4年ぶりの帰国は、一区切りついて次へ進む帰国になった。
初めて、両親がいない実家に帰った。
両親が住まっていた1階を、姉がきれいにリノベーションをしてくれたおかげで、両親の面影を探さずに済んだのはありがたかった。
もしそのままの状態であったなら、私は家にいる間中、彼らの面影を見続けて辛かったと思うから。
友人と温泉に行った時、お互いの父親の話で盛り上がった。友人の父親は、私の父よりもだいぶ前に他界されているが、私の父同様、いろいろと逸話のある人だった。
だから笑い話が殆どで、他の話をしていても、いつの間にか父親の話に戻ってしまう。
涙を流しつつ笑いながら、
「これは供養なんだろうね」
と言った。
私が20年以上も働いていた父の会社に、叔母に会いに行った。
今は従兄弟が継いでおり、叔母も経理としてまだ現役でいる。かつての同僚だった事務員さんが、偶然近くにいて飛び入りし、応接室を貸し切って古い女子会となった。
帰り際、みんなで外に出たところに、昔つきあっていた人が社に戻って来た。
一回り以上も年下のその人は、『なんかこの結婚は変すぎる』と突然気づいてしまった私の前に魔法のように現れて、その人とやり直したい一心で、当時夫だった人の、どんな泣き落としにも、脅しにも嫌がらせにもビクともせずに、半ばゴリ押しで離婚届けに判をもらった。
実家を出て、私は二人で住むためのアパートを借り、予備の駐車場まで借りて半同棲が始まったが、幸せは長くは続かなかった。
ひと月もしないうちに冷たくなり、よそよそしくなり、それでも私は縋りついて、惨めな恋愛を2年も続けた挙句、バカみたいに振られた。
社内恋愛だったが、誰にも知られていなかった。
だから振られたあとも、職場では何事もなかったように冗談を言い合わねばならなかった。
「絶対に私が先に幸せになって、私の花道を見せてやる」と心に決め、顔では笑いながら、呪いをかけ(怖いけど、10日ぐらいやったら飽きてどうでもよくなった)、一発逆転をかけて励んでいた。
その甲斐あって、振られた日から2か月もたたないうちに私は今の夫に巡り合った。
あとから思えば、その人は私が離婚し、その先に進むためだけに用意された人だったのだ。その人がいなかったら、私は情にほだされて離婚できなかったかもしれないし、その人が振ってくれなかったら、今の夫にも出会えなかった。
ハワイに移住したあと、帰国して会社を訪れたときに見かけることはあっても、言葉をかわすことはなかった。
父の葬儀の際に、会社からお手伝いに来てくれた人たちの中にその人がいた。その人は中心になってテキパキと立ち回ってくれ、お焼香のあとに親族に挨拶をするときに、私はお礼を言おうと思っていたのに、何も言わずに頭を下げただけだった。
あれから4年。
社に戻って来たその人は、私を見るなりパッと笑顔になった。私も笑顔で返し、そこには思っていたようなわだかまりなどないことに気づいた。叔母が、
「シロちゃんったら、日本語忘れちゃったんだってよぅ」
とふざけて言ったら、その人はすかさず私の肘に手を当てて
「いや、この人、昔っからなんか変でしたから」
そこでみんなが大笑いをして、ああこれでほんとに区切りがついたな、と思った。「父の葬儀の時にはお世話になりました」4年前に言えなかったことも言えた。
私を離婚させてくれて、ありがとう。私の背中を蹴飛ばしてくれて、ありがとう。それは心の中で言った。
両親が亡くなり、両親は思い出になった。
もう会うことはできなくても、姉の作るお弁当のおかずの影には母がいて、父が好きだった車を見れば父が、カニクリームコロッケやジャンボエビフライといえば、昔家族で行ったレストランの、椅子の感触まで思い出す。
亡くなった大切な人は、心の中で生きている、というのは慰めだと私は思っていた。
けれども、その意味が、今ようやくわかった気がしているのである。