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Lake Griffin
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『侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)』

21世紀初頭と思われるディストピア世界、主人公の女性の一人称で語られる。主人公は「侍女」、所有者のファーストネームから取られた「オブフレッド」と呼ばれる。屋敷内の「女中」たちや監督者の「小母」には名前があるが、彼女には所有者の名前がつけられている。彼女の役目は配給物をトークンと交換に受け取りに行く「買い物」と所有者の子を生むこと(儀式めいた定期的なセックス)。この社会はアメリカ東部に想定されていて、すべての女性はある日突然、個人採算が凍結されて誰か(配偶者など)に依存することが余儀なくされる。主人公の女性は、少子化の中で女性は産む性として、「司令官」の所有物となる。産む性としての役割を演ずる「侍女」は彼女だけではない。「侍女」たちは、産むことが期待されているので、産めなければこうした境遇から追放される。物語では男性は「司令官」と「運転手」、「保護者」が脇役として登場し、主たる役回りを演ずるのは女性たちだ。「妻」「侍女」「女中」「小母」、それぞれの役回りを演じて女性同士の連帯は生まれにくい。幼馴染の女性はこうした役割からははずれたアウトサイダーとして登場する。抵抗勢力も地下組織として存在し、主人公はその組織によって救出されるかのような記述の中で結果は明示されない。物語のエピローグは、この手記(テープレコーダに録音されている語りらしい)を解読した文化人類学者による研究会での発表で締めくくられる。

原著出版が1986年とのことだから、あきらかにオーウェルの『1984年』を意識して書かれたものだろうと想像する。『1984年』を読んだのは、高校生の頃だから、1968年出版の『世界SF全集』版であったか、同じ巻にハクスレーの『すばらしき新世界』が収録されていたようだ。ひょっとして奈良の実家に残してきたかもしれない。高校生のわたしが当時、どのような感想を持ったか思い出すすべもないが、自分が迎えるはずの1984年は遠い未来のことと思えた。そして、1984年になったとき、Apple社のMacintoshの衝撃的なコマーシャルフィルム、IBMをビッグブラザーにたとえてそれを破壊する映像は再び『1984年』を想起させてくれた。

『1984年』は、21世紀の現在、むしろ現実となっている。様々な監視装置によって監視され、あまりにも日常化し監視されていることも忘れてしまっており、抵抗することもその手段もない。Apple社のMacintoshやiPhoneも監視装置の一つとなってしまっている。機器にはビデオカメラがつけられていて、リモートでオン・オフされてもおそらく誰も気が付かないだろう。そうした機能はべつにAppleの製品に限られたものではなく、ありとあらゆるデバイスがそのような機能を持っている。街角には監視カメラがあり、個人が所有するスマートフォンのGPS機能は、個人の行動を記録する装置でもある。

本書の物語は、女性を巡る社会的な装置、周産期医療や産む性としての、婚姻制度の中の、女性の働く職場の、あるいはフェミニズム運動自身も含む様々な仕組みを寓話化して描かれたものだ。『1984年』が現実化していると同様、本書の物語もまた薄気味悪く現実化に向けて動いているようにおもえて、小説家の想像力の凄みを感じたのであった。


 

2019-05-11 09:20:54 | 読書 | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


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