FEEL ambivalence

毎日、いろんなことを思います。
両極端な感じで。

両面価値。
同一対象に対する愛憎共存。

悲しい現実。

2006-11-13 23:28:44 | ろぐ
あらためて、怖さを感じた。

ぼくのすぐ近くで、
いつも走っている場所で、
通りがかる道端で、
幼い命が奪われてしまった。

涙が出るかと思うほど悲しくて、怖くて。

大人のエゴを幼い子どもが一身に背負った。
そんなことが、許されていいのか。

第一報を聞いたのは、職場で展示してある液晶TVの前。
顔が引きつった。
事件現場はぼくが通う塾の裏。

どこかで誰かが殺された事件があったとしても、それはなんとなく現実味を帯びていなくて。怖いなぁって家族で話していても、それは自分の街では起こりえないことだと思っていた。

実際に犯行が行われた「道の駅」は秋田へ向かう道の途中にある。
ぼくもたまに寄ることがあった。
そんな身近で、無意識のうちに信頼していた場所で。
かくも悲しい事件が起きた。

できれば、事故であってほしかった。
命が失われてしまったことに対しては悼むけれども、ヒトの悪意がそこに存在して欲しくなかった。

何の罪もない子どもが大人のエゴを背負う。
なんて悲しいことなのだろう。
何も知らない子どもに大人がエゴをぶつける。
なんて恐ろしいことなのだろう。

「いじめ」報道が全国を駆け巡っている。
文部科学省の統計資料『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査(届出統計)』によると、2002年まで減少が続き、2003年に増加、再び2004年には減少している。
ただし、このデータはあくまでも届出があったものを集計しているものであり、届かない声がどれほどあるかは現在の報道がそれを証明している。
ここで、基準を明確にしたい。
いじめに対する、文部科学省の統計上の基準は『自分よりも弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの、起こった場所は学校の内外を問わないものとする』としている。
子どもたちの社会がどう構築されているのか、一見しただけでは分かりづらいかもしれない。しかし、いじめは良くないことなのだ。あってはならないことなのだ。大人はその社会が正しく機能するように援助してあげなくてはならない。過剰も不足もない援助を。
それを見守るべき教師がいじめに加担している、もしくは原因になっているという事件が報道されてもいた。
そんな教師は「狂師」だと思う。さっさと懲戒免職にしてしまえ。

ヒトの痛みが分からない大人が、なにを子どもたちに教えられるというのか。
ヒトの気持ちを察することを教えない大人が、偉そうなことをいえるのか。

いじめられている側が相談しないことも良くない、などと未だに言う人がいたりするが、私はその考えが大嫌いだ。相談することでいじめがエスカレートすることだってありうる。いじめられている生徒を教師が守ろうと特別扱いすることがさらなるいじめの引き金になりかねない。
とにかく、集団で誰かに一方的な苦痛を与え続けることなど、在ってはいけないことなのだ。

なにが、こんなにも悲しい事件を多数引き起こしているのだろうか。

「完全」な人間になることは極めて困難だ。
だから、「完成を目指」すことが大切だと思う。
うまく行かない日だってある。
身勝手な怒りに震える時だってある。
けれど、それを関係のない他者にぶつけることで解消するのは間違っていると思う。
子どもは無意識のうちに周囲を見、真似ることで成長する。
大人が手本を示せなくてどうすればいいのだろう。

「履修漏れ」や「たかり」問題で揺れる学校の校長先生が、自ら命を絶った。
これも、間違っていると思う。
子どもに生きろと言わなければならない立場の人間は、這いつくばってでも生きていかなければ。
間違えたっていいだろうよ。
間違えたことの無い人間なんているのか?
謝っても許してもらえないかもしれない。
だけど、
その一連の行為はきっと糧となる。
その積み重ねが生きがいだと思う。
良い事も、悪い事も、全てが自分の価値だし、生きがい。

ぼくは性善説を信じたい。

自分が小さかった頃の、周りの笑顔を思いだして。
小さな子が楽しそうに笑う笑顔を思いだして。

悲しい事件は、もうたくさんだ。