まんまるログ

融通性か?和・洋・中・無国籍・ジャンクとなんでも食べる胃袋と脳みそ。

スーパースターの孤独

2019年05月20日 | 日記&映画
アマデウスを見たのは何十年前なのか?
秀才と天才の違いを思い知らされた映画ではあった。

俳優トム・ハルスはアマデウス・モーツァルト役で、同じく名優マーリン・エイブラハムがサリエリを演じた。

サリエリ役はお見事(表情筋から台詞まで嫉妬と軽蔑‥その上での羨望)その年の賞を総なめだった。
トム・ハルスも茶目っ気があり、才気があり、神の器を持っている事にも気が付いてないアホ丸出しの天才を演じて見事。
不作法で天衣無縫と言う所が孤立につながる。

見事な演技同志がぶつかり合って最高の映画になっている。
加えてミロス・ホォアマンがメガフォンを握った訳で‥映画史上に残るのはもちろん観客の心の襞には深く刻まれた作品だろうというか私の心には深く刻まれた。

音楽も、映画も、絵画も、陶器もその他酒つくり、野菜、米‥に至るまで創造できる人々は幸せだ。

作品が出来ると、魂の燃焼という結果がでる。

魂などと大袈裟な表現はいらない。

身体の一部が剥がれるばかりではなく、新しい表皮が生まれていく感覚が確かにあると思う。

その後で世間の評価がついてくるのだろうが、それ、結果は、神様におまかせするしかない。

神様がいてもいなくても構わない。
自分が自分を自分している。(W老師の言葉)

フレディ・マーキュリーがかっこいいと思える事と、筍に足を取られる私が、かっこ悪い事は多分同次元である。

淋しい、侘しい、胸が痛いという事と、素敵だ、踊りたい、胸が高鳴る事、とは裏表であるように。

マーキュリーの孤独の深さは知り得ようもない。
私の身の丈で感知するだけだ。
アマデウスの心の闇も又。
神の器は、紙の器の私なのだから‥わかりようもない。

それでも変わりゆく物と、変わらぬ普遍があるように、その時その時で懸命に想像する‥そして感じる。

出逢える事、出逢える人、に正直に向かい合って生きて行く。

喜びで笑う。
恨みで怒る。

異なっていると思っても‥言葉も思いもつながっている。

今朝は、家の周りの草刈り。
裏山の筍堀り‥筍狩り‥汗が流れる。

なにも創造している訳ではない。
それでも身体が動いている。



(大名巻)

毎日の生活の中身が無意味ではなく、生きている事その物が有難いと思える時。

その事こそが燃焼と言えるのではないだろうか。

真実そう思う。

しかし腹の脂肪がなかなかに燃焼してくれない。

辛い。



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