太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

見送られるのに弱い

2020-07-21 15:20:36 | 日記
高校の夏休みに、友達と二人で、当時私の姉が住んでいた東京に1泊で遊びに行った。
母が新幹線のホームまで見送りに来て、新幹線が動き出し
笑って手を振る母がまたたくまに小さくなり、泣きたくなった。
たかが1泊で、小学生じゃあるまいし。
それが、見送られる切なさを感じた最初だった。



帰国して、久しぶりの友人に会ったあとの駅で。
そしてハワイに戻るときの駅で。
改札口を過ぎ、振り返ると家族や友人は、こちらを見て笑っている。
階段やエスカレーターで、また振り返ると、まだ笑って小さく手を振ったりしている。
ココを曲がったら、もう見えなくなるというところで、また振り向く。
やっぱりまだ同じところで、笑っている。

そのとき、ギュー、と寂しさがあふれてくる。

私がしつこく何度も振り返るのは、
私もまた、いつまでも見送る人だからである。

父が見送ってくれるときは、口をあけて満面の笑顔で、
振り返るたびに、架空のカメラで写真を撮るマネや、
隣の母に何か言って笑ったりしてふざけていた。
家族も、友人も、私が見えなくなるギリギリまで、にこにことこちらを見ている。
私が見えなくなってしまえばきっと、
「さーて、駅弁でも買ってく?」
てな感じになるのもわかっているのに、彼らを取り残してきたような、
引き返したいような気分になるのはどうしてだろう。

何年か前、私が一人で帰省し、ハワイに戻ってくるときに、
新幹線のホームまで姉が来てくれたことがあった。
新幹線が来るまでは普通で、冗談を言い合っていた。
新幹線が動き出し、笑いながら小さく手を振る姉の姿が
どんどん後ろに流れていくのを見たら、鼻の奥がツンとした。
窓に顔をくっつけるようにして姉の姿を追い、
「おねえちゃあぁーーーーん」
と心で叫んでいた。
いいだけ年を重ねたオバはんが、である。

見送られる映画のシーンにも、弱い。
見るたびに必ず泣くのは、『フラガール』の、夕張に引っ越してゆく親友を見送る場面だ。


ずっと見送られるのはつらいなら、振り向かなきゃいいのに、
ずっと見送ってくれることを期待もしている。
ウェットな感じの、こういう別れ方を悲しいと言いつつ、私は好きなのかもしれない。



毎朝、私は夫が出かけるのを、外まで出て見送る。
我が家の4台ある車のうち、敷地内におけない1台は路上に停めている。
(日本と違って、住宅地はどこにでも停められるのだ)
夫の車を路上においてあるので、そこまで出ていって、車が角を曲がるまで見送るのだ。

私が仕事で、休みの夫が私を見送るという場面もある。
外まで出てきた夫に見送られて車を出しつつ、ルームミラーを見ると、すでに夫の姿はない。
毎月ジュディスの家に遊びに行くときも、
帰るときにジュディスが見送りに外まで出てきてくれるが、私が車に乗って
「バ~イ」と言い合うと、スッと家の中に入ってしまう。
しつっこく見送るタイプの私は、「あれ?」と思うけど、
これは人種的な差なのかもしれないし、
今生の別れじゃあるまいし、こっちのほうが普通なんだろう。
あっさりしていていい。
でもなんとなく、物足りなくもある。




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