Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話

日日是好日 一日一日を大切に頑張って行きましょう ξ^_^ξ

松平忠直 (1595~1650年)下総国(現・茨城県)「悪人」として小説に登場した君主

2018-06-05 04:11:11 | Weblog

二代目福井藩主の松平忠直は、徳川家康の孫、松平秀康(結城秀朝)の子として生まれ、御三家に準ずる徳川家門の大大名である。秀康が三十四歳で死亡した為、若年で越前に入国し、十七歳で二代将軍・徳川秀忠の娘、勝姫と結婚している。
忠直は一六一四年からの大坂の陣で、優れた活躍を見せた。
徳川家康は、冬の陣に於ける忠直を、前漢の高祖・劉邦の忠臣で、武功を以て有名な人物に喩えて賞し、夏の陣では「初花の茶入れ」と呼ぶ茶壷を賜っている。
その頃の忠直の姿は、実に雄々しい限りであった。
だが大坂の陣の後あたりからだろうか、忠直に変化が現れ始める。輝かしい武勲の君主の顔は消え、城の二の丸に美童・美女を集めて、荒淫と酒に溺れる日々を送る様になったのだ。
勝姫との間は不和になり、あろうことか勝姫と実の息子の殺害を企てていると云う噂まで立った。そして、恐れを抱いた母子が福井城を脱出する事態となる。忠直の行状は益々酷くなって行った。そして、寵妾の中でも一際美しい一国御前と、意のままに動く下級武士の小山田多門を従え、大名の重要な責務である江戸参勤さえ怠る様になる。同時に、忠直は残虐な遊びにのめり込んだ。罪無き人々を痛めつけ、その様子を眺めて楽しんだのだ。
それについては、こんな恐ろしい逸話が残っている。
ある酒宴の席で、多門は大男に鉄製の大臼と杵を持って来させ、縄で縛った妊婦の腹を、餅をつくが如く杵で打たせた。女の腹から胎児が突き出る様子を見て、忠直と一国御前は大変喜んだと云う。以来、臼のほかに「まな板石」と呼ばれる平たい石を台石にして、毎日の様に妊婦を捕まえて来ては、この残虐非道な遊びに耽ったと云う。更に忠直は、鷹狩りに出向いては、獲物を撃つのと同じ様に、往来の旅人を射殺したり、罪も無い小姓を呼び寄せては、因縁をつけて手討ちにしたりした。
そして、忠直は城を出ていた勝姫と嫡子の殺害を図り、それが原因で遂にお家は取り潰しとなる。二十八歳で隠居生活に入った忠直は出家し、五十六歳で没するまでの二十八年間を、残虐な青年時代を悔いるかの様に清い侘び住いを送っている。
ところで、忠直が本当にここまで残虐な暴君だったかどうかは疑問が残る。現在定着している忠直のイメージは、菊池寛の『忠直卿行上記』や海音寺潮五郎の『悪人列伝』と云った小説に描かれたことや、古代中国の暴君像と結び付けられたことが大きい。しかし、往々にして史実が時代の勝者によって作られる様に、忠直の乱行は「幕府による捏造だった」と云う説もあるのだ。
例えば、忠直が干拓事業に尽力した鳥羽野(現在の福井県鯖江市)では、昔から「名君」として大変親しまれており、そこに恐ろしい暴君の姿は見えないのである。それでも、参勤交代を怠ったなど、その行状に問題があったことは事実である。
いったい何が忠直を変えてしまったのか。一説には、立派な武功にも関わらず、十分な論功行賞を得られなかったと云う不満や孤独感、焦燥感があったと見られている。
生前には正当な評価が得られず、没後も後世に渡って「暴君」と評される忠直は、或る意味、とても哀れな人物だと謂えるだろう。

      

          

                        世界と日本の怪人物FILE
                             残虐と狂気に魅入られた者たち

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水滴石穿 『漢書 枚乗伝』 | トップ | 父母その子を養いて教えざる... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事