
5. ショパン:ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
6. ショパン:スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39

《後半》
7. ドビュッシー:前奏曲集第1集より「亜麻色の髪の乙女」
8. リスト:パガニーニによる超絶技巧練習曲集 第3曲 嬰ト短調「ラ・カンパネラ」
9. ガーシュウイン:ラプソディ・イン・ブルー (江口 玲:編曲)

《アンコール》
※ J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
※ ショパン:24の前奏曲集より 第15曲 変ニ長調 「雨だれ」
                  (2007年6月9日 池田町創造館多目的ホール)

我等が高橋多佳子さんのリサイタルのレポートです。
レポートと言っても毎度のことながら、私の主観だらけの内容なのでその辺はご容赦いただきたいと思います。(^^)/

会場の池田町創造館にはスタインウェイの素晴らしいピアノがおいてあるのですが、今回のリサイタルは、そのスタインウェイで素晴らしい音楽を聴きたいというみなさんの篤志で企画されたものです。

リサイタルは上記のとおりのプログラムで、随所に新しいレパートリーを織り込んだ意欲的なものでした。
そして出来栄えにも極めて満足が行くものでした。(^o^)v

終始思い切った表現ができたという意味では、多佳子さんとしても納得の演奏会だったのではないかと思います。
後で聞いたら、ご本人もそう仰ってましたし・・・(^^;)

もちろん理想の高い多佳子さんのこと、毎度の如く「あれが足りない、ここが上手くいっていなかった」などと課題を見つけておられるんでしょうけど・・・。


さて、実は私、ホール(冒頭写真)にずいぶん早く着いちゃったんです。
そこで、多佳子さんがリハーサルしている音が漏れてくるのを、変質者がヒミツの部屋を盗み見するような気持ちで耳をそば立てていました。
多佳子さんはいつも本番の何時間も前からさらっておられます。
練習する曲の順番は、なぜかプログラムの最後のほうから逆に辿ってくることが多いようです。

リスト、ショパンは細部のパッセージを繰返し丹念に、ベートーヴェンは曲全体の流れを重視するように、スカルラッティは音色というか気分に細心の注意を払っているのかなと思いました。
その他いろいろここでも発見があったのですが、ヒミツにしておきます。(^^;)

唯ひとつ、悲愴の第3楽章最後の急速な下降パッセージが、実は第1楽章グラーヴェの終盤にある下降パッセージとそっくりだということに気が付いた・・・多佳子さんが第3楽章の最後のそのフレーズを何度もさらっているときに、1回だけ第1楽章のそのフレーズを混ぜたのでわかった・・・のは、弾ける人なら誰だって知っていることでしょうからご紹介しておきます。(^^)/


では、以下に個々の曲についての全く個人的な感想を・・・。

スカルラッティは音色の綾が抜群に清潔でした。
もともと二段鍵盤チェンバロ用の曲ですから、一段鍵盤のピアノに移しかえたときにどの高さで弾くのかを選ぶ必要がありますよね。
多佳子さんは冒頭のユニゾンのパッセージの繰り返しの何度目かを、私の知っている多くの演奏ではユニゾンで両手ともオクターブ低く弾くところ、左手だけをオクターブ下げて右手は高いままで弾いていました。
何といっても繊細な高音での響きが生きて、さらに天国的な感が高まったと思います。

ホロヴィッツの魔法のような演奏に憧れるとのコメントがありましたが、ホロヴィッツの魔術とは別のさわやかな魔法を既に身に付けているのに気付いてらっしゃらないんでしょうかねぇ~?(^^;)


ベートーヴェンの悲愴は、想像どおりの演奏でした。
あくまでも奇を衒ったところのないオーソドックスなテンポ、表現で語るもの・・・。
曲中の呼吸、間といったものはここで鳴ってほしいというところにあるべき音が見事に収まっているので、痒いところに手が届くというのはこういった解釈のことを指すのではないかと思われました。

また、グラーヴェでのピアノの音色はスタインウェイピアノの最良の美点を生かしたもので、ディスクではこれまでに一度も聞けなかった迫力あるものとなってました。

演奏前に「第2楽章をロマン派風というよりは、男らしく弾きたい」と仰っていたんですが、そこは宝塚の男役みたいだったと言っておきましょう。
オスカルではなく、アンドレですね・・・と。


ショパン4篇のうち、スケルツォ第3番以外は“ショパンの旅路”の選曲から漏れていたもの・・・。
それだけに、期待いっぱいだったのですがやはり多佳子さんのショパンは抜群に素晴らしい!!(^^)/
これはゼッタイにディスクにしてもらわねばなりますまい。

ノクターンは、「出だしの音からトロけちゃうぞ」と期待したとおりとろけちゃいましたし、中間部右手旋律はオクターブで辿っているだけなのに何と色合い豊かなんだろう・・・と。

小犬のワルツの当日の演奏にはご本人はいろいろ思う所がおありでしょうが、高橋多佳子らしい表現はよく伝わってきましたね。(^^)/
音響的にはトリオが終わった後、旋律が回帰する最初の左手バス音がオクターブでディープだったのが印象的でしたし、コーダの鮮やかさには耳を奪われましたし・・・。
この曲は、自分でも楽譜を辿ったことがあるので如何にプロがすごいかがよ~くわかりました。

嬰ハ短調のワルツは、多佳子さんとお母様との思い出の曲だとか・・・。
けっこうセンチメンタルな演奏が多い曲ですし、そんな想いがあるとなおさら・・・と思ったりもしたのですが、どっこい雄渾といってよいほどしっかりと深いタッチで弾き切っておられましたね。

そして、スケルツォ第3番。
これも最初からオクターブでごそごそする曲ですが、よくもまぁオクターブでこれだけの表情が付けられるもんだと感心しました。
また、高音でキラキラ下りてくるパッセージはこれまたトロけちゃう美しさ・・・とここまでであれば想定どおりだし、秀抜な演奏家であれば可能な技かもしれません。
しかし、その後コーダにすさまじく突っ込んでいく(ディスクよりスリリングでした)、それも音楽的なノリを一瞬たりとも失うことなく・・・ここまでならポリーニでもできるのですが、多佳子さんの真に凄いところはそこに何ともいえない“華やぎ”があるのです。

“ショパンの旅路”で「ピアニスト自体がショパンの目線で演奏している」などと評されていた通りだとすれば、今回のショパン演奏もそれに近い厳しい演奏だったんだと思います。ただ、巧まずしてにじむその華やぎが、演奏をより一層魅力的なものにしていたことは疑いありません。


ところでこの4曲は、前半スカルラッティ、ベートーヴェンとソナタが続いたんで、ショパンもソナタ的に並べたのではないかと勘ぐっているのですがどうなんでしょうかねぇ?(^^)/

例えばベートーヴェンの月光のように、幻想曲風な第1楽章を持ってきて、第2楽章はごく短い長調で、終楽章を嬰ハ短調を2曲続けることで表現したとのではないかというモデルが第一案。
第二案はショパンのロ短調ソナタがモデルだと考えるもので、第1楽章は万華鏡のような表情のゆらめきを、第2楽章は急速な長調、第3楽章はノクターン風ではあるものの芯のしっかりした音楽、終楽章はヴィルトゥオジティにあふれたヒロイックな短調・・・ってな具合で。。。

大ハズレかもしれませんが、こんなことを考えるのも実演を聴く楽しみですよね。
いえ、実演を聴いてそのような思惑で選曲されたんじゃないかと感じたんですからね・・・。

変ロ短調ソナタへのシューマンの評のように「4人の息子達を強引にまとめてソナタという名前をつけた・・・」なんて気取ってみたりして。(^^)/


ここで休憩です。当日の会場からの景色・・・素晴らしい常念岳が見えま・・・せん。
                  

これを書き上げた後、私の仮説をご本人にお伺いしましたところ・・・

まず、私のスカルラッティ→ベートーヴェン→ショパンの“ソナタ連続説”には「いいところを突いて来られますねぇ~」とお褒めの言葉をいただきました。(^^)/

“月光”モデル説には「そうそう、それいいですね」と言われ、“ロ短調ソナタ”モデル説にも「そういうことにしましょう」と言われました。

というわけで結局、どういうことにしていいのかはよく判りませんでした。(^^;)


ついでに、穂高のホテルです。先日ここの近辺を皇太子妃雅子様がトレッキングされたそうです。
                  

後半の開始は、ドビュッシーの亜麻色の髪の乙女でした。
これも、ご本人解説の通りソステヌート・ペダルの効用を最大限に発揮して、ほどよくくぐもった音色で淡く弾かれた佳編でブラヴォ~であったと思います。

印象派ではラヴェルの方がスキだったけれど、疲れたときに流れてきたのを聴いて癒されたというエピソードを紹介してくれました。
多佳子さんの印象派の演奏は、りかりんさんとのデュオで小組曲を聴いていたけど、多佳子さんのラヴェルを聴いたことの無い私としては意外でした。
もちろん、どっちでもいいから聴きたい、否、両作曲家とも聴きたいというのが私のキモチです。


そしてラ・カンパネラ。
何度か聴いていますが、今回が一番クールに表現の幅を大きく取って積極的に弾きにいった演奏だったという気がします。
音色にまろみがあったように感じたのはピアノのせいでしょうか、それとも演奏のテクニック上のことなのでしょうか?
毎度ながら、演奏が終わったときに客席から驚嘆のため息が漏れました。


ラストナンバーは、ガーシュウインのラプソディ・イン・ブルー。
譜面は江口玲さんの編曲を使用し、さらに多佳子さんのペンも入っていました。

これは多佳子さんのブログにも紹介されていたエピソードですが、3月に羽田健太郎さんと競演した際に「演奏会で初めて弾きます」と話したところ、全編アドバイスをいただいたそうです。
ダジャレ好きの羽田さんは「弟子は取らないが、寿司は取る」と誰にも音楽を教えることなく、最後まで自身が練習の虫だったとのこと。。。
先日逝去されたことを知っている今にして思えば、自分の体の変調に気付いて「このヒトは!」という人に何かを伝えたいと考えられたんでしょうね。

多佳子さんに伝えることができたのは伝えた側、伝えられた側、そしてその聴衆全てにとって結果としてラッキーだったと思います。

多佳子さんは、やはり根っからのクラシカルとでもいうべき演奏スタイルだったので羽田さんの流儀とは違うと思いましたが、ガーシュウインの音楽をエンターテインする精神をこそ見事に引き継いで、正面から弾きあげてくれました。(^^)/

曲中めまぐるしく空気が変わる曲ですが、そこは借り物でない自身の表現を展開されていましたから、きっと羽田さんも天国で聴いて喜んで下さったことだろうと思います。


コンサートのラストでこの曲を懸命に弾き終えて、アンコールで羽田さんに捧げるかの如くJ.S.バッハの“主よ、人の望みの喜びよ”を弾いているさなか、感極まってしまわれた多佳子さんの心の揺れは手に取るようにわかりました。
きっとその想いは聴き入っていらしたかたには伝わっていたし、会場のみなさんの全てが共感しておられたと思います。



音楽とは単に音響を聴くだけではなく、音に乗っている人の想いを聴くことであり、そこに自分の想いを共鳴させることであると強く感じさせられました。



いつもはシャカリキにアンコールの拍手をする私も、このときばかりはもうこれ以上アンコールを期待するのはよそうと思ったのですが、多佳子さんの方から「湿っぽくなってしまったし、雨が降っているから・・・」と雨だれを演奏してくれました。


それは冒頭から天国からの音色とでも言いたい始まり・・・無意識のうちに表情あふれる旋律。。。

虚空を見つめる先にはきっとなんらかの世界が見えているんだろうなどと思いながら、しっとりと味わいました。

私個人のこの曲のイメージでは中間部の悪魔的な嵐の過ぎた後、夕立の後のすべてが洗われたような清々しい雨上がりが帰ってくるのですが・・・このときばかりはまだチョッと。。。


今回の演奏会に当たってはピアニストの想いはもちろん作曲家・ピアニストをアドバイスした人、リサイタルを企画した人、そして聴き手の想いが交錯しています。
今、私は人の心を結んだ音楽、絆を感じさせずにおかない演奏を体験した充足感に包まれています。
そしてそんな感動を与えてくれたみなさんに感謝しています。


雨だれの前奏曲、冒頭主題が回帰しましたが・・・相変わらずしっとりそぼ降る初夏の温もりを帯びた霧雨、それとも涙雨かも。。。
会場全体が哭いた後だったからそう思えたのでしょうか?


そのコーダも終盤。。。
わずかなブレスの後、多佳子さんが注意深く鍵盤に指を降ろすと・・・
彼女にしか出せない、例によってこのうえなく自然に放たれた変ロ音・・・。


最後のフレーズで、確かに厚い雲間から陽が差し込んできてくれました。(^o^)/

この音が聴けただけでも、安曇野まで来た甲斐がある・・・。


多佳子さんならきっと“あの音”を再現することができるでしょう。
でも彼女でもあの会場における“あの感覚”を再現することはきっとできない・・・。


どんなにピアニストが再現性を求めても、それは演奏のうえでだけのこと。
やはりそのときの会場が作り出す空気・雰囲気に再現性はありません。

一期一会を肌で感じる・・・忘れられない演奏、忘れがたい体験となりました。

聴けてよかった!! (^^;)


                                    《6月9日記(除:休憩中のコメント)》

ふははははは・・・☆

2007年06月12日 00時00分00秒 | 高橋多佳子さん
とうとう・・・とうとう、高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”の全部にサインが入ったぞぉ~!!(^^)/

先刻、安曇野から戻ってきて早速ステレオ横のCDたてに納めました。
思わず手を合わせて拝んでしまいたい・・・。(ほとんど変質者のノリですな!)
納めるに当たって、辺りを清掃したことは言うまでもありません!


“ショパンの旅路Ⅴ”と“ロシア・ピアノ名曲集”にはサインがないじゃないかって!?

甘いねぇ~。裏表紙にちゃんとあるんですよ・・・コレが!(^^)v

この他、礒さん、荒さん、りかりんさんと多佳子さん所縁の演奏家のサイン入りディスクを納めてるんですねぇ~。。。
                  

今回の安曇野行脚では、コンサート主催のかたのお計らいで初めて多佳子さんとまともに会話する機会が持てて感激∞でした。
シャイな私はお話中、多佳子さんのお顔をまともに見ることができずずっと伏せ目がちになってしまい・・・
あー、恥ずかし。(>_<)

ツィメルマン、ランラン、ブレハッチなど注目のアーティストについては、本当にわれわれと全く変わらない1ファンとして嬉々としてその魅力を語ってくださり、リサイタルのプログラム等についての私の思いつきの感想に対しても、快く応じてくださり・・・ピアノの森やらガラスの仮面など、マンガの話までしちゃった!(^o^)/


でも、そんな多佳子さんが真剣な表情で「演奏の完成度を上げたい」と仰ったときには、覚悟みたいな強い意志が感じられて凄みすら感じました・・・。

おっと「ずっと伏せ目がちのオマエになぜ表情がわかるのか?」というツッコミは禁止(!)です。


とってつけたようですが、伏せ目がちだったので多佳子さんの手許はよく見えました。(^^)/

「この指があの魂を揺さぶる音を作り出すんだ、あの音はこの指からでないと生み出されないんだ」という思いがよぎり、たいへん感慨深いものがありました。


今回、新しいレパートリーを開拓され新境地を見せてくれた多佳子さん。
お話させていただいてそのお人柄を知り、さらにさらにファンになりました。
本当に何事にも感動できる人なんだなぁ~。
“高橋多佳子の「!」な毎日”というブログのタイトルはまったく誇張のないものだということがよ~く判りました。

もちろん我々が仕事上でいろいろ悩むのと同様、自らの演奏の課題に思いをいたしておられることもあるようですが、コンサートで見せてくれた思い切った表現へのチャレンジを続けてくださっていれば、何も心配することないと確信した私でありました。
これからも心から応援していきたいと思っています。

最後に、安曇野でお世話になった皆様にこの場で御礼を申し上げます。

 ありがとうございました。(^o^)/



さ~て、また多佳子さんのディスクを聴いてのんびりしようかな。(^^)v



 あ、デビューアルバムのショパンだけ、まだサインをもらってない・・・・・・( ̄□ ̄;)!!

今度会うときだな・・・NEXT!! B型万歳!!!



※事情により先日付投稿いたします。

NEC ガラ・コンサート

2007年04月04日 00時00分00秒 | 高橋多佳子さん
3月29日午後6時過ぎ、東京四ツ谷は上智大学前の堤からの景色であります。

暗くてよくわからないとは思いますが、写真右下にある樹木はクリスマスツリーではありません。
桜が満開なのであります。

桜の話題で書き出しましたが、“さくら”といっても鉛筆メーカーでも寅さんでも女子プロゴルフでもありません。
そう、音楽の話題なのです!
音楽といってもケツメイシでもコブクロでも森山直太郎でもありません。ましてや“昭和枯れすすき”でもありませんよ・・・クラシックであります。

といろいろこの記事の枕の文章を考えながら、外濠の堤を桜を愛でつつ写真を撮りつつ到着した紀尾井ホールで行われた“NECガラ・コンサート”の模様をアップしたいと思います。

この日はご存知のかたは知ってらっしゃるとおり、私の誕生日でした。(^^)/


「そんなことはどうでもいいから、早く記事の本題を読ませろ!」というお気持ちになっていただけましたでしょうか?

おなかが空いたときのご飯がことのほかおいしいのと同じで、コンサートってそういった「早く聴きたい」という期待感というか、じれったさを感じると感激もひとしおになるんですよね。

私とて、お読みいただいてイライラさせるかもしれないファクターを冒頭に持ってきたのは、好きこのんでしているわけでも、私の趣味でも、性格の悪さでも何でもありません。

ただ単(ひとえ)に期待感を醸成する感覚を味わってほしかったのです。この言を信じてもらえるかは、日ごろの私の心がけによるところが大きいのかもしれませんけれど・・・。(^^)/


この日は自由席であることをコロッと忘れていたというか、考えてなかったので桜を見ながらチンタラ会場へ歩いていったのですが、ホテルニューオータニが見えてきたところから何やら長蛇の列が・・・。

  ゲロゲロ!?

というわけで私が会場に入れたときに1階席も空いてないわけではなかったのですが、2階席の最前列右よりに陣取ることにいたしました。

まだ前振りをしていますが、そりゃぁ会場に入ったとたんに開演するわけないでしょうに・・・。
アーティストが現れて音が出るまでに、やはりコンサート・モードに意識を高める必要がありますから、演奏についての文章が出てくるまでしっかり期待感を蓄えてくださいね。

私とて嫌がらせするつもりはないので、アーティストが会場に現れた途端に「以下次号」なんて記事にはしません!(キッパリ)
これが“巨人の星”なんかだと飛雄馬の目が燃えて、足を頭の上まで振り上げたところとか、ボールが手から離れた瞬間に“また来週”となったりしますからねぇ。
そういう意味では親切でしょ。(^^)v

その席を選んだ理由は、なにもシャンデリアを吊るしてある紐が切れたとき1階席だと直撃されるのを避けた、というわけではありません。
以前このホールでの高橋多佳子さんのリサイタルを聴いたときに、1階の真ん中奥ではピアノの音が籠って聞こえたためであります。弦楽器とかには響きがちょうどいいのかもしれませんけどね。

結論からいうと、目論見は大当たりで定位は若干遠くなるとはいえ、ピアノ演奏を聴くためには直接音・間接音のブレンドも上品でパワーのある音が聞ける位置だったと思います。
反面、クロマチック・ハーモニカとヴァイオリンの演目でのピアノとのアンサンブルが、ちょっとピアノの直接音が勝ってしまったようにも感じられましたが、まあ概ね快適な音世界に遊ぶことができてよかったです。(^^)v


さて当日の私が今の“あなた”くらい焦れて期待感が高まったところで、徐(おもむろ)に照明が落ちて、この夜のトップバッター、クロマティック・ハーモニカ演奏の竹内直子さんが舞台に登場されました。

プログラムは、J.S.バッハの『G線上のアリア』とシューベルトの『アヴェ・マリア』、そしてクロマティック・ハーモニカのためにジェームズ・ムーディにより作曲された『トレド~スペイン幻想曲』というプログラムでした。

先に少し触れたように演奏バランスは、クロマティック・ハーモニカは涙が出そうなほど郷愁を誘う音色が残響豊かに広がっているのに、ややピアノの伴奏が直裁に聞こえるような気がしないでもなかったのですが、ハーモニカの美質がよく顕れたすばらしい演奏でした。

ことに『トレド』は楽器の可能性をいっぱいに表現できる楽曲だったために、竹内さんは「限界に挑戦!」とばかりに楽器代表みたいな使命感にあふれた演奏をされたように思えます。
もちろん楽しんで弾いてらっしゃったんでしょうが、人気投票で選ばれただけあって楽器の威信をかけた気合がはいってましたですねぇ~。
中ほどにカデンツァがあったのですが、すべての音を自分のコントロール下においておられることがよくわかりましたし、ハーモニーの音のブレンドの加減なんてまるで魔法のよう・・・。

これまでハーモニカといえばブルース・ハープしか知らなかったもので・・・。スティーヴィー・ワンダーの『可愛いアイシャ』のソロとか、拓郎・陽水のフォーク弾き語りとか、ツェッペリンのロバート・プラントやエアロスミスのスティーヴン・タイラーとか・・・ね。

これに対して竹内さんの演奏ではすべての曲において、もともとのハーモニカの音色と相俟って、今までに聴いたことのないような音色の感覚が新鮮でした。
一緒にするなと言われるかもしれませんけど・・・同じ音楽だから・・・。


次に登場されたのは、アコーディオンの御喜美江さん。演目(演奏順)は以下の通りです。 
1.スカルラッティ:ソナタハ長調 K.159
2.J.S.バッハ:アンナ・マクダレーナの音楽帳より6曲
3.ピアソラ:バチンの少年
4.ジョン・ゾーン 『ロード・ランナー』 アコーディオン・ソロのための

彼女の名は10年ぐらい前からレコード芸術誌のディスク評で絶賛されていたことなどからよく知っていたのですが、音を聴くのは初めてでした。
このコンサートの出場が決まったとき以降、彼女のブログもチェックしていて、よい意味でザッハリッヒなお人柄も感じ取ってはいたのですが、そのお人柄も演奏のすばらしさもいずれも感じさせる演奏ではなかったでしょうか。

冒頭のスカルラッティなど、いつも聴いているピアノでの演奏とは一線を画したニュアンスを湛えたもの・・・。
蛇腹で空気を吹き込むんだと思うのですが、出だしをピアノからクレッシェンドするだけでなく音の輪郭をぼやけさすこともできるようで、そのピアノやハープシコードには決してできない芸当によって、独特の味わいを醸していたように思います。

アコーディオンは当たり前ながら、ランドセルを前にかけたように構えるのですが、腰掛けるとひざの上に楽器を置く形になります。
御喜さんは小柄なので、演奏するときは首から下はすべて四角い楽器が占めているように見えていたのが印象的です。
しかしさらに驚いたのが、必要に応じて足を踏み鳴らしたりいろいろな工夫をすることと併せて、本当に伝わってくる音楽が溢れ出てくること・・・。
私にとって、アコーディオンのすごさとは、昔のテレビ番組“お笑い頭の体操”での横山さんの即興の至芸だけでしたから・・・。
う~ん、ハーモニカといいアコーディオンといい、奥の深い侮れない楽器ですねぇ~。

特に2曲目のバッハでは組曲中の例の有名な『メヌエット』が演奏家を志した原点と仰っただけあって、装飾音のつけ方ひとつとっても慈しみが感じられるものでした。
そして、ピアソラの演奏といえばバンドネオンが連想されるわけで、アコーディオンのフィールドにある曲なのかもしれませんが、それはそれは哀愁ただよう、まさに眼前に情景が浮かぶ演奏でした。
ホントはこの曲が最後で、次の久元さんにバトンタッチだったらしいんですが・・・曲順が変わったんですよね。

というのは、ジョン・ゾーンの『ロード・ランナー』は間違いなくこの夜もっとも前衛的な曲。リハーサルでノリに乗って演奏した結果、楽器を壊してしまったそうで、また壊すといけないから曲順をラストにしたという・・・。

この説明のお話しぶりも台詞を活字に起こすと事務連絡みたいになるかもしれない言葉遣いながら、独特のペーソスあふれる語り口でそれすら味わい深いものにされてしまったので、それも人徳だなぁと思いました。
私も人と話しをするのが仕事なもんで大いに見習いたいものですねぇ。

で、この曲は推測ですが車(たぶんアメ車でオープン・カー)でハイウエイをブッ飛ばしているときに、ラジオを合わせようとしている情景なのではないか?
不協和な和音やフレーズ、あるいは鍵盤ではなく楽器の上部などをパタパタ叩いたりしてチューニングを合わせたりデチューンしたりしている様子を表現しているように思いました。
チューニングが合ったときに現れる音楽などが、非常に多種多彩で楽しかったですねぇ。
これも、アコーディオンの表現の限界を紹介するぞといわんばかりの意欲的なプログラムであったのでしょうが、涼しい顔をしてビシッと決めるところが流石でした。

このステージがとりわけ素晴らしいものだったことは、会場の誰もが感じたことだと思います。


さて、前半最後はピアニストの久元祐子さんによる『モーツァルト:ピアノソナタ第8番イ短調 K.310』であります。

とても思い入れのある演奏であることは一聴してわかりましたし、駆使されていたというかもう巧まずして思いが滲み出ちゃうほどに自分のものにされきった、技術的な特徴を数知れず聴き取れた・・・もちろん、彼女が演奏を通してわれわれに問いかけたかったことを受け止めることができた、と感じられる充実の演奏でありました。

第1楽章で決して走っていないのに、躍動感というほどではないにせよ生命力というか骨太なポリシーを感じられたこと、第2楽章で確かにテンポは抑えられていたのだと思うんですけど一音一音の存在感を大事にした奏楽であったように思われることは特筆大書してよいのではないかと・・・。

もちろん“ライヴ”なので何のミスもなかったというわけではないでしょうし、個人的には冒頭旋律の扱いや第3楽章での早い走句において気になる瞬間があったことはあったのですが・・・。それよりも、それらパッセージの織りなす綾というか響きの間にいかに豊かなニュアンスが盛り込まれていたかを考えるとき、このピアニストの演奏の独特さ、かけがえのなさに触れられたような気がしましたね。


さて休憩です。アイスコーヒーを飲みました。
ダイエット中なのでガムシロップを我慢しました。どうでもいいことですね・・・。(^^)/
当日のチラシとプログラムです。


後半のトップバッターは私のとっての真打ち登場。
高橋多佳子さんによる『ショパン:ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2』と『リスト:波を渡るパオラの聖フランシス 《2つの伝説》より』でありました。

会場が暗くなってすぐ、多佳子さんが登場し「おお、久しぶりのドレス姿・・・。涼しげな水色だこと!」と思ってる間におじぎされ、イスの座り位置を調整されたと思ってる間にショパンが始まっちゃったように思うのです。
ちゃんと、拍手はしてたんですけどね。
要するに、客席の中にざわざわ感が残る休憩モードのうちに演奏に入っちゃった印象がある・・・。

ショパンのノクターン、出だしちょっとカタかったように思えたのはそんな影響があったのかもしれません。
でもさすがは多佳子さんで2回目のトリオ辺りから霊感が降りてきたのか、聴く側のこっちに準備ができただけなのか、いつもの感覚に戻ってとことん魅了してくれましたね。
語弊があるかもしれませんが、多佳子さんのあの日のノクターン演奏は颯爽としたノクターンでした。

全般的な音色のキラメキはやはり彼女にしかないものだし、2回目のトリオの最後上行の装飾の潔さは“宝塚の『ベルばら』公演で女性が演じるアンドレ”のよう。
そしてコーダのフレージングは霊感に溢れたもので、最後の装飾、高音トリルの精妙さは、やはり私が理想とする芯から発せられる輝きに満ちたものでありました。
底光りっていうとなんか違う感じがするモンで・・・。

そして私にとっての最大の聴きものリストの『波を渡るパオラの聖フランシス』は、やはり多佳子さんの技巧が縦横に生きる曲との予想通り極めて劇的でドラマティックな感動をもたらしてくれました。
まずはこの曲は聞くからに大変な技巧曲という風に聴こえることがあるというか、そのように聞かせようと考えるピアニストもいるのですが、多佳子さんの演奏はそのような行き方とははっきり一線を画して、見せ掛けのド派手さとは無縁、むしろ極めて高度なテクニックにより抑制された表現の中でドラマが展開していくという様。
だからこそ、燃えさかる石をかざし海を渡る聖フランシスの荘厳さが表現される余地が出てくる・・・。

つまり「波は自然の恐ろしいまでのパワーを感じさせるけれども、神懸かりの霊力で抑えられている」というシチュエーションを表現するのに、主に左手の急速なアルペジオで表現される波が技巧の困難さのために大暴れしてしまうと、波に飲みこまれちゃう感じになるように思うのです。
聖フランシスは静々と波のうえを渡るのであって、ビッグウェイブをヤマタツのサウンドに乗ってサーフィンするわけではないし、ましてや荒波に飲まれて海の藻屑と消えるわけではないのだから・・・。
この荘厳さが醸し出されたならば、まずはこの曲の生命は保証されると思っています。

次にそのアルペジオの織り成す響きの空間にどれだけ隙間があるか。表現しにくいのですが、どれだけ見通しのいい演奏ができるかということに関してもすばらしかったと思います。
この曲の楽譜を再現した際に立ち現れる響きの間に、確かに聖なる空間が存在することがイメージできていて、それを弾き出そうとしていらっしゃることがよ~くわかりました。そしてそれにある程度成功されていたとも思うのですけど・・・。

最後に旋律線。
私はこの曲に関しては、感情が入るとアチェレランドし過ぎちゃうピアニストが多いと感じているのですが、多佳子さんは基本的にテンポは遅からず早からずを見事にキープしていたと思います。
そして、何より聖フランシスの雄雄しさ、高貴さ、気高さ、荘厳さというものをリスト特有の同じ旋律を手を変え品を変えして出してくる中で表現しつくさないといけない・・・。
ライヴならではのパッショネィトに弾けるという都合のいいところと、失敗したらモロにぶっ壊しちゃうというリスキーなところのなかで、果敢にチャレンジされているのは充分に伝わってきました。
私のイメージにぴったり合ったところでは、本当に鳥肌の立つ思いで感動してしまいましたねぇ。

この日、この演奏を聴けてよかったと心底思える奏楽でありました。

多佳子さんブログによると、コントロールが不十分だったところもあるとの反省の弁がありましたが、あの演奏を成し遂げて、なお登る高みを見つめておられるということが非常に頼もしく思えました。

多佳子さんから聴いたリストは、『愛の夢 第3番』『リゴレット・パラフレーズ』『ラ・カンパネラ』に次いで4曲目ですが、いずれこれらを一枚のCDに編んでくれないかなぁ?

この他にも『ロ短調ソナタ』『オーベルマンの谷』『ペトラルカのソネット』『孤独の仲の神の祝福』など多佳子さんから聴きたいと願うリストの曲はいくらでもある・・・。ぜひとも実現してほしいものです。


多佳子さんの次もピアニストの三舩優子さんでした。
リストの『メフィスト・ワルツ第1番 S.514』をダイナミックな演奏で弾き通してみせてくれました。もっとも印象的だったのは高音のパッセージの鮮やかさですかね。
最初に楽曲解説してくださったのですが、メフィストが女性を誘惑する場面とか、誘い出して「ニヒヒ」という場面とかよく感じさせてくれるもので、聴いていて楽しかったですね。これは生演奏ならではの醍醐味だと思いました。


トリはヴァイオリニストの吉田恭子さんの登場。真っ赤なドレスが立ち姿で演奏するヴァイオリンにはうってつけであります。この辺はおじさん目線。
伴奏は高橋多佳子さん。ソリストを立てる意味でシックなシャツと落ち着いた色目のパンツ・ルックに着替えてらっしゃってました。

でも演奏中はカチューシャがキラキラして、結構ピアニストも目立っちゃってたように思えるんですけど、それは私が多佳子さんファンだからかなぁ。
吉田さんも身につけられてた光物がキラキラしてたんでおあいこというか、ファン選抜トップのお二人の競演だから「夢のコラボレーション」ということでいいんでしょう・・・。

多佳子さんの伴奏が聴けるというのも、こういう機会ならでは。結構貴重なことですよね。
とはいえ、やはりソリストの演奏への感想を・・・。
まずは演目ですが、エルガーの『愛のあいさつ』、そしてサラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』でありました。
そして吉田さんのヴァイオリンの音色はリッチでゴージャス、フレージングなど濡れた演奏をする人だなと思いました。

これまたハーモニカ同様、ソロの楽器は残響たっぷりで伴奏のピアノがストーンと直裁に聞こえるきらいはありましたが、とくに『チゴイネルワイゼン』ではお二人が呼吸を計りながら弾き進めておられる様子がわかる、なかなかスリリングな展開でしたね。

そうそう、吉田さんの曲の説明が極めて明晰なうえに堂に入ったものであったことにも凄く感心させられましたねぇ。よほど場慣れしていないとああはいかない・・・。
そしてその解説どおりにジプシー女のすすり泣くようなヴァイオリンの調べが、その芳醇な音色に乗って弾き出されていくのはやはり圧巻であったと思います。

で、吉田さんの演奏でその芳醇さ、すすり泣くようなというのはきわめて多彩なテクニックのうちでも肉厚な中音域でのポルタメントが際立っていたことによるのですが、『愛のあいさつ』のテーマ部分でもこのポルタメントを意識して使ってらっしゃるように聴こえたのが印象的でありました。
極めて曲を自分の近くに引き寄せているからこそできる“草書体”とでもいうべき解釈なんでしょうけど、ちょっと私にはなじめませんでしたねぇ。
決してルーティンにとか手馴れた感じでというイメージはありませんでしたが、ちょっと崩しすぎなんじゃないかなぁ~と・・・。
格調は充分に高かったので、馴れ馴れしいという感じではなかったんですけどねぇ・・・何と言っていいか・・・いずれにしても、こぅ、もうちょっとかっちり弾いてもらったほうが私としてはよかったかな、と。

もちろん『チゴイネルワイゼン』になると、そのような解釈法が無類の親近性を帯びたふさわしいものに変わることはお分かりいただけると思います。
このガラ・コンサートのラストを飾るにふさわしい見事な演奏でしたねぇ。


そして全員がカーテンコールに応えて舞台で挨拶して大団円。
全員の皆さんに「ブラヴォ~!!」でありました。

43歳の誕生日はかくてとてもすばらしい滑り出しをすることができたわけであります。


帰り道でも、ところどころのライトに照らされて印象的に映える桜の花を愛でながら歩きました。

ただ道中は“さくら”と言うより“まっくら”という感じでしたね・・・などとオチをつけながら、コジーコーナーで晩御飯として“ガトーショコラ”と紅茶のセットをいただいて帰りました。

世の中の常識として考えた場合、減量という我が43歳の大命題にとってこれでよいのかのぅ・・・などとも思いましたが、過ぎたことは気にしないことにするという別の大命題を成就できてたいへん望ましい誕生日を終えることができたと喜んでおります。
記憶に残る誕生日・・・ですね。


《閑話休題》
明日からまたまた出張でありんす。どこへ行くかはナイショです。(^^)/
てなわけで例によって先日付で更新させていただきます。
予定通りに行けば、水曜日の夜に更新できると思いますので、またよろしくお願いします。

スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28

2007年02月05日 00時00分51秒 | 高橋多佳子さん
★スクリャービン:ピアノ・ソナタ全10曲 & 幻想曲
                  (演奏:イゴール・ジューコフ)
1.ピアノ・ソナタ第1番 作品6
2.ピアノ・ソナタ第2番 《幻想ソナタ》 作品19
3.ピアノ・ソナタ第3番 作品23
4.幻想曲 作品28
5.ピアノ・ソナタ第4番 作品30
6.ピアノ・ソナタ第5番 作品53
7.ピアノ・ソナタ第6番 作品62
8.ピアノ・ソナタ第7番 作品64
9.ピアノ・ソナタ第9番 作品68
10.ピアノ・ソナタ第10番 作品70
11.ピアノ・ソナタ第8番 作品66
                  (1999年・2000年録音)

ジューコフ・エディションVol.1というこのスクリャービン全集は、私にスクリャービンの素晴らしさを初めて教えてくれたものです。
それと同時にこのピアニストに対しても、こんな人がいたんだという発見の喜びがありました。

情報源はやはりレコ芸の海外盤の紹介記事でした。
そこでの解説の的確さ(原文を転勤時に処分しちゃったのでどなたが書かれたのかは分からないのですが)と、第1番以外は名作と主張しているらしい演奏者のお陰で、それまでの私には聴こえなかった音楽の声を楽しむコツが感覚的に体得できたように思います。

それはうまくいえないのですが、旋律の動きを負うのではなく響きの動きに身を任せるとでもいうか・・・。

これを身に付けた後、ラヴェルを再発見しましたっけねぇ。
“高雅にして感傷的なワルツ”とか“ラ・ヴァルス”の聴きかたがまったく変わりました。

こんな風にあることに気づいた途端、自分の中に自然とその音響に対する抗体のようなものができて、その音響のいざなう世界にスッと入っていけるようになる感覚って体験したことありませんか?

それを教えてくれたのがこの3枚組のディスク、とりわけソナタの第2番、第3番と本日のタイトル“幻想曲”なのです。
これらはおととし本当によく聴きました。
そのときいちばん聴いたのははピアノ・ソナタ第2番だったんですけど・・・。
それまでにポゴレリチ、ウゴルスキ、そして次ぎのアムランなどそれなりに録音は聴いていましたが、どうも当方にメンタルブロックがあったというか、レセプターがなかったというか、いまいち突き抜けて迫ってこなかったんですねぇ。

それがこのディスクを聴いた途端、一挙に堤防が崩れるように初期スクリャービンの楽曲にとりつかれてしまったのです。
これを聴いた後に、ソフロニツキーのピアノ・ソナタ第3番ライブ録音も手に入れているのですが、ジューコフを聴いていなかったら喝采できたか自信がありません。
ことほど左様に、私にとっては感謝感謝のセットなのです。
ただ世評は初期のそれよりも、後期のソナタのほうに高い感銘を受けることが出来るとしているようですけどね。

肝心の演奏の特徴は丁寧に思慮深く、でも感覚的な閃きを取り込むことを忘れない演奏だということぐらいでしょうか。とにかくこれまで自分が大切に手の内に入れてきた楽曲を、心身ともに乗っているときにその心の赴くままに慈しんで弾いたんです、という感じしか受けません。
そしてそれがスクリャービンの肉声のごとく聞こえる。
ピアノの音色はわずかに線が細いようにも感じられますが、だからこそ繊細な心の震えみたいな感覚にも鋭敏に反応しているように思えます。繰り返しますが、終始平常心で特に衒ったこと、作為的な想いはなにも加えていないためにホントに信じられる響きになっているのです。

かねてある人のブログで、当盤を「ロシアの風雪に耐えてきた演奏」と評したことがありますが、「永年にわたるロシアの風雪によって磨き抜かれた演奏」と言い換えた方がよさそうですね。

幻想曲ももっとも普遍的な演奏だと思います。
今でもスクリャービンに関してはわたしにとっての座右の1セット・3枚であります。

★スクリャービン:ピアノ・ソナタ全集
                  (演奏:マルク・アンドレ・アムラン)

◇スクリャーピン:ピアノ・ソナタ全10曲
         幻想曲 作品28 (ピアノ・ソナタ第3番と第4番の間)
         《幻想》ソナタ 嬰ト短調(1886)
                  (1995年録音)

超絶技巧のアムランが我が国でブレイクする前後に録音されたものです。
私が聴いたのはブレイクした後ですから、ハイペリオン・レーベルで活躍を始めたアムランにとっては比較的早い段階での録音になるのではないでしょうか?

音の複雑なテクスチュアをより分けたり、“不協和音いっぱい”というか俗に“分厚い和音”といわれる音塊を含む曲をまことに聴きやすく、かつ麗しく提示してくれるアムランならではの演奏ですな。
スクリャービンの楽曲は“音の綾”という点でアムランの感覚に引っかかったのは間違いないと思うのですが、ほんとにきれいにほぐしてあるというか、引っ掛かりがないというか・・・。
スゴイもんです。
最初聴いたときは“だからどうした!”というのが感想でしたけど。

でもジューコフを聴いてから聴いたら、ちゃんとスクリャービン節が弾きだされているのが確認できて、あらビックリ!!
そしたら後期の異次元空間に行っちゃった後のようなソナタについては、あんまり考えずにすむのでアムランの演奏の方が聴きやすいと思うようになっちゃった。
それが曲の理解にとっていいことかどうかは分かりませんが・・・。

最後に収められている《幻想ソナタ》は、同じ渾名を持つソナタ第2番(特に後段の楽章)の前身に当たる曲だと思われますが、こういった学究資料的な価値も高めてくれるところがこの人の凄いところ。
これは作曲年代順に集められた資料集として扱ってもよいし、曲単体で抜き聴きしてもよいという使われ方をすべきディスクですね。

もちろんアムランにもリサイタル盤があり、その場合には考え抜かれた配列で奏楽が展開されています。
彼の人気は誰にもまねできない(一種の)演奏技術の高さのみならず、そういったディスクの要請するコンセプトにクレバーに対応できる頭脳にもあるという思いがします。

幻想曲は他の演奏家より2~3割ぐらい速いテンポで、初々しい若者らしい心情をさらっと歌っているようです。

ところでこの曲は、“憧れの心情を育んでいく記録”を表現することがテーマであるように私には思えるのであります。
したがって、さらっと歌ってしまうのが相応しいかどうかは好みの分かれるところになるようにも思います。
でも人よりも短い時間のうちに、確かにこの曲の要請する感情が万人向けに涼やか且つすっきりと盛り込まれているのです。

★ショパン:バラード
                  (演奏:エフゲニ・ザラフィアンツ)

1.ショパン:バラード 第1番 ト短調 作品23
2.ショパン:バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.ショパン:バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.ショパン:バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28
6.モシュコフスキ:愛のワルツ 変イ長調 作品57-5 (この曲のみライブ録音)
                  (1998年録音)

先のアムランが関西風だとすると、関東風の極地はこのザラフィアンツ盤ではないでしょうか?
もしかしたらしょうゆ味ではきかず九州の豚骨風味というか、札幌ラーメンバター入ってます味というか・・・。
とにかく濃ゆいです。

私がザラフィアンツに触れた最初のディスクで、ショパンのバラードの解釈にはぶっ飛びました。
これもとにかく“濃い”のです。彫も濃ければ、味付けも濃い。本当に独特な感覚によって生み出された演奏です。
バラ4にしても主題を繰り返していく中で、左手に現われる旋律線を強調してみたりしているのですが、そういうことをするととかく作為的なものを感じがちですよね。
でもこの人がやると“確信犯でやっていますよ”と宣言されていながら、気圧されちゃうというか、それが普通と信じきって演奏しているように聞こえてしまうのが不思議。

この後のショパンのロ短調ソナタのディスクや、ラフマニノフとバッハの混成プログラムの盤の時にはビンビンに作為を感じちゃったので、この方の中にあっても稀なバイオリズムにあった瞬間に幸運にも録音された貴重な記録といえるのではないかと思います。

官能性や(語弊があるかもしれませんが)狂気に近い心の暴力性をも非常に磨きぬかれた潤いある音で丹精に弾きあげられた名盤だと思います。
私にとっては、もっとも感銘深いディスクのひとつであります。

さて肝心の幻想曲ですが、先ほどの作為とは別の意味でビンビンになってしまいたい人は必聴だとおもいます。
井上陽水の妖しい世界をさらにダークにして、濃密・こってり・しこしこ・のけぞって悶絶しちゃいそうなほどの官能性を、他の誰よりも長い時間持続してくれますよ。(^^)v

ジャケットの色合いなどはなかなかイミシンでこの盤のムードにあっているのですが、被写体にピアニスト本人を使ったのはどうだったかなとも思われます。
演奏の内容には一切関係のないことなので、もしご関心があってお聴きになった場合にはジャケットにかかわらずフラットなお気持ちで音響に対峙されることをおすすめしたいと思います。

まあ「出てくる音に向かって虚心に聴いてね」ってことですから、当たりまえっちゃぁ至極当たり前のことですよね。

けっこうキワドイ線をいっている演奏です!!

★ロシア・ピアノ名曲集
                  (演奏;高橋 多佳子)
1.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 作品83
2.スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28
3.ラフマニノフ:楽興の時 作品16
                  (1994年録音)

ホントは写真を掲載したいんですが、自宅にあるもので・・・。
それにサインもらってないし、ブログの頁の関係上3枚しか掲載できないので、後日サインをもらったらこってりと全体の感想を記事にしたいと思います。

ご関心おありのかたは、左のブックマークから多佳子さんのブログに飛んでいただければ、右側に写真が常時出てますよ。
多佳子さんが今聴いても「よく弾けていてオモシロイ」という自信作ですから、みなさんもぜひ聴いてみられてはいかがでしょうか。

で、このディスクにもスクリャービンの幻想曲が収められています。
もちろん今の多佳子さんの音色や凄みは、まだまだ形成途上だと思います。

この演奏の特徴は、主語が(もちろん)女性であること。
そして録音上でも多佳子さんの中高音がすっきりときれいに出ているために、密やかなメロディーを終始大切に膨らませてゆく過程がより美しく聴こえるように思われます。

多佳子さんはこのころから特にロシア音楽に関しては、その演奏の内面でとっても大きな世界を扱っていてるのですが、その凄く濃厚なエキスを成分を減らさずに普通の人が聴いてもほどよい味に仕上げることができちゃっています。

しかしそんなカオスに関しても余さず表現しようとする意欲を持っているために、幻想曲の主旋律については最初に現われたときから、感性がムキダシの銅線のように曲の要請に反応しています。
かんたんにいえば、うるうる状態・・・。
今の多佳子さんがショパンなどを感じきって弾いたときに感じさせてくれる、思わず胸キュン奏法の原型がここにあります。

それは思わず「僕が守ってあげるよ!」などと男なら口走りそうになってしまいそうになるような、いたいけな女性の心の叫びともいえる音色であり奏法であります。
この多佳子さんの若い頃の演奏にある幻想曲の旋律線・・・。
最初密やかに秘めやかに顕れながら、華やかな背景の装飾音に彩られてみたり、旋律それ自体もたくましい和声を伴って、遂にクライマックスというかトゥッティに達するところなど、いつ聴いても思わずカンドーを禁じえません。

繰り返しますが、この演奏の特徴は主語が女性なのです。
私が男性であるから余計そのような感想が湧き出てくるものだと思います。

さて高橋多佳子の(自称)大ファンでスクリャービンファンの私としては、多佳子さんがこの曲を今ならどのように弾かれるのかが気になりますねぇ。

多佳子さんと私と私のかみさんは同年生まれでありまして(生まれた順は記載のまったく逆です・・・)、これを録音されたのが私ら夫婦が結婚した翌年ぐらいに当ります・・・。

ということは、もしかして“いたいけなか弱い女性”は、ムチャクチャ強くなってたりして。。。

いえ、多佳子さんのことでも、もちろんかみさんのことでもありませんよぉ~~~!!

モーツァルト忌の雑感

2006年12月11日 00時00分01秒 | 高橋多佳子さん
12月5日に八王子の市民会館で行われた平成18年度人権週間行事の一環で、高橋多佳子さんのトーク&コンサートがあったので、勤労感謝の日に勤労した代休をとって行ってきました。

薄い緑のドレスで現れた多佳子さんはいつもながらステキでしたが、登場するなりおもむろに1曲目“バッハ:主よ人の望みの喜びよ”を演奏されました。
昨年の12月8日に新潟県三条市で初めて多佳子さんのコンサートに行ったときと同じスタート。“うーん、懐かしい”ってあれからまだ1年しか経ってないんですよね。ずっと昔の出来事のように今では思えてしまう。。。
あいかわらずコラール部分のテノール旋律などでは、なんと表現していいかわからない素晴らしい音色で。。。
最初、ピアノがオンボロ(失礼!)に見えたので大丈夫かいなと思っていましたが、「いい音するじゃん、このピアノ」という印象に早変わり。いい音といいうよりも、普段CDで聴いている高橋多佳子の音に結構近いのではないかと思った次第。
反射音がほとんど来ない位置にいたこともあるかも。

続いてはモーツァルトのトルコ行進曲。先般のコンサートでもアンコールで聞いたけれど、軽やかでとても気安く聴けました。そう、とてもこの日はリラックスして幸せそうに弾いておられたのが印象的。
アウトリーチ活動で学校に行ったとき、子供に一番人気の曲だそうな。。。

そして幻想即興曲。これも、軽井沢で聴いたときより力の抜けた演奏でよかったような。。。
左足を「だん!」と踏み込むような弾き方もそれほど大袈裟でなかったし、ピアノのコンディションやいろんな条件にもよるんでしょうね。
左手の六連符のバスがとってもノリを感じさせて、その音色がまた麗しいものでウットリ。
もちろん右手も雄弁に旋律を綴っていく。。。例えばオクターブと内声をバラバラ弾きながら旋律線をたどっていくところ(味気ない言い方だなぁ)で、楽譜上は繰り返しの部分はアクセントが小指側に来てスタッカートで弾くように記譜してあるはずなのですが、ここのスタッカートにした加減、その音を作るためのスパイスのさじ加減が極めて絶妙でいつもクラッと来ちゃうんですね。もちろんこの日もステキでした。
中間部のあま~~い旋律は、歌う歌う。もう再現部手前最後の旋律のリフレインなんか、音色から何から万感の思いがこもっていて満足!

展覧会の絵からの抜粋も、最良の意味で気楽に弾かれたのではないでしょうか。弾くことを楽しむことを目標に弾いた結果、イキイキした時間が創り出せたっていう感じ。感動の瞬間はいっぱいあったのですが、今回はキエフの大門でのロシア聖教のコラールが2度、遠く近く聴こえる場面で、多佳子さんは曲の解説で「分かるように弾く!」と言われていたのですが、ホントによく判りました。もちろんこの曲は多くの方の演奏で聴いているうちにも、この部分があることは知っているはずだったのですが「そうかぁ。こんな祈りの節だったのかぁ~。」とまた新しい気付きがあってとても嬉しい思いになりました。
こういうことがあると、他の誰の演奏を聴いてもまた違って聞こえるようになるんだよねぇ。
“展覧会の絵”はここんとこ多佳子さんのばっかり聴いてるから、これまでのお得意さんだったキーシン君の演奏でもまた聴いてみようかなっと。

アンコールは“ラ・カンパネラ”。これもリラックスした好演でした。多佳子さんがリストを弾くと、いつも会場が唖然としてうなっちゃんだよねぇ。
わたしの隣にいたタオルを首にかけたおじさんも身を乗り出して聴いてました。
さすが、リスト先生。グールドに“最小限の労力で最大の演奏効果”といわせしめた作曲家の一人でいらっしゃる。。。そーは言っても難しいんだろうケド。

会社休んで行った甲斐があったどころか、大収穫、大満足のリサイタルでした。

なんでまた、多佳子さんがこの催しにと思ったのですが、インタビューでポーランドの生活を10年されていてアウシュビッツを目の当たりにされていたり、アウトリーチ活動で学校訪問されているなど旬の人権の話題と近いということだったのかなと。。。

しかし、ポーランドが日本のことをそんなに親しく感じていたなんて知らなかった。“ロシアという大きな森を挟んだお隣どおし”なんていい表現じゃないですか。日本もポーランドのことをもっと知らないといけないなと思いました。

ただ最もオモシロかった多佳子さんの話は、バーバ・ヤガーの説明で森に住んでいて“箒でなく臼みたいなのに乗った魔女“といわれたこと。その瞬間に、ばいきんまんを想像してしまったのですが、私のほうがおかしいのでしょうか?
あの円盤は、どう見ても“臼型”だと思いますが、いかがでしょう。。。
(どきんちゃんのは“薄型”って。。。)

その後は「博士の愛した数式」の映画を見ました。
映画というとすぐウルウル来ちゃうので、二階席の一番奥に避難して見ました。普通は見ないんですけどね。入れ込んじゃった自分を後から自己嫌悪するので。。。
でもこれは、“大感動っ!”てんじゃなくて、じんわりと伝わるものが途方もなく多くあるというスタイルの映画だったので、とても私にはありがたかったですね。
人権の集会にピッタリの内容だったと思うし。

来年も同じようにやってほしいもんです。


映画では、“オイラーの公式(eiπ + 1 = 0 ←iとπは乗数:うまく記載できずすみません)”が“博士の愛した数式”で、これは3つの無関係な数字に1を加えると0になる極めて美しい真実であるということが共通認識になっていました。
登場人物の誰がeで誰が1なのかはハッキリしませんが、多様な理解をすることが出来るおもわせぶりな設定だと思いました。これはこれで考えさせられるのでよいのかなと。

ただ、公式の内容はさっぱりわかりませんねぇ。帰ってから“Wikipedia”なんか見たら余計何のことだかわかんなくなっちゃいました。

ところでLed Zeppelinは私にとってのロックのカリスマ中のカリスマですが、そのアルバムの1枚目で衝撃的なデビューを果たして、2枚目は人気うなぎのぼりの中でツアー中の勢いを借りて制作され、3枚目はアコースティックな曲を多く録れていろいろ物議をかもして人気はあるけれども今いち評価が定まらないところがありました。全部性格の違うアルバムだったので。。。

★レッド・ツェッペリンⅡ
                  (演奏:レッド・ツェッペリン)


“胸いっぱいの愛を”“ハートブレイカー”などが有名なセカンド。私もペイジをコピーするためにレスポールを手に入れた一人です。上手くなりませんでしたけれど。ペイジの味を出そうと思うと、上手くなれないような気がする。。。
あっ、決してペイジのせいではありません。ヘタなのは私が悪いんです。(^^)v


ところがそこに一般に“Ⅳ”と呼ばれているタイトルなしの、じーさんの絵がジャケットにあるアルバムが発表されるや、それまでの作品・活動全部ひっくるめて歴史に残る偉大なバンドになってしまいました。美しい。。。
3枚目までであれば、単に色んなことをやろうとしたバンドという感じだったのでしょうが、4枚目が先ほどの公式で言う“1”の役割を果たしたに違いありません。そこから先は、最早何をやっても偉大なバンドということになりました。

★“             ”
                  (演奏:レッド・ツェッペリン)


先ほど書いたように、タイトルなしがほんとなのでカッコだけにしました。(^^)/
数学の話が出たので、空集合の記号にでもしてやろうかと思いましたが...

“ブラック・ドッグ”“ロックンロール”そして“天国への階段”が収められているこの一枚は無敵ですな。
どれだけこれらのギターのリフを弾いたかわかりません。天国の階段もアコギでギターソロが出るまで弾いて、エレキに持ち代えてソロから先をカセットに合わせて弾いたりしてたなぁ~。いろいろやったけど、我が青春のというとこのへんかなぁ。。。(もちろん彼らの解散後ですけど)
アルバムとして一番好きなのは、この先の“フィジカル・グラフィティ”ですけどネ。

そういえばこのアルバム発表時に、この後メンバー4人それぞれの象徴となるシンボル(マーク)が初めて出てきたのですが、この4人がそろって初めてZeppelinだったんだと思います。完全な公式みたいなもんかな。そういう意味ではボンゾの急死は残念でした。

4枚目といえば同様の例は、長渕剛さんにも当てはまると思います。
デビューから3作は注目は集めましたがいまいち決め手に欠き、4枚目の“乾杯”が発表されたことですべての楽曲が良くなったですね。これはなにも私が最初に言ったことではなく、評論家の富澤一誠さんが仰っていたことです。私もまったく同感です。
これもエラくコピーして歌ったなぁ。。。

4枚目でブレイクしたって言い出したらTOTOだってそうでしょうね。

ここまで書き上げて3つのことを思ったのですが、ひとつ目はケージの“4分33秒”を高橋多佳子さんが“弾いた”ら、ここでどのようにコメントしたらよいかということ。ツェッペリンの4枚目のタイトルの記載をする際にふと思いついてしまった。。。

もうひとつは、この記事のカテゴリーをなんにしようかということ。
切迫した問題です。多分“高橋多佳子さん関連”にすると思いますが、適切かどうかは判断できません。。。

最後は、私の愛する数式  →  “摂取カロリー数” > “消費カロリー数”

タイトルをご覧になって記事を読み始め、もしここまで読み通した方がいらっしゃったなら、最大級の敬意を表します。ありがとうございましたっ!! (^^)v