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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日から読み始めた本「受胎告知」(高階秀爾)

2018年12月22日 23時20分47秒 | 読書


 昨日から読み始めた本が11月末に出版されたばかりの「受胎告知 絵画で見るマリア信仰」(高階秀爾、PHP新書)。
 PHP新書はまず購入することも立ち読みすることもないのだが、この目立つ表紙に吸い寄せられた。著者が高階秀爾ということで二度ビックリ。確かすでに86歳を超えた方である。いくつかの著書を読んで勉強させてもらっている。
 中公新書の「近代絵画史」、講談社の「バロックの光と闇」、岩波新書の「名画を見る眼」正・続など手に入りやすい。
 読んでみると、今までの著書よりも読み易い。短い文章が並んでいる。読み易いからと読み飛ばすと大事なところを見落とす。
 「観察力を磨く名画読解」を読み始める前に、読み終えたい。本日はリュックに詰め忘れて、喫茶店で読みそこなってしまった。

 ミッションスクールに6年間通って新約聖書には眼をとおしたが、如何せん不信心・不信仰の極みの私である。マリアの処女懐胎も、キリストの復活も、さまざまな「奇跡」も受け入れずにきた。ましてアダムとイヴの原罪へのこだわりなど、興味などまるで湧かなかった。
 本当は「原罪」意識の根拠とは何か、マリア信仰とは何か、社会学的な解明などこだわってもよかったのかもしれないが、卒業して以降はキリスト教徒は無縁な世界にいた。というよりも避けてきた。
 西洋美術に足を踏み入れるとこのふたつは避けては通れない。今さらながらの勉強である。

図書館で借りた本「観察力を磨く名画読解」

2018年12月22日 20時55分05秒 | 読書
 図書館-関内-横浜と歩き回り、夕食前に帰宅。雨は予報どおり15時を過ぎてしばらくしてから上がった。
 ダウンのコートに雨が沁み込んでいたので、途中で防水スプレーを購入。立ち寄り先で乾かしてからスプレーをしたものの、乾き切る前に外に出たのがいけなかったのか、ガードレールについた水滴が沁み込んでいた。もう一度スプレーのし直しをした方が良いのだろうか。あるいは安いものを購入したのがいけなかったのか。



 図書館で借りた本「観察力を磨く名画読解」(エイミー・E・ハーマン、岡本由香子訳、早川書房)の返却期期限は1月5日。
 休館日を考慮すると12月27日か1月5日しか返却する日がない。内容の濃さと読みごたえ℃からすると、いったん返却してから再度あるいは3度ほど借り直さなくてはならないようだ。

 そうと決めたら、今読んでいる本はそのまま読み終えるまで続けられる。


年賀状の図案作成終了

2018年12月22日 12時20分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 年賀状の図案が出来上がり、妻の分は印刷完了。私の分は宛名の印刷が済んでから、うら面の印刷に入る予定。来週初めには投函したい。
 個人的には干支にちなんだデザインは選択したくないので、今年は蕗の薹のイラストを使用してみた。蕗の薹そのものの色合いは好みである。

 図書館より予約していた図書が最寄りの図書館で貸出可能となったとのメールがきた。さっそく本日受取りに行くことにした。外は雨模様。昼食後には腫れて欲しいが、無理のようだ。本日の雨は予報では15時までらしいがそれまでは待てない。理由はないが‥。


冬の月は寡黙である

2018年12月21日 23時13分46秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 今夜は十五夜、ただし満月は明日。残念ながら空一面の厚い雲で雲も星も見ることはできない。月の位置すらわからない。

★冬満月今なら姨捨山に行ける      小長井和子
★父の死後 けやきにあそぶ冬の月    田辺三耶子
★いいたきを黙してしばし冬の月     小林いさを


 冬の月は寡黙である。星空は饒舌だが、冬の月、それも満月ならば星空は月のあかりに沈黙してしまう。あたかも寡黙であることを強いられるようだ。月はそのような自分の振舞いに気がつくことはない。が、決して権力者ではない。人間世界からは遠いのである。沈黙を敷いているとは自覚していない。あくまでも善意の月である。そしてその善意ゆえに、冬の月あかりは人の心を痛みを与えずに通り抜ける。人は心を見透かされたと静かに思う。


 さて、本日の昼は昨晩の残りのおかずで食べた。神大の生協でカレーのランチを予定していたが、残りものを食べないと悪くなる、とのことであった。カレーのランチは来週に持ち越しとなった。

奥村泰宏・常盤とよ子写真展「戦後横浜に生きる」

2018年12月21日 20時42分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等




 MM線日本大通り駅傍にある横浜都市発展記念館で開催中の「奥村泰宏・常盤とよ子写真展 戦後横浜に生きる」を見に行った。
 会期は今月24日までである。写真家の奥村泰宏(1914-2005)と常盤とよ子(1928-)夫妻の資料約3000点が都市発展記念館に寄贈されたのを祈念してその一部が企画展として展示されている。
 奥村氏は進駐軍を取り巻く市民の風景、戦災・引揚・戦争孤児などをテーマとしている。また戦災者の救済から戦争孤児・「浮浪児」を収容したボーイズホームの設立運営に携わっている。妻でもある常盤氏は、赤線地帯や戦後たくましく働く女性たちを被写体にして横浜を切り取ってきた。
 私は1962年に横浜に来た。家は横浜駅から相鉄線で郊外に出たところで、接収も赤線地帯も進駐軍などの蚊っぽも目にする機会はほとんどなかった。しかしたまたま桜木町の駅前のビルで少年向けオーケストラの練習場があり、毎週土曜日の夜に桜木町に通った。そこで垣間見た世界は闇の中でどぶとアルコールと吐しゃ物の匂いに充ちていた。毎週土曜日は足早に「国電」に乗って横浜経由で相鉄線に急いで乗って帰宅したことだけは鮮明に覚えている。
 1964年中学生になり、横浜駅から山手駅まで通学し、帰路には時々伊勢佐木町の有隣堂経由で帰宅したが、その時はすでに「明るい伊勢佐木町」に変わっていた。ただし裏通りと夜はどのようになっていたかは知る由もなかった。
 しかし当時もボーイズホームの活動が継続していたことは知らなかった。私の少年時代の時間軸に合わせて、写真展示などを興味深く見ることが出来た。
 奥村氏はどちらかというとコントラストが強く、人の表情もきつめで何ものかを訴えている。常盤氏は室内の撮影でもコントラストはそれほど強くない。その分顔の表情が生き生きとしている。どちらも戦後の逞しい世相を生き生きと映しこんでいる。

      

本日の読了「日本画の歴史 現代篇」

2018年12月21日 13時21分05秒 | 読書
   

 本日読み終えたのは「日本画の歴史 現代篇 アヴァンギャルド、戦争画から21世紀の新潮流まで」(草薙奈津子、中公新書)。「日本画の歴史 近代編」と同時発売された。
 前巻で作品を見た画家は、明治初期の橋本雅邦、狩野芳崖、横山大観、下村寒山、菱田春草や平福百穂などで、他は名はよく聞くが、そして作品を見る機会はあるものの、あまり私には響いてこない画家や作品ばかりで、読み進めるのもちょっとつらかった。
 この巻では、私の感覚に響いてくる画家や作品が多く、読む速度も自然に早くなった。好みの画家、作品が取り上げてあると、指摘や評価が私のものと違っても、楽しいものである。

 いつものとおり「覚書風」に。
「マチスなどを学んでいるという意味で、小倉遊亀の作品は理知的というべきかもしれません。‥伝統的に日本美術院の作家に顕著なのが、絵画に精神性をもたせるということです。‥遊亀作品には高く、深く崇高な精神と同時に、優しく暖かみのある人間性が見られる‥。」

 どうも日本の美術評論では「崇高な精神性」とか「深い内面性」というと何かすべて言い切ったような気分になるのだろうか。私にはとても疑問である。この著作でいくつも教わったことはあるが、どこかでこの言葉で逃げてしまうところが散見されるのが残念であった。

「1943年5月、大観を会長に日本美術報告会が創立され、大観はますます絶大な力を発揮するようよなりました。戦争に協力しないと絵画制作に必要な絵具や紙・絹などの配給を受けられなくなるという‥。戦争とは、気がついた時には個人ではどうすることも出来なくなっている恐ろしいものなのです。そしてそれを後で後悔しても、もう遅すぎるのです。近代日本画の歴史はそんなことを教えてくれます。」

 日本画家の戦争画が構図・構成などでどのような地平を開いたのか、そこら辺の技法上の評価も同時に言及してほしかったと思うのは、この本の目的を超えてしまうのだろうか。

「日本画絵具を使っていなければ日本画とはいえない、という考えには納得できません。‥日本画と洋画の最大の違いは、二次元的表現を好むか、三次元的表現を好むかの違いではないかと思っています。ヨーロッパ絵画が奥へ奥へと深まっていくのに対し、日本画は横へ横へと広がっていくのです。つまり空間の違いなのです。」

 この意見にはとても好感が持てた。今度から是非ともこの視点で日本画を見ることにしたいと思う。道具(絵具、支持体、媒体である膠等々)に着目している限り、日本画という概念自体が消失してしまう。油彩画や西洋画との境界は無くなってしまう。しかしこういう指摘は傾聴に値するのではないか。

「自分たちの日本画を生み出そうと悪戦苦闘しますが、西洋絵画の束縛から完全に逃れることはできませんでした。何しろ日本の西洋化とは、明治時代に始まる近代という長い歴史に裏打ちされていたのです。しかしその束縛を受けながらも、次第にそこから解放され、かつもっと土俗的な方向へ向かった画家がいました。‥さらにその束縛から逃れられたばかりでなく、全く気にしない世代が誕生してきたのです。近代化という西洋化からの解放‥。近代以降連綿と続いてきた「日本画」から「日本の絵画」が誕生した、といってよいでしょう」

 なるほどと思う一方で、最後の結論まで言い切ってしまっていいの? という気持ちもある。私などの素人がこれから日本画をこの方面から楽しむのは悪くない。

 入門書のようでいて示唆に富む著作であったと思う。特に現代篇で取り上げた画家で興味をあらためて惹かれた堂本印象などの画家が幾人かいる。また高山辰雄・横山操・徳岡神泉・内田あぐり等々評価を高めたい画家もいる。荘司福のような好きな画家の評価がさらに高まった画家もいた。




少しだけ進展した横浜駅改良工事

2018年12月20日 23時29分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜駅の東西を結ぶ中央通路の一部が直線で開通した。横浜駅改良工事のごく一部の完成である。西口の地下から地上にのぼる南北のエスカレーターと階段がお披露目となった。限られた工事時間しか確保できない中で、工事は遅々として進まない。それは止むを得ないとは思うが、いちばんの問題は、完成形と完成時期が何も表示されていないということである。
 これでは利用者はイライラする。いつまで工事をやっているのか、という不満も出てくる。公共工事でも、民間の開発でも、完成時期の明示と完成形を示すことはとても大事なことである。それが出来ていない。とても歯がゆいものを感じる。

 今回も中央通路自体は工事中のままで、西口の一番混雑する部分は狭いままである。ただ直角に曲がる部分が直線になっただけにみえる。しかしこれだけでも人の流れは少しだけはスムーズになることは期待できる。中央通路の完成まではまだまだ時間がかかりそうである。

 昨日から読み始めた「日本画の歴史 現代篇」は半分以上読了。立ち読みで10ページ以上与点ていたことと、戦後の歴史なので、取り上げる画家の名や作品をそれなりに見ていることが読むスピードを早めていると思う。

 明日は特に予定がない。引続き読書タイムと年賀状の図案作成の日である。

久しぶりに居酒屋で夕食

2018年12月20日 23時06分04秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中の講座終了後は、安い喫茶店でサンドイッチと紅茶。午後の眼科に行くまでの2時間半を過ごさせてもらった。その間は読書で充実した時間を過ごした。

 眼科では予定していなかった視野検査があり、目薬の処方はしてもらったが、薬局の支払いが心配になり、薬局には明日行くことにした。視野検査でいつもより1700円ほど余計に支払いとなった。

 夜の集会までは、コンビニのイートインコーナーで缶コーヒーと読書で時間つぶし。集会というか勉強会の後、予定ではすぐに帰宅するつもりでいた。しかし友人数名に夕食を食べようと強く誘われ、財布が心もとなかったものの一緒に居酒屋へ行った。
 私はお酒は飲めないので、海鮮サラダとご飯、熱いウーロン茶で1100円ほどを注文して付き合った。一緒に行った人は昨日も忘年会があったとのことで、彼らは二日続けての忘年会である。にも拘わらず元気で羨ましい。

 最後の清算で、私の分担は1000円ということにしてくれた。財布が心もとなかった私にとっては、とても儲かった気分になるから不思議である。

年末の気ぜわしさ

2018年12月20日 09時08分22秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本年最後の講座「キーワードで観る美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)。この講座はいつも木曜日の朝に行われる。年が空けると3回シリーズで名前を変えて同じ講師で別の講座となる。このパターンで少なくとも6年は継続している。毎回楽しみにしている講座である。

 ここ幾日か、夜は雲もなく星が美しい。ようやく冬らしくなってきた。しかし昼間の気温は高め。寒かった日は数えるほどしかない。

 どこか師走めいて、気ぜわしくなってきた。年末の掃除もしなくてはいけない。あと12日で大晦日。特に感慨はないが、周りに合わせて忙しいふりをしなくてはいけない時期である。慌ただしく動き回っている人も意外と何となく慌ただしく駆けずり回っているだけで、本人は何でこうなっているのか、理解していないのかもしれない。
 クリスマス・年末・年始、いつも私はどこ吹く風、である。わが道を行くといえば、のんびりということの意味合いが強いが、私の場合はいつものとおり気ぜわしい。その気ぜわしさの原因が社会とは大きくずれているのかもしれない。だんだんと自虐的になってくる。
 何かのことで自分をいつも追い詰めてしまう。ひょっとしたら世の中の人はそうやって社会に合わせて自分をいつも追い詰めているのだろう。私は社会に追い詰められているそうなるのではなく、あくまでも自分の都合で勝手に気ぜわしくしているのではないか。人の都合で動かされると、悲鳴が上がるほどにいつも目いっぱいに何かをしている。そんな自分から解放されるのはいつのことやら。

本日の予定は終了

2018年12月19日 23時03分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は年賀状を郵便局にて原価にて100枚購入。その他に本箱の隅から出てきた50円のハガキ60枚を切手に交換。50円時代に300枚購入して残り60枚になったところで、どこにしまったか忘れていた。つい先日見つけ出して嬉しかった。

 本日の予定である年賀状の購入、一昨日の写真の整理、退職者会ニュースの校正の終了は無事終わった。
 横浜市立図書館のネット検索で久しぶりに本を予約。「観察力を磨く名画読解」(早川書房、エイミー・E・ハーマン/著、岡本由香子/訳) 。正月にかけて少しでも読むことと、必要なところをコピーしておきたい。

 これよりしばらくは読書タイム。
 明日は10時から講座「キーワードで観る美術鑑賞」(講師:中村宏美氏)の最終回。遅刻するわけにはいかない。

本日の読了「日本画の歴史 近代編」

2018年12月19日 21時27分46秒 | 読書


 本日読み終わったのは「日本画の歴史 近代編 狩野派の崩壊から院展・官展の隆盛まで」(草薙奈津子、中公新書)。
 この本は悪く言えば、近代日本画の人名事典的な要素が大きい。知らない画家に出会った時に、引いてみる人名事典である。個々の個人の言及についてはそれが的を射ているのか、わたしにはわからないが、博学の著者の案内に沿って巡る安心感はあるかもしれない。
 同時にあまりに客観的な叙述の仕方にその画家への思い入れは感じなかった。 私は期待したのは後者の方なのだが‥、それは止むを得ないことなのかもしれない。
 どこに何が書いてあるのか、目をとおさなくては覚えられない。だが、欲をいえばだれをどこで取り上げているのか、掲載した作品一覧とともに、人名の索引が是非とも欲しかった。

「西洋化=写実というのは日本画家にとって重大な課題でした。彼らは二次元的な絵画空間に三次元的空間を入れ込もうと苦心惨憺しました。日本画近代化とは、結局この写実という一語に尽きるのではないかと思う‥」

 引続き「現代篇」を読むことにしている。



ランチで脱線

2018年12月19日 19時30分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 退職者会ニュースの校正刷りの点検は終了。第3校で終了した。これで印刷の工程へ。来年の7日の幹事会に間に合うはずである。
 退職者会の取組み、行動も明日の学習会と明後日の健康体操クラブで終了予定。
 本日の昼食は神奈川大学の生協の食堂でカレー。本格カレーのメニューは本日はチキンのカレーと野菜のカレーでともに470円。とても美味しい。明日は野菜カレーの代わりにキーマカレー、明後日はミートボールのカレーだったように記憶している。ご飯は日本のご飯に合わせて柔らかく炊いている。明日はいけないが明後日に妻と行ってみることにした。妻の口に合うであろうか。ご飯の量はさすがに学生相手だけあってとても多く、私などは半分で十分であった。
 13時過ぎると学生は授業に出るようで、食堂もがらんどうである。私などが行くべき時間はこの空いているときである。

 これが私にはとても信じられないのだが‥。大学へは、ほとんど生協の食堂でランチだけを食べに行っていた私は、11時から15時に食堂にたむろすることしかしなかった。生協の食堂から講義棟に行くことはほとんどなかった。今の学生は、授業については真面目であるようだ。
 それが主体的な勉強であることを心から願いたいものである。大学の教授から学ぶことはやめた私からすると大学の授業から学べるということはひたすら羨ましい。
 戦前・戦中の学生は学びたくともそれが許されず学べなかった。これはあまりに不幸であった。私たちの世代はただ自己の信念に従ってひたすらひたすら自分で学ぶしかなかったように思う。
 教わることはしなかったが、学ぶことが出来たことは得難い体験であった。みずから学ぶということと、人に教わるということは違う、そして教わるということにも主体が問われる。このことを知ったことが私の20代前半の貴重な体験である。

 ランチの話からずいぶんずれてしまった。ランチはランチで楽しまないといけない。


校正のお仕事に感謝

2018年12月19日 11時10分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 つい先ほど新聞の校正刷りの第2校が送信されてきた。私の見落としが3か所あり、再度修正依頼。校正とはなかなか難しいし、苦労の多いことをあらためて実感。全体の構成や飾り枠・イラストなど校正者のセンスが問われる。そこはやはりプロだな、と感心する。私などとはやはり鍛え方が違うのだと思った。

 本日は一昨日の写真の整理と年賀状の準備作業を目標に。あまり慌てずに‥。
 

お酒抜きの生活パターン

2018年12月18日 23時02分30秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日の夜は忘年会があるが、これは欠席。明後日も夜の集会というか勉強会がある。いつもは終了後5~6人で軽く夕食を兼ねて2杯ほど飲みに行くのだが、これも欠席予定。何ともさびしい。だが、すっかり体からアルコールが抜けたようでもあり、嬉しい。
 もともと体質的にはアルコールには強くない。呑むとすぐに赤くなる。アルコール分解酵素が少ないのだと医師に言われた。たくさんは飲めまい。入院前では、ハイボール2杯か、ホッピーセットでお代わり。あるいは、グラスビール1杯に日本酒1合。だいたいこれが限度である。
 飲んで騒ぐのも嫌いである。おおぜいで飲んでも先ほどの量を超えると寝てしまう。自分でも声が大きいと気が付いたり、同じことを二度話していると気づいた時点で、口を閉じてしまう。人が大声で騒いでいたり、くどくどと長い話をしているのを見ると嫌悪感しか湧かない。自分がそういう風になっていると思うだけで自己嫌悪に陥る。

 酔って夜風に当りながら家まで1時間ほど歩いて帰るのが好きである。ふらふらになるほどは飲まないので、人並みの速度で歩く。速足は呼吸がつらくなる。あまり遅く歩くと疲れる。適度に汗がにじむ程度がいい。家に帰る頃には少しシャキッとしている。昔は家につくとそのままぬるいお風呂に入れるように途中で電話などをしたが、今はお茶を飲んで一服してからいったんシャワーを浴びる。風呂はいつものとおり寝る前に入る。

 家で飲むときは缶ビールのレギュラー缶1本、ないしチューハイ1杯のみを19時までには飲み終える。家にいるとたくさんは飲めないものである。これで22時ころに夜のウォーキングに出かける。

 いつものパターンが崩れてほぼ4カ月が経過した。あと1か月は最低我慢である。一カ月後に再開できる見通しはない。

年末の商戦

2018年12月18日 18時32分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 先日印刷所に送信した原稿に基づく校正刷りが本日の午前中にもう届いた。あまりの速さにビックリ。ただちに7点ほどの修正点を見つけて、訂正をお願いした。

 午後からはウォーキングを兼ねて神奈川大学経由で横浜駅まで、約7千歩ほど歩いた。昼食は大学の生協の売店でサンドイッチと無糖紅茶のペットボトルを購入、外のベンチでノンビリと。調度午後の授業が始まる時刻であったようで、売店も書店も、食堂もすいていた。食堂で定食を食べた方が安かったかもしれなかった。次回の楽しみにすることにした。

 横浜駅でコーヒータイムと若干の読書。終了後、再び歩いて帰宅。帰りは最短距離を歩いた。横浜駅付近ではクリスマス・セールと樹木のライトアップで煩いほど。あまり近づきたくなかったと反省。平日なのに人通りは多かったと思う。年末の商戦、一刻よりも少しは静かになったが、それでも私には喧し過ぎると思う。

★湯冷めして急に何かを思ひつく     加倉井秋を
★行きずりに聖樹の星を裏返す      三好潤子