Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

朝風呂

2014年01月25日 11時12分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜はビールを小さなジョッキで3杯ほどと、大きなワイングラスになみなみと注いだ赤・白のワインを各1杯。どうもワインは飲みすぎてしまう。大体ワイングラスは大きくとも注ぐワインは半分以下にするのが、ワインの味わい方であるとのことだ。ガサツな飲み方しか知らないし、またなみなみと注ぐのが日本酒の注ぎ方だからついそれをまねてしまう。

 35名ほどで2時間以上楽しく過ごすことができた。あいさつもさせてもらって、退職者会への勧誘はとりあえず一区切り。後はこれから再就職しない方を重点に誘う個別のお誘いに力を入れる段階になる。
 新しい支部長、すでに堂々としたものだ。「いよっ!4代目」などと声もかかっている。頼もしい限りである。

 しかし写真を撮り忘れた。これでは会報が寂しくなってしまう。残念。

 お酒を飲みながら話していると「ブログを見ているよ」と話が弾んだ。「写真をもっと」という指摘をいただいた。今後はその方向でよりビジュアルにした方が良さそうである。

 私はいつものことだが、昨晩は二次会には行かず関内の馬車道の会場から歩いて帰宅した。ちょっとだけ遠回りをして14000歩、9キロほど。家に着いた時は23時を回っていた。酔いは覚めかかっていたが、そのままベッドへ。
 朝起きたら足の心地よい疲労感と、お酒の後のむくんだ感じ。朝ごはんには野菜ジュース1合、トン汁1杯、マグカップいっぱいの紅茶、これだけの水分をとって、温い朝風呂に浸かって汗を十分に流した。
 朝風呂は気持ちがいい。

 本日は午後から横浜歴史博物館の無料の講座「縄文人の生活と知恵-横浜の遺跡を中心に」。講師は今村啓爾帝京大学教授。

 昨夜の飲み過ぎで寝てしまうことの無いようにしなくては‥。


感謝

2014年01月24日 23時20分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ということで久しぶりに革靴を履き、2年前の通勤時と同じ格好をしてみた。
 革靴が硬くなっている。黒の細いベルトも硬い。やはりたまには着用しないと使いづらくなるようだ。
 さすがにワイシャツは着なかった。これを着るとアイロン掛けが必要になる。
 36年間、妻は毎週金曜に5枚のワイシャツをアイロン掛けをしてくれていた。そのことをあらためて自覚したのは退職する2年前であった。
情けない夫であったと思う。組合活動ばかりに目がいっていた。
 部屋の片隅でアイロンをかけている妻を見て、とてもありがたいと思った。感謝である。
 「今頃感謝されても」と妻は思っているかもしれないが、人間どこかでちゃんと感謝の気持ちを表さない限り、いつ何時不義理をしているかもしれない。
 妻に感謝の意をささげつつ、本日は店じまい。オヤスミナサイ。

勧誘活動

2014年01月24日 11時27分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は出身支部の「新春のつどい兼退職予定者感謝のつどい」に参加させてもらう。現役ではないので本来は参加資格はないのだが、退職者会への勧誘の為の大切な機会である。
 昔は大きな居酒屋の座敷を借り切って40名を超える人数で開催だったが、今はオシャレなワインの店である。男が絶対多数であった支部で、支部長が女性に変わったことも要因かもしれない。いろいろなやり方があった方がいい。
 18時まで渡すものなどを袋詰めしたり、書類をコピーしたりと準備をしなくてはならない。加入者が多いことを祈るしかない。


おにぎりの思い出

2014年01月23日 22時47分34秒 | 料理関連&お酒
 おにぎりがとても好きである。近頃はコンビニでずいぶんいろいろな種類のおにぎりを売っている。新しい趣向を凝らしたものを次から次に打ち出し、競争を勝ち抜こうということらしい。
 だが、あまり新奇なものを追い求めるのはどうなのかと首を傾げたくなるような特異なもの、奇抜なものがたくさんある。

 私が一番好きなおにぎりは鰹節である。鰹節は醤油を垂らしてごはん全体にまぶしたものもいいし、おにぎりの中に鰹節を詰めたものでもどちらでもいい。どちらもそれなりにおいしさが微妙に違っていて、美味しい。
 次に私の好きなおにぎりは葉唐辛子を中に詰めたもの。
 そして三番目が鮭を焼いたもの。これも細かくしてご飯にまぶしていてもいいし、中に詰めたものでもいい。鮭は塩鮭では無い方がいい。
 四番目に昆布の佃煮がいい。
 鰹節と鮭の場合は野菜がないので、キュウリ1本をはじめ少し野菜や漬物を添えてもらえると最高である。
 そしてどのおにぎりも二枚の海苔が巻いてあるのがうれしい。

 どうも梅干しのおにぎりは好みではない。おにぎりに入れるのではなく、添えてあるならば喜んで食べるのだが‥。

 これらの好みに特に基準があるわけではない。単に好き嫌いの範疇なのだが‥。

 学生の頃、朝ごはんを焚いた後、おにぎりを二つ自分で作って学校に持参したことがある。具がなかったので、味噌を周りに塗って持って行った。キュウリにも味噌を薄く塗って同じ新聞紙に包んだ。
 するとキュウリから水がたくさん出てきて、味噌と一緒に新聞紙から染み出て教科書とノートをすっかり汚していた。鞄に入っていた読みかけの本もすっかり汚れてしまった。
 教室で新聞紙を広げて水と味噌をちり紙で拭き取ろうと悪戦苦闘しているうちに、授業を聞くのもバカバカしくなって教室を出てしまった。そして生協の食堂で新聞紙がこびりついたおにぎりを食べて、そのまま帰ってきたことがある。
 教科書とノートが汚れたことよりも、読みかけの高価な本を汚してしまったことがとても残念であった。自分の不注意に苛立った。たまに気の利いたことをしようとするととんでもない失態をするものである。慣れないことはしない方がいいと悟った。
 それ以来、自炊していてもおにぎりを学校には持っていかなくなった。また朝から授業に出ること自体が無くなってしまった。逆に定食屋でおにぎりを握ってもらって、コロッケをおかずに夕食を食べる日が多くなった。少しずつズボラになっていったと思う。

 もうひとつの思い出は、やはり生協の食堂でお昼の定食をご飯の大盛りで頼んだ。そしておにぎりひとつ分のご飯を残して、定食に添えてある沢庵を具にしておにぎりにした。それをノートをちぎった紙に包んで鞄に入れてそのままパチンコ店にいった。パチンコをしながらおやつ代わりにそのおにぎりを食べたことがある。残念ながらその日は儲けにはならず、さっぱりであったことは覚えている。

 しかし今ではそんなことをする学生はまずいないであろう。本人は特に変わったことをしているという自覚はなかったが、今から思うとやはり変わっだ学生だったのかもしれない。

 そう、学生の頃握ったおにぎりはどういうわけか俵型にこだわっていた。今は三角形のおにぎりの方が好きだが‥。

干し柿 2

2014年01月23日 10時59分08秒 | 料理関連&お酒
 本日は休養日。講座もない。予定は特に立てていない。

 昨晩干し柿の料理を書いてみたが、布団の中で思いついたのが、白和えに干し柿を添えたらと思いついた。これは今度挑戦してみようと思う。山では無理なので、これは次回に私が夕食を作るときに試してみようと思う。

 さらに、先ほど8時半近くに起きて遅い朝食を食べながらテレビを見ていたら、干し柿の料理が紹介されていた。テレビで紹介していたのは、干し柿の天ぷらと炊き込みごはん。炊き込みご飯はよく見ていなかったかけれども天ぷらは面白そうであった。
 干し柿の中に酒粕またはチーズを入れて、天ぷらにするということだ。ちょっと想像できない味だが、お酒のツマミには合うのかもしれない。酒粕またはチーズということだが、味噌もいいかもしれない。どんな味噌が合うか試してみるのも楽しいかもしれない。

 デザートとしては酸味が少ないので、アイスクリームに添えたり洋風もいいだろうが、これは私の興味の範疇ではないので、言及はしないほうが良さそうだ。


干し柿

2014年01月22日 23時44分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昔から干し柿が好きだ。しかしなかなか高価でもある。
 いろいろの種類があるが、ネットで検索すると栄養価について次のような記述があった。

★干し柿の主成分は、炭水化物です。干すため水分が抜けるので、高カロリー食品になります。また、食物繊維も豊富です。ミネラルも豊富に含まれており、特にマンガンやカリウムが多く含まれています。干し柿は通常の柿と比べてビタミンCが含まれておりません。というのも干すことによってビタミンCが壊れてしまうからです。その代り、干すことによってβカロチンが増えます。タンニンも豊富に含まれているため、抗酸化作用も期待できそうです。

 私は生の柿も、干し柿も柔らかいのが好きである。種はあった方がいい。表面が白く粉を吹いているのはあまり好まない。柔らかいものは粉はふいていない。
 この干し柿、料理にもいろいろ入れても美味しいと思う。サラダに細かく切って入れてもいい。なますに入れることもある。
 私は昔山登りの時の非常食・行動食として利用した。何個食べても飽きないので、昼ごはんの代わりに持って行ったこともある。
 一泊のテント山行の時に、夕ご飯時の味噌汁の具にし、朝はパンと干し柿ですませ、昼は干し柿だけで済ませた。歩きながら干し柿を食べておやつ代わりとした。それでも飽きなかった。この時は柔らかい干し柿では不便なので、白い粉を吹いた固くて水分が十分に無くなった干し柿を持っていった。話によると岩登りの方は、少しでも荷を軽くするために、小さなペンチで種を抜いて行くらしい。私はそこまではしなかったが、便利なものがあると認識をあらためた。

 妻は好みではないそうなので、たまに買ってきても私一人で食べることになる。一人だとつい2個ほど食べてしまうが、これは食べ過ぎ、カロリーが高すぎるようだ。しかし飲みすぎた日は、寝る前に煎茶を飲みながらこの干し柿をひとつ頬張る。さらに起き抜けにひとつ食べるといいということも聞いた。それ以来、できるだけ干し柿を切らさないように冷蔵庫にしまっている。
 食後のデザートが欲しいときにも便利である。
 この間、山梨県に行ったとき、つるし柿というのだそうだが、家の軒に見事にぶら下がっている。なかなか壮観でもあり、日本のわらぶきの家屋にはよく似あうものだと思う。柿が葉を落とした木にぶら下がっているのは、実に気持ちがいい。そして軒に何千個もの柿がぶら下がっているのを見ると、何故かホッとする。
 干し柿には夕日もよく似合う。

乾燥肌のかゆみ

2014年01月22日 21時07分01秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の横浜市歴史博物館での講座は、近世史が「野毛浦と吉田新田の開発」、古代史が「律令と格式」。
 近世史の「野毛浦と吉田新田の開発」は以前に横浜市開港資料館の講座で聴いたことのある題であるが、それ以降の成果や知見もあった。特に江戸誌代の新田開発の多くが埋め立てではなく、干拓であったとのこと。確かに埋め立てよりも干拓の方が必要な度量は少なくて済むが、より緻密な測量や設計、工事が必要となるように思える。それだけ土木技術は進んでいたことになる。
 古代史の講座は日本の律令と挌・式の歴史。なかなか実際に読むことのない挌・式を紹介してもらいながら説明を受けた。

 お昼にはウォーキングするつもりはなかったが、天気も良いし何より食後に体を動かしたい衝動に駆られて、センター北駅から隣の中川駅までの2キロほどを往復した。博物館から歩き始めて往復5.3キロほど。せせらぎ沿いの気持ちの良い道が整備されていて、ウォーキング・ジョギングの人が行きかっていた。

 さて先ほどまで、NHKのためしてガッテンを見ていた。大腸がんについてということで、大腸の内視鏡を10回を超えて受けている身では、「見なくてはいけない番組」だと妻に言われた。
 特に私には新しいものは無かったが、今後の参考にはなった。

 今年に入って乾燥の影響で、皮膚のかゆみがひどくなってきた。かゆみ止めの軟膏を昨年購入しておいたが、このごろ一日おき位に使用している。私の場合は太ももから下。他の部位にかゆみはでないが、両足だけがひどい。夜寝る前につけるときが多いが、本日は夕食後からひどくなってきた。
 軟膏をつけるとすぐにかゆみはひくのだが、年々ひどくなってくるような気がする。ストーブをつけて暖かくなるとひどくなる。ただしお風呂で温めるとこの場合もすぐにかゆみがなくなる。歳の所為ということになっているが、皮膚の老化と関係があるのだろうか。
 何でも「老化」ということで片付けられるのも寂しいものである。

 明日は特に予定は今のところない。

追悼 詩人 吉野弘

2014年01月21日 23時51分34秒 | 読書
 詩人の吉野弘が亡くなった。私より25歳上の方である。遠い昔にばらばらとめくってみた。そしていくつか心に残っている。鉛筆で○がついている個所から‥。

  雪の日に
‥‥
誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。
‥‥

  祝婚歌
‥‥
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい
‥‥

 最も鈍い者が
‥‥
それぞれの分野の核心に最も鈍い者が
それぞれの分野で生涯を賭けるのではあるまいか
‥‥

 私の本棚には思潮社の現代詩文庫の吉野弘詩集が三冊あり懐かしかった。新選、続、続々と。どれも通読はしていない。いい読者ではなかった。それでもわかりやすい言葉の先に不思議な警句と抒情を感じ取っていた。

-合掌-

横浜市中区の根岸界隈ウォーキング

2014年01月21日 22時34分52秒 | 山行・旅行・散策
 本日は久しぶりに暖かい日差しが戻り散策日和となった。労働組合の会館に用事があり立ち寄った帰りに、近くの根岸界隈を散策してみることにした。
 横浜市の寿町のはずれにある組合の会館の傍の車橋から歩き始めた。横浜根岸道路を根岸の丘に向かって登りつめ、山元町の商店街に沿って根岸の森林公園に向かって尾根道をまず歩いた。ここの道は古い道でおそらく吉田新田が出来たころから本牧や根岸方面に抜ける道であったと思われる。



 山元町の商店街に出たT字路を左に行くと山手教会やフェリス・外国人墓地を経て港の見える丘公園までの洋館の道。本日は左に商店街を抜けて根岸の森林公園・馬の博物館へ向かった。日差しが暖かく汗ばんできたため、ダウンの上着はリュックにしまい込み、薄い化繊のサマーセーターだけで歩いた。
 この商店街、50年近く前にも幾度も通ったことがある。年に3回余りとしても6年間で20回近く歩いた。学校から根岸の森林公園経由でこの商店街を通って、伊勢佐木町の有隣堂まで歩いてから、関内駅で電車に乗るという遠回りをして帰宅した。特に意味はないのだが、楽しかった。根岸という外国人居留地域の瀟洒な建物から当時から賑わっていた山元町の商店街、そして下って寿地区から伊勢佐木町までの街の様相の極端な変化に身をさらすのが刺激だったのだろう。

 本日は、森林公園の前の滝之上交差点から不動坂を登ってくる道を合わせ後、聖光学院の周囲をまわり、根岸の外国人墓地に立ち寄り、山手駅までいったん下りた。

   

 この墓地の前を昔6年間通ったのだが、当時は根岸の外国人墓地は入ることが出来なかった。今回初めて中に入ったみたが、横浜市の管理として管理棟があり、作業員が常駐していた。残念ながらパンフレット等はないとのことなのだが、草刈りなど作業員が丁寧に維持作業をしていた。
 なかなか明るい西南向きの急な斜面に洋風の墓標がまばらに立っている。訪れる人もいない、実に閑静な一角である。昔から横浜の案内パンフには記載されているが、眠っている方の紹介や規模・沿革などの記載はどこを探しても出てこない不思議な墓地であった。今回初めて案内板を見てびっくりしたことがある。
 私が卒業して15年もしてから近くの中学生がクラブ活動の一環として調査を実施したらしい。それによると戦後米軍に「接収されたらしい」との表記である。米軍に接収されたか否かももうすでに記録がないということにはビックリである。接収ということがすでに歴史のかなたに埋もれてしまう時代になっているというのだ。これでは誰がほうむられているかなどの調査も難航したと思う。
 読める範囲の墓誌を見てみると、明治時代後半の埋葬がいくつも目についた。そして日本人妻であったと思われる日本人名の女性の名前がいくつも記されていた。夫婦での埋葬である。この日本人女性の生涯がどのようなものであったか、すでに知るよすがはない。しかしどんなドラマがあったのだろうか。気持ちの良い日差しを受けて静かに眠るお墓には、港の見える丘公園の脇の有名な外国人墓地にはない雰囲気が漂っている。ここはまた訪れて静かに時を過ごしたい場所である。お薦めのスポットだと思う。
山手駅の傍のパン屋でサンドイッチを購入して線路脇の日当たりのよい空き地で昼食休憩。近くで建築工事をしているらしい職人がやはり同じ敷地で遅い昼食を取っていたので、私もその空き地に入れてもらい、コンクリートブロックを椅子代わりに腰かけた。昼食後、こんどは竹之丸町内をとおる竹之丸花道となずけられた道を再び山元町の商店街をめざして丘を登った。登り切ってから車橋まで下りた。

   

 この切通しの道は途中に湧水がある。今でもコンコンとわいているが飲料水には適さない。しかし石碑にもあるとおり、横浜の歴史からは忘れてはいけない湧水であると昔教わったことがある。
 ここまで戻ってから、再び組合の会館に戻ってロビーのソファーに座って缶コーヒーで休憩を取らせてもらった。実にいいところにある組合会館である。

 そのあとみなとみらい地区まで再び歩き、「海から見た日本文化」という講座の三回目を受講。その後川崎駅傍の病院へ先輩を見舞いに行ってきた。
 実によく歩いた一日であった。38500歩、約26キロ。さすがにくたびれた。明日は午前・午後とも横浜市歴史博物館で行われる講座。休養を兼ねてウォーキングは中止する予定。


「座右の銘」なんて性分ではないが‥

2014年01月20日 21時05分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昔、10代になるかならないかの頃、ある人から「座右の銘」というのを聞いた。なんでも歴史に名を残す人は若いころから、それこそ20代の内から、この座右の銘を大切にして、自分で書いたものを額に入れて部屋に掛けたり、床の間につるして自戒とするのだ、と言われた。あるいは書の優れた人に頼んで書いてもらってもいいのだそうだ。そして私に「そのような座右の銘を自分で見つけなければならない」という。そして幕末維新のころに名を成した人は皆、そういうことをしていたのだと教わった。
 しかしその人がそのような座右の銘を掲げているのを見たことはなかったし、そんな面倒なことをするなんてことは嫌だと直感した。そして学生時代にすっかり忘れてしまった。
 額装にするほど字はうまくない。墨書したら、何て書いてあるか私自身も含めてだれも判読できないものになる。それ以前に「座右の銘」を考えたり探し出したりすること自体が面倒である。
 大体歴史に名を残す人は、そのために座右の銘を考えたわけではないと思った。私からするとそんなことを考えている暇など考えもつかなかった。目の前にぶら下がったことを処理するのに精いっぱいで、20代~40代をいつも何かに追われるように日々を過ごしてきた。20代にそんなものを見つけ出して生涯それを指針にするという発想がまったく理解できなかった。

 しかし50代になって病気をして一か月以上入院したとき、「自分は何を基準に生きてきたのかな」とふと病室で思ったことがあった。
 処世訓なんて嫌いであったし、今でも嫌いだ。処世訓を「人生哲学」なんていいながら長々と人に説教を垂れる人など鼻から軽蔑してしまう。
 だからそのとはそのまま大して気にもかけずそのまま放置をしていた。

 退院してからしばらくしたとき、少しだけ年下の友人に「普段心に留めていることは何か」と聞かれたことがある。会議の後の疲れた頭を回復しようと、二人でにぎやかな居酒屋の片隅で溜息をつきながら飲んでいるときであった。ビルの地下の小さな居酒屋であった。
 酔いが回り始めた頭で考えたが全然思いつかない。そして冒頭に記した、10代の頃のある人からの話を思い出した。こういう時にこそ「先輩」らしく「座右の銘」を応えるのが必要なのかな、ということがちょっと頭をよぎった。入院中に頭をよぎったことを思い出した。しかしそんな処世訓らしきものを偉そうに講釈するのはとても嫌だし、性分ではない。結局その時は「そんなものなどないよ」で話を逸らせた。

 そんなことが頭に残り、それ以来「座右の銘」と何かを考えてみることにした。こんな私でもいくつか心にかけている言葉は、確かにあった。ところが、意外と思い出そうとしても思い浮かんでこない。何かことがあるときにふと同じようないくつかの言葉が、その時々の状況に応じてふと思い浮かんでいるのだと気が付いた。
 今思いつくものは、
「人に頼るな」
「まず自分でやってみる」
「沈思黙考」
「偉ぶる人、心情をころころ変える人は信用しない」
「つまらないこだわりよりも、臨機応変・応用力」
「言葉に頼らず、体を動かしてみる。形に表してみる。」
「何でも否定する人は想像力の足りない人。話は聞いても信用しない」
「手取り足取りは却って不親切」
「今日できることは今日の内に片付ける」
「細かい指示をするよりも、まずはひとりでやらせる」
「食事とお酒と趣味、子育ては自分の金と時間で」
「借金は家のローン以外はしない」
「人に処世訓は垂れない」
「人の話はさえぎらずに、最後まで聞く。それから自分の意見を述べる」
「まずは肯定してみる。それから次に進む」
‥‥
 同じようなものが並んでいたり、矛盾しているものが並んでいたりするのは、ご愛嬌ということでお許しを。
 もっといろいろとことあるごとに頭をよぎるが一日経つと忘れてしまう。昔の偉い人は良く覚えているものだと感心したり、一つの言葉にこだわる姿勢は理解できないと思ったり、そんな処世訓に振り回されてたまるかという反発があったり、こんなことを繰り返した。

 定年を前にして、支部長の退任あいさつを支部大会でしたり、職場で退職のあいさつをしたりするときに、何か短い言葉で気の利いたことを口にしなくてはと思ったが、なかなか思いつかない。長いものは下手をすると誰かを傷つけるかもしれない、とも思った。しかし四字熟語では誤解も生ずるかもしれない。悩んだ挙句にもし聞かれたらということで、「沈思黙考ということがモットーでした」が一番いいかな、ということで落ち着いた。しかし実際はそんなことを表明する場面など無くてホッとした。

 今の時点で、もしも人に聞かれたら自分はいつもこう思って生きてきたという気持ちでこの「沈思黙考」を口にしてみようと思う。しかしこれで人に処世訓をたれたり、これ見よがしに書き付けて部屋に飾るなんてつまらないことはするつもりは毛頭ない。

 通りがかり人様には、「普段の行動パターンと大いに違う」と突っ込みを入れられそうだが、本人は意外と突発的には動いていない。どんな場合でもそれなりに用意周到なつもりである。

行動パターン

2014年01月20日 12時00分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜は風が強くそして冷たかったが、本日は風もやみ、とても穏やかな日差しとなった。空気は冷たいのだが、冬の日差しが柔らかく感じられて気持ちがいい。空気は乾燥しているが、喉や皮膚に刺激を感じない。体調がいいのだろうか。

 朝から24日に配布する予定の、「退職者会の加入のお願い」などの文書づくりをこなした。これから午後には所用で出かけなければならない。

 一昨年・昨年と随分とあちこち出かけたり、人とあったり、会合に出かけたりと忙しかったと思う。
 一昨年は旅行や山登り、美術館めぐりで忙しかった。
 昨年は山登りは少なかったが、旅行・美術館めぐりのほかに退職者会の活動が加わった。これにかなりの時間とエネルギーを費やされた。
 今年は少しは慣れて落ち着いてほしい。そして山登りに多少の時間を復活したいと考えているが、思ったようになるだろうか。
 今年、講座と諸会議で2月の中旬までは手帳がほぼ毎日埋まっている。昨年は1月から3月まではかなり空いていた。

 毎年少しずつ違う行動パターンとなった方が面白いと思っている。急激な変化には体もついていかないだろうが、まったく同じ行動パターンでは私の性格からは退屈と感じてしまうと思う。今年はこれが特徴だった、今年はこれをやった、という違いがあった方がいいとおもう。
 毎年同じことをキチンとこなすというのが、素敵なことであるのはわかっている。たぶん私の妻などはこの行動パターンを選択するのではないだろうか。
 同じことをしていても、印象に残ることがそれぞれ違う。その年の特徴が印象に残る人と、同じことをどう納得のいくようにこなせたかが印象に残る人。人とは面白いものである。


明るさのすぐ後ろに戦争が見えていないか?

2014年01月19日 12時48分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜1時半過ぎに外に出て空を見上げたが、ほんの少しばかり湿り気を感じたが、雪は舞い落ちてきていなかった。お風呂で30分ほど温まってそのまま寝てしまった。朝8時過ぎに玄関の外に出てみたが、雪の痕跡はどこにもなし。私はホッとしたが、妻はつまらないと愚痴っていた。

 昨日は夕刻、団地の管理組合の大規模修繕工事に関する打ち合わせ会議。小泉構造改革による建設業業界の後遺症と東北の大震災そしてアベノミクスによる負の影響が職人確保の問題として表れてきている。4月からの消費税アップの影響も出ている。前者は工期の遅れの懸念として、後者は追加工事の処理問題で。
 アベノミクスなどと浮かれていても、国土強靭化などといっても、産業構造や労働政策の基本や長期的な視点が抜けている。労働態様の規制緩和で労働条件が悪化の一途の上、先端の技能労働者の質と量の確保などが出来ていない。
 これに東京オリンピックなどで東京に建設ラッシュが起きれば東北の震災復興はさらに遅れる。われわれの生活に密着し、そこに根を下ろし少子高齢化社会を見越した建設業界の持続的な体質改善が本来はかられなければならないはずであった。そこに着目している当該の先見の明のある経営者達がいることは知っているが、この大きな流れの中で身を処するというのはなかなか難しいらしい。

 しかし細川護熙と小泉純一郎の都政の展望を抜きにした野合、舛添要一、宇都宮某、田母神某という、この選択肢なき選挙というのもひどいものである。いつから都知事選挙はこんなになったのだろう。
 こんな選挙しかできないなら、23区をまとめる東京市が出来た方がまだいい選択ができる可能性が生まれるかもしれない。地方自治というものの根幹が今問われているのではないだろうか。少子高齢化社会に対処できる財政・都市基盤・福祉・教育・文化・医療・ヒートアイランド‥課題は山積みになっているはずだ。人の削減や財政支出の抑制だけでは何の解決にならない。領土問題や外交が都政の直接の課題ではない。自治体固有の課題が人選の中でまったく浮上してこない。大阪都構想などのなれの果てもこの東京都の今の姿なのかもしれない。
 小泉ではなく細川が立候補していることに一縷の望みを託す人の気持ちもわからないではない。少なくとも細川は知事経験はある。地方自治の素人ではないと思われる。知事選の争点が原発を掲げることで都政の課題に結び付けられるのか、都政の課題・地方自治の課題が原発と結びついて語られるのか、お手並み拝見はしたいが、期待は大きくない方がいいようだ。
 神奈川知事選挙や横浜市長選挙にこのような様相が表れたら、私は逃げ出したくなる。

 不毛な選挙戦が騒がしく、そして極めてあやうい方向に人を踊らせる。明るさのすぐ後ろに戦争が見え隠れしていないか?

 貧富の差が極端に拡大しているとき、ナショナルな課題を浮上させることは一流の政治ではない。根本の解決が必要である。ナショナルな課題が噴出しているときにこそ、政治家は冷静に相手の懐に飛び込んで話し合いをしなければならない。今の中・韓・日、どの指導者もその能力にかけている。

 次のような言葉を探してみた。この三つの国家の今の不幸が将来の不幸につながらないことを切に願っている。私たちは踊らされてはならない。私はこれらの言葉すべてに同意するわけではない。特に最後の言葉の「地球に持て」という表現はビンと来ないがそれでも後半の「魂を国家に管理させるな」はとてもいい言葉である。

・「世界の不幸や誤解の四分の三は、敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。」マハトマ・ガンディー
・「私は祖国を愛している。だが、祖国を愛せと言われたら、私は遠慮なく祖国から出てゆく。」チャールズ・チャップリン
・「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな。」ジミ・ヘンドリックス

 次のような言葉もあった。
・「握り拳と握手はできない。」マハトマ・ガンディー
 この言葉には前後の引用がほしいところだ。私はマハトマ・ガンディーの強さは「濁り拳も包み込んで握手する」ことではなかったのか?と感じていた。
 この言葉を、拳を振り上げてきた相手に対して、条件反射のように拳を振り上げてしまい、それを振り下ろす言いわけに政治家が使わないよう、切に望みたい。この言葉は、イギリスの植民地支配を正当化する姿勢・圧力に対する言葉であったと思う。力の政策に対する告発の言葉であったろう。


深夜から雪か?

2014年01月18日 22時38分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年の冬は、雪が降るとの予報が何回かすでに出されたが、実際には積雪とはなっていない。今度の予報は当たるであろうか。
 朝のうちに「雪を見たくなった」との記事をアップした途端に再び雪の予報が出された。関東地方南部では5センチも積もれば大雪、大変な影響が出るが今回も予報ではうっすら積もる程度らしいので、特に心配はしなくても良いようだ。

 しかし今になって気づいたが、雪掻き用のスコップがすっかり壊れている。購入しないと今度降った時に役に立たない。明日は近くの工具を売っている店は休みであった。これはまずかった。月曜にならないと購入できない。
 本日の午後にウォーキングに出かけたが、帰りに購入してくればよかった、との後悔も遅すぎである。
 あと4000歩ほど一日の目標には足りない。23時過ぎに付近を歩いて来ようと考えていたが、思ったよりも早めに雨ないし雪が降り始めるかもしれない。すでに「雨降るメール」が着信している。

 昨日の朝と今朝、2羽のセキセイインコの籠をそれぞれ洗ってあげた。ベランダに籠を出してから、毎日糞を取り除き、下に敷く新聞紙を取り換え、餌と水とチンゲン菜を取り換える。決して人にはなれないオス2歳も、人にすっかり慣れているメス1歳もともにこの毎朝の掃除の時は、私に怒りをぶつける。
 オスは慣れないので籠に手を入れると怯えて時々バタバタする。メスも自分の部屋に侵入する私の手に攻撃を仕掛けてくる。不思議である。冬は寒いので、籠の掃除が終わればすぐに部屋に入れる。そしてメスは籠の扉を開けるとすぐに飛び出してきて、嬉しそうに部屋の中を飛び回る。部屋を5周ほど回ると私か妻の肩に止まって一休みする。それがかわいいのだが、籠を掃除するときとはうって変わって人懐っこくなる。
 しかし最近を人に対して攻撃的なこともするようになってきた。耳たぶを齧るときにかなり力を入れて齧る。以前は甘噛みであったが、最近は思い切り力を入れて噛むのでとても痛い。これはどうしたら以前のように戻るのであろうか。





雪を見たくなった

2014年01月18日 11時50分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 雪に悩む地域の人には申し訳ない言い方かもしれないが、毎年冬になると雪を見たくなる。40代のころは毎年のように組合のスキーツアーに参加したり、妻と夜行のスキーバスで出かけていた。妻がスキーをしなくなった50代前半でも組合の北海道スキーツアーに参加していた。
 さかしこの6~7年、大量の雪をみていない。昨年飛騨高山、白川郷に行ったがそれほどの雪ではなかった。

 ということで、今年は福島市郊外の高湯温泉と、同じく福島県の石川町の猫啼温泉に行ってみることにした。このブログで紹介しているさとうてるえさんが美味しいお菓子を送ってくれだのが、石川町に店を構える和菓子屋さんのお菓子であった。またこの石川町は友人の奥方の実家のあるところでもあった。
 といっても特に知っている人がいるわけではない。また雪が多いということを聞いたわけでもないが、猫啼という地名と、それが和泉式部の出身地とのことが売りの温泉地と聞いてそそられた。
 高湯温泉は以前に行ったことのある温泉、しかもその時の旅館に再度行くことにした。ここは雪がたくさんありそうである。吾妻山は幾度見ても、幾度登っても素敵な山である。以前単独で縦走したし、何年か前も妻と雨の中を登ったことがある。何度も新幹線の車窓から雪化粧をした吾妻山を眺めたが実に美しい。今回は登山はする予定はない。のんびりと温泉に浸かるのが目的である。

 二泊の予定で二月に入ってからの予約を昨日してきた。楽しみである。


阪神淡路大震災から19年

2014年01月17日 22時33分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 あの日、私は朝一番で横浜から仙台の松島に向かった。朝出るとき関西で大きな地震があったらしいという情報はテレビで得ていた。横浜にいてその地震を感じたかどうかはっきり記憶していない。たぶん目が覚めてテレビをつけたような気はするのだが‥。
 朝ごはんを食べながらテレビを見たが情報がはっきりしなかったことはよく覚えている。
 事前に購入した新幹線に飛び乗ってからは、地震の情報から遮断された。新幹線の中ではテロップで地震で被害が出ているという程度のことしか伝わってこない。今のようにスマホでニュースを見るということはできなかった。
 仙台、それも松島に行ったのは、ちょうど政令指定都市の建設職場の自治労の労働組合の協議組織があり、その幹事会の日であったからだ。仙台・札幌・東京・川崎・名古屋の幹事は定刻に集まったが、関西の参加者が来ない。
 テレビで夕方になってようやく神戸の街が燃えている画面が写り、「これた大変なことになった」と話をしていたが、事態の重大さはその時の想像を超えていたと思う。夕食後にようやく事態の重大さがわかって来て、皆深刻な表情になった。建設職場に在籍している人ばかりだから、都市基盤に重大な損害があること、その復旧に大変な労力がかかることは皆が直感した。
 予定していた宴会も乾杯だけにとどめて、その夜は早めに就寝することにしたが、皆眠れずテレビにかじりついていた。その時も、なぜ火災の消火ができないのか、高速道路がなぜ倒壊しているのか、またその範囲はどの程度か、港湾施設の被害がどのくらいか、鉄道の状況は、道路・下水道などの被災は、庁舎は大丈夫かなどなど疑問や知りたいことが山ほどあった。
 そして何より参加予定者の安否、そして建設関係職場の組合員の安否、市役所機能の状況など、入ってこない情報にみないらだっていた。
 翌朝決めなくてはいけないことは事務局原案通りに暫定的に決め、今は何をしなくてはいけないか、を相談した。やれることは限られている。何はともあれ、仲間の安否確認に事務局が全力を挙げることと、関西以外の都市では自治労中央や単組の取り組み以外にも別途カンパを集めること、復旧ボランティアの募集があれば率先して組合員に働きかけること、関西に行く状況が出来れば三役を中心にできるだけ早く駆けつけて激励にいくこと、自治体を通した支援にも全力で取り組むなどのことを確認したと記憶している。そして予定していた松島の見学も切り上げて解散した。

 私の支部はできたばかりで、自治労連との熾烈な組織戦争を行っている最中。60人になったばかりの小さな支部であった。行動スタイルも交渉スタイルも手探りでようやく軌道に乗り始めたばかりであった。が、そんなことは言ってられない。自治労中央とそれを応える単組のカンパのほかに、仙台で決めた独自カンパの取り組みはまだ力量が足りなかった。それでまだ満足に貯まっていない、なけなしの支部費から捻出することにした。
 一番うれしかったことは、震災の3日後、私が仙台から戻った翌日、当局が私たちの18ある職場にある公用車から二台4名を選んで給水車・支援物資・医療援助の部隊の先導役として派遣すると決めたときだ。わずか2~3時間の労使協議に基づく募集で私どもの組合員が率先して手を挙げてくれたことであった。この労使協議に時間をかけている暇はなかったので、ごく短時間で派遣要領を決め、要望事項はいくつか盛り込ませることができた。少数派の私たちの方が的確に前向きな内容で必要なことを申し入れることができたと記憶している。小回りが利くのだ。私たちなりに確立した当局交渉のスタイルが試されたと思う。
 どこの組合が、というような先陣争いなどをしていてはいけないのは十分承知はしているが、それでも役員としてはホッとした。

 夜中の出発式で部隊を見送った。有線で入ってくる途中経過を大阪の手前まで聞くことはできた。夜通し、そして翌日の昼までかかって横浜から神戸まで、渋滞・混乱で食糧・燃料の補給にも不安があるなか、20数台の部隊を先導してくれた。神戸に入って以降は連絡手段はなく、あとは派遣した係長と運転手役の職員の判断に任せるしかなかった。帰る予定の日の夜遅く、大阪を出たところで連絡が入り、無事任務が終わったと聞いたときはホッとした。この時の報告をもとに以後の横浜市のそれなりにスムーズな支援体制の先鞭をつけてくれた。

 私自信は直接の現地支援には参加しなかった。組合の支援ボランティアの手配師のようなことに徹した。同時に当局サイドの支援部隊の動向は当局からつぶさに連絡を受けた。緊張の1か月であった。1か月が過ぎてようやく全体の流れがスムーズになったような気がして、緊張から解放されたと記憶している。現地入りしたのは夏になってから、組合の視察団・激励団の一人として参加して、市庁舎の崩壊現場、高速道路の倒壊現場、長田の避難所、港湾施設の被害箇所を視察し、建設職場での課題などを聞き取り調査した。

 こんなことを19回目の1月17日の今日思い出している。たぶん私の頭の中の記憶も次第になくなっていくであろう。労働組合として取り組んだ中身も当事者がいなくなれば組織としての記憶も薄れていくだけであろう。災害時に何をしなくてはいけないか、という問題は日常の業務や組合活動の中身をキチンと遂行していれば、おのずとわかるものである。あの震災が起きたとき、だれもが社会人として初めての経験であったと思う。どこの職場でも、だれでも。

 災害時マニュアル、突発の事故時のマニュアルというものが必要だということは確かだ。事前の訓練も必要である。しかし何より必要なことは、どんな災害でも日常の業務の延長にしか対処方法はないということである。日常の業務をどれだけ誠実にこなしているか、ということでおのずと道は開けると実感した。これは自治体の業務だけではない。企業でも家庭でも地域でも、そして労働組合でも同じではないだろうか。