Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「古墳と埴輪」

2024年09月22日 17時33分31秒 | 読書

   

 「古墳と埴輪」(和田晴吾、岩波新書)を読み終えた。

古墳時代の葬制の基層となるものは、弥生文化、ひいては中国・長江流域の船棺葬の文化にその淵源があったと推測される。」(第7章日中葬制の比較と伝播経路)

古墳時代後期後葉になると大王墳としては見瀬丸山古墳や平田梅山古墳(欽明陵)を最後に前方後円墳は造られなくなる。・・・前方後円墳は王権下全域でほぼ同時期に消滅する。前方後円墳を物的基盤としてきた天鳥船信仰も衰退し、埴輪もみられなくなった。・・・古墳時代後期後葉から飛鳥時代になると、中国・朝鮮半島諸国から仏教文化をはじめとする新しい文化や政治や社会制度が積極的に取り入れられ、・・・国かだ定めた法制的原理が集団関係を律する社会が動きたした。」(第7章日中葬制の比較と伝播経路)

 「古墳の儀礼は、(当時の)死生観・他界観のもとで独自の祖先崇拝が育まれ、その信仰に基づいて執り行われた。その信仰を「天鳥船(あまのとりふね)信仰」と名づけたが、その核心は、死者の魂は鳥に誘われた船に乗って他界へ赴くというもの・・・。この古墳の儀礼は、ヤマト老い県全域において、長期にわたり繰り返し行われ、当時の社会の人・もの・情報の流通を促す最大の原動力となったのであり、古墳づくりは国づくりそのものでもあった。」(おわりに)

 久しぶりに考古学の本を読んだ。一応古墳に関する現在の地平として記憶に留めておくことにしたい。

 


能登半島豪雨被害

2024年09月21日 21時27分28秒 | 天気と自然災害

 昼の時間帯も、喫茶店でのネット情報も、帰宅後のニュースも能登半島の豪雨被害の報告や中継。深夜から明日の昼間でまだまだ強い雨が降る予報となっている。
 正月に地震のあった能登半島だが、すでに多くの被害者が報告されている。中には地震災害復旧従事者が行方不明との報道もある。とても痛ましい。
 当分の間、この豪雨からは目が離せない。

 しかしあの豪雨で道路冠水、河川氾濫の中を強引に通り過ぎようとする自動車の存在に驚いている。どんな理由があるのか解らないが、危険に飛び込むようなものである。
 車は安全という思いこみが強いのだろうか。雨が自分の身に当たらないと不安が消えてしまうのだろうか。危険回避の思考回路が麻痺してしまうのだろうか。
 車内からの危険な状況を、しかも家族連れで撮影した動画をマスコミに送信するということも私には理解できない行動である。それを垂れ流すマスコミもひどいものである。私にはともに理解不能である。

 報道機関は災害時の車移動の危険をもっと前面に出して警告すべきなのではないだろうか。


今年の彼岸花はさびしい

2024年09月21日 20時33分32秒 | 近くの自然

 団地の中でも例年9月には彼岸のころに彼岸花の小群落が顔を出して、赤い花をつける。
 しかし今年は小さな群落はまったく芽を出さず、いつも3輪ほどが咲く別の箇所に1輪だけ咲いている。
 やむなく団地の近くの道路の斜面に毎年見事な大きな群落が顔を出す箇所に立ち寄ってみた。しかしここも今年はやはり1輪だけが寂し気に咲いていた。
 この異常な暑さが影響をしているのだろうか。あまりに寂しい彼岸花である。彼岸花は単独で咲いているのもいいが、それなりの群落で咲いているのを見るのもいい。

 本日の午前中は、団地のボランティア活動で芝刈り。私はエンジン付きの芝刈り器は使わず、熊手で刈った草を集める仕事と、通路にはみ出した庭木の枝の剪定。草の背丈が腰まで伸びてしまっており、草刈りは難航。熊手も重くなり腰と膝にかなりの負担がかかってしまった。
 お昼を過ぎても終わらず、お年寄りである私は先に上がらせてもらった。天気は曇がちで風が強く、しかも乾燥気味だったので、何とかお付き合い出来た。それでも昼食後15時過ぎまで休養がてら1時間ほど昼寝。
 目覚めたのち、横浜駅まで彼岸花を撮影しながらウォーキング。横浜駅近くのオフィス街のいつもの喫茶店でコーヒータイム&短い読書タイム。

 帰りはバスに乗ったものの、道路が渋滞。バス自体は空いていたのに、普段の倍以上の時間がかかってしまった。


雲は秋、気温は猛暑

2024年09月20日 22時19分17秒 | 天気と自然災害

  本日も気温が34.9℃まで上がった横浜市域。ほぼ猛暑日といって過言ではない。記録した時間は15時45分。ちょうどその時間は家に向かい始めた時間であった。確かに肌に刺さるような陽射しであった。

 出かけたのは13時過ぎ。いつもとは違うコースのウォーキング。神奈川大学の六角橋校舎の生協書籍部に立ち寄ってから、さらに東横線の駅まで歩き、駅前の喫茶店でコーヒータイム&読書タイム。
 読書後は、来た道をもどり、途中古書店2軒ほどをまわり、自宅へ。往復1万2千歩ほど。
 帰宅後は、いつもリュックや財布に入れて持ち歩いている3日分の常備薬の袋に入れている薬名や服用量などの一覧表の書き換え作業。次回11月の診察で再度変更があるかもしれないので、少し早すぎるかもしれなかった。

 途中の公園で空を見上げると雲は秋の雲、しかしながら気温は高い。刺すような陽射しのために帽子からは汗が滴るもののの、帽子を取ると毛のない頭皮が焼け付くようである。大きなタオル地のハンカチも絞ると汗が滴り落ちる。今年になって7月から9月の3か月間でタオル地のハンカチ4枚がごわごわになり、廃棄する破目に。これほどにハンカチを酷使したのは初めてである。

 


「古墳と埴輪」その4

2024年09月20日 21時41分31秒 | 読書

   

 「古墳と埴輪」の第6章「古代中国における葬制の変革と展開」を読み終わった。

船と鳥とが結びついた鳥船の図柄には少なくとも戦国末~前漢初(前3世紀)には出現していた雲南やベトナムから東南アジアに広がる銅鼓や南島諸民族の葬送儀礼にみられるような船首が鳥の頭、船尾が鳥の尻尾をなす鳥船と、後に列島でみられるような船首に鳥が留まる鳥船の二種類がある。時空ともに中国の例は不明だが、図柄的には、船首に水先案内の鳥が留まる列島的な鳥船のほうがより原型に近いように思われる。二つの鳥船は親子関係ではなく、兄弟関係なのであろう。」(第6章末尾)

 中国の葬制にはこれまでもあまり関心はなく、理解も覚束く、自信がない。 


「古墳と埴輪」その3

2024年09月19日 20時18分33秒 | 読書

   

 第3章「埴輪の意味するもの」の末尾、ならびに第4章「古墳の儀礼と社会の統合」、第5章「古墳の変質と横穴式石室」を読み終わった。

古墳は日本の歴史の中で死後の世界を可視化したものとしては、仏教的他界である浄土思想の表現に先行する、最初のものだたのである。古墳の文化史的・精神史的意義の第一はここにある。古墳の儀礼とは、祖先崇拝が重んじられた時代の古墳的他界観のもとで育まれた天鳥船信仰に基づいて執行された、亡き首長の冥福を祈る葬送儀礼であった。」(第3章末尾)

(古墳づくりの過程など)儀礼の場は運搬ルートを通じ広範囲に広がり、多くの人が参加し、集団の、あるいは集団と集団の結束力を強めた。古墳の儀礼の執行は造営キャンプだけに留まるものではなかった。」(第4章)

結束力の強弱は被葬者と共同体構成員の距離感によって大きく変わっていった。前期~中期前葉頃までは、構成員は首長の冥福と共同体の安寧と繁栄を祈って古墳の儀礼の執行に主体的に参加し、共同体、ひいては王権の結束を強めることになった。しかし首長が共同体の支配者に転じ、構成員を私民化しだした中期中葉~後葉頃には、巨体前方後円墳の築造が頻発し、古墳づくりは強制的なものとなり、構成員の心は首長や王権から徐々に離れ、・・・残された者の幸福につながるという幻想が崩れ、中期的な政治体制が崩壊した一因となった可能性がある。」(第4章)

列島各地に共通する様式の大小数多くの古墳が築かれ、・・・階層的秩序が形成されていた背景には、王権において大王ないし王権中枢の意志に基づき古墳づくりを統括する職掌(視葬者)が居なければならない。」(第4章)

 古墳づくりは、祖先崇拝を基礎とした国家という共同幻想の強化に役立つだけでなく、巨大石棺などの石材の運搬ルート整備、人員確保などの交通インフラ整備も兼ね、埴輪などの工芸集団の確保なども兼ねていたとの指摘は、魅力的であった。


雷雨(大雨・洪水・雷注意報)

2024年09月19日 17時51分18秒 | 天気と自然災害

 15時過ぎ、黒い雲が全天を覆い、雷がなり始めていた。神奈川県全域に竜巻注意情報が配信されたころ、横浜駅からウォーキングで帰宅しようとした。
 途中から雷鳴と稲光が頻繁になりその間隔も短くなった。さらに大粒の雨が降り始めた。慌てて横浜駅にもどりバスにて帰宅。
 バス停から自宅まで歩く間に、かなり濡れた。バスの中でザックカバーは出来たが、傘をリュックに入れていなかったのは失敗。

 17時半現在、ようやく雷は鳴らなくなり、雨は小降りになった。西の空が少し雲が切れ、明るくなってきた。
 横浜市からは3箇所で避難判断水位を超えたとの河川水位情報が配信された。その後は水位は下がっている模様。肝心なレインアイよこはまは故障なのかアクセス不能につきどの程度の雨がどの地域に降ったのかの判断が出来ないのは残念。


「日本霊異記の世界」から

2024年09月18日 20時31分32秒 | 読書

 本日は二人で横浜駅で買い物。昼食に蕎麦店で暖かい蕎麦を2/3ほど。十分お腹がいっぱいになった。親に頼まれた買い物を二人で物色、その後妻は別のスーパーへ、私は書店を回ってから喫茶店で一服。
 喫茶店でいざ読書しようとリュックから本を取り出すと、読む予定の本ではない本が入っていた。家を出るときは「古墳と埴輪」の第4章以降を読むつもりであったが、入っていた本は「増補 日本霊異記の世界」(三浦祐之、角川ソフィア文庫)。
 どこで勘違いしたか。文庫と新書の大きさが違う上に、掛けたカバーの材質も色も違う。ボーッとしていたとしかいいようがない。「日本霊異記の世界」は次の次に読む予定にしていたものである。
 そうはいっても喫茶店でボーッとしていてもつまらないので、「増補 日本霊異記の世界」のまえがきと第1講に目を通した。なかなか引き込まれる叙述である。できればこの本を読む順番が来るまで、本日読んだところを覚えておきたいものである。まえがきを読んで早めに目を通したくなった。

   

 筆者は前書きで、「日本霊異記」(日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんあくりょういき))について、「古事記、日本書紀、風土記が伝える伝承世界は、6・7世紀を基盤とし、霊異記説話の多くは8世紀に人々の間に流通していた。8世紀の散文的な表現世界の情報は、続日本紀などの正史や正倉院文書を除けば、霊異記だけが発信源」(要約)と捉えている。
 また、「古事記や播磨国風土記に描かれる笑われたりからかわれたりする天皇たちに近いところがある。霊異記に登場する天皇も貴族も普通の人々のフィルターを通して造形化されてきた」(要約)と指摘している。
 第1講は、「日本霊異記」と「日本書紀」の記述から、小子部(ちいさこべ)氏の先祖譚につながる「雷の岡」神話から。


「古墳と埴輪」

2024年09月17日 20時27分02秒 | 読書

   

 暑い最中の読書がなかなか進まない。最近よんでいる本とは目先を変えてみた。数年に1冊くらいは考古学関係の本を読んでいる。今回はこの本を選択してみた。

 著者の問題意識は以下に示されているようだ。

日本考古学では、この古墳の文化に一定の一体性と秩序が認められることから、政治的記念物としての古墳の築造上にヤマト王権や地域勢力の動向を重ね合わせることで、古代国家形成過程としての古墳時代の政治社会的研究に力を注いできた。しかし古墳の第一義は墓であり宗教的記念物なのだから、他界観や信仰といった宗教的意味や葬送儀礼での役割、あるいは社会的意味を問わなければ、古墳の本質には迫れない。」(はじめに)

 なお、次の指摘は多分私は初めて知った。
埴輪には、生産用具がないなど、他界での生活に必要なもののすべてが揃っていたわけではない。その点については埴輪と副葬品との比較から考えてみたい。」(第3章「埴輪の意味するもの」、1「埴輪の種類と変遷」)

 上記の指摘について、次のように結論付けている。
副葬品は首長の社会的役割(権益)を象徴する品々、埴輪は主に他界での生活に必要な食器、施設(家、囲など)、家具(蓋、椅子など)である。共通する武器・武具は、棺・槨内のそれは軍事権の象徴であるととに遺体を護る役割を担ったもの、埴輪のそれは首長の住む屋敷や他界ものものを護るためのものだったのであろう。小道具類は棺・槨に副葬品として納め、大道具類は他界に埴輪として備え付けたともいえる。」(第3章、5「埴輪と副葬品」)

 本日は第3章まで読み終えた。


名月と団子

2024年09月17日 19時57分36秒 | 近くの自然



 仲秋の名月の本日、特に花・ススキを活けたりなどをすることは無いのだが、妻が小さな団子を購入してきた。月はきれいに輝いている。満月に団子を食べたのはもう数十年前のことなのではないか。なお、本日は十五夜、満月は明日。秋には程遠い暑苦しい夜である。
 購入してきた団子には餡子は入っていない。実にシンプルな団子である。学生時代、友人と白玉粉を練って食べた記憶がある。どんな成り行きでそんなことをしたか、まったく記憶がない。ひょっとしたら夢だったのかもしれない。記憶違いなのかもしれない。50数年経って曖昧模糊としている。


泡盛をしこたま・・・

2024年09月17日 18時00分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨日は代々木公園の野外音楽堂で開催された反原発集会は曇り空で太陽に照らされることもなく、雨も降らず、無事終了。
 その後のデモ行進に参加したのち、銀座線で渋谷駅に戻り、道玄坂にある沖縄料理の店に10人ほどで入り、楽しく時間を過ごした。
 この店、我が退職者会のいつものメンバーはかなり気に入っている。すでに3回目である。あまり普段飲むことのできない泡盛も多数揃えてあり、何杯飲んだか記憶にない。割り勘の値段も予定をオーバーしてそれなりにかかった。
 帰りの東横線内ではすっかり寝込んでしまった。二駅ほど乗り過ごして慌てて自宅の最寄り駅に戻った。

 帰宅したのは21時過ぎ、そのまま簡単にシャワーを浴びて朝まで寝ていた。東横線内で熟睡したにもかかわらず、よく寝た。

 


早くも降ってきた

2024年09月15日 22時53分23秒 | 天気と自然災害

 昼間はウォーキングが出来なかったので、夜に約3000歩のウォーキングをしてきた。運よく玄関前に着いたときにポツリポツリと降ってきた。横浜市北部中心の雨である。雷注意報が出ている。
 埼玉県西部や都内の区部では強い雨が降ったいるようだが、神奈川県内はそれほどでもない。しかし本降りの雨である。まだまだ遠いが雷の音もしてきた。
 明日は渋谷の代々木公園で反原発の集会。退職者会も20名近くで参加する予定。ザックカバー、傘と防水の靴が必要のようだ。本日まで暑い晴れの日が続いたのに、残念である。

 いつものパターンではデモののち、渋谷駅周辺で居酒屋に繰り出す、ということになっている。せめて小雨、出来れば雨は上がってほしいものである。


「空の発見」展

2024年09月15日 21時35分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 日本の絵画作品には、江戸時代まで空の表現が無い、というのは私も気がついていた。どうしてだろうと思いつつ、深く考えることもなく過ごしてきた。

 西の空は阿弥陀如来の世界として描かれたが、あくまでも阿弥陀来迎図が描かれるためのスペースであった。

 チラシには次のような記載があった。「青空を描いた司馬江漢が、蘭学から地動説を学び、科学的な空間意識を持っていた・・・。浮世絵のなかの典型的な空の表現“一文字ぼかし”のように、その表現は形式的、概念的なもの・・・。

 このような把握での企画展、面白い視点でまとめたと感じた。明治以降、「雲や陽光を写しとろうとする」潮流が主流となるが、同時に表現主義、シュールレアリスムなどの影響で、画家の「心象をこの空間に託すように多様で個性的な「空」を描く画家たちが続く」と記載がある。
 萬鉄五郎の〈雲のある自画像〉(1912、チラシ裏面参照)の背景に描かれた赤と緑の雲などは何を象徴しているのか、謎である。空や雲の表現が普遍化されないまま画家個人の心象だけに閉じ込められてしまったという側面もあると感じた。
 そんななかで、私の好きな香月泰男のシベリアシリーズの一作〈青の太陽〉(1969)は極限状況下での「癒し」としての普遍性を感じる空である。香月泰男がこの作品に添えた言葉「匍匐訓練をさせられる演習の折、地球に穴をうがったという感じの蟻の巣穴を見ていた。自分の穴に出入りする蟻を羨み、蟻になって穴の底から青空だけを見ていたい。そんな思いで描いたものである。深い穴から見ると、真昼の青空にも星が見えるそうだ。」は30代の時から忘れられない言葉であり、そして青い色彩が目に焼き付いている。
 一方で〈黒い太陽〉(1961)に添えられた言葉は「真夏の太陽は草原を約がごとく照りつける。夕方西南の地平を転ぶように沈む時、いつも大きく見えて美しかった。しかし敗色日に濃く、緊迫感を増すにつれ、太陽は自ら希望の象徴であることをやめたかのように、その赫光さえ失って中天に暗黒に見えもしよう。」としるし、作品は黄土色の土のような空を背景に暗黒の円で描かれている。この言葉と作品もまた忘れられない。
 このシリーズには教育勅語を痛烈にやり玉に挙げた作品もあるが、すでに敗色が濃い満州の地で、これまでの価値や理念が強固なはずの「軍」という集団の中で、戦争スローガンへの失望、国家理念の崩壊・逆転、視点の転換の危機が訪れていたことを象徴させているという理解もできる。

 またこの展覧会では「空」を窓として「宇宙」を見つめる視点を現代美術の担い手から紹介している。この試みもなかなか刺激的であったが、もう少し作品の具体例が欲しかった。

 なお、イギリスのジョン・コンスタブルの〈デダムの谷〉(1805-17)に再会できたのは収穫。また亀井竹二郎、竹内鶴之助という名を初めて聞き、作品に接した。
 欲を云えば、浮世絵に登場する空・雲・雨の表現の流れからは、新版画や川瀬巴水などの作品に登場する魅力的な月や空にも着目した展示が欲しかった。そこまですると大展覧会になってしまうのだが・・・。

   


「フォロン」展と「空の発見」展

2024年09月14日 21時40分43秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日は欲張って二つの美術展を二人で見てきた。
 まずは東京ステーションギャラリーで「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」展を鑑賞。一服ののち、半蔵門線・井の頭線を乗り継いで渋谷の松涛美術館まで出向いて「空の発見」を鑑賞。
 久しぶりに二つの美術館をハシゴでだいぶくたびれた。
 フォロンという画家は初めて見たが、どこかで見た既視感があり、そして美しい色彩に目をみはった。好印象。
 次に「空の発見」展では、広重・北斎の諸作品のほか、お目当てである香月泰男の「青の太陽」(シベリアシリーズ)をじっくりと鑑賞。「青の太陽」はもうすでに4回以上は直接見ているが、幾度も見たい作品である。今回も会場内はとても寒かったが、じっくりと見させてもらった。
 幕末から明治期のこれまで名も聞いたことのなかった画家の作品が多く掲げられており、いづれもなかなか好印象の作品が並んでいた。

 追々感想を記してみたい。

 


穀物断ちから素麺

2024年09月14日 10時00分20秒 | 料理関連&お酒

 昨晩は減量にひと段落後3回目の小麦摂取。素麺を熱いくらいの薄めの汁に入れた「にゅうめん」を食べた。一人前の半分はとろろ昆布をたっぷり入れて、残り半分はツナ缶を半分ほど加えた。ツナ缶の大豆油が暖かい汁と意外と合うものであった。
 冷たい素麺に味噌味の鯖缶を載せて食べたことがあり、これも美味しかった。暖かい汁には薄味のツナ缶がぴったりである。サケ缶もいいかもしれない。久しぶりのアツアツの素麺が汁ごと胃に染みわたった。

 さて、次に食する穀物は何にしようか。お粥もゆっくりと食べてみたい。その次には、「ほうとう」のような具材を味噌で煮込んだうどんも食べてみたい。
 かなり薄味の我が家の料理は、病後の回復期のような私には特にありがたい。