
9月20日と21日に百済の旧都扶余を訪れた。



お昼過ぎにバスで到着して、名物の豆乳スープに麺の入ったコングクスを食べた。麺は小麦粉とそば粉を混ぜたもの。 昼食後に扶余山城を訪れた。広大な敷地を巡る散策路は樹林の中で気持ちの安らぐ道であった。途中いくつかの史跡や三忠祠を祀った建物なども美しかった。
約半周したのち、落花岩から白馬江に下り、観光用の竜船で約15分ほどの川下りを楽しんだ。
白馬江は中国・倭との交流に欠かせない百済滅亡時に3000人の宮女が身を投じたという落花岩を下から見上げると往時が偲ばれる。グドゥレの渡で下船し、グドゥレ公園を経て百済の聖王前をとおり、町並を散策しながら定林寺を訪れた。町そのものはそれほど広くはないが、落ち着いた感じで、せめて二泊位かけてじっくりと散策するのもいい。観光も兼ねた市場や今回訪れなかったが多くの史跡がある。
竜船は川船として昔の船を復元したのかもしれない。しかし水押(みおし)が鋭角でないのが気になった。当時の倭の船も含めて海を航行する船もこのような形だったのだろうか。私の知識ではわからない。昆政明教授の講座の時に聞いてみたい。



定林寺は広大な敷地を有している。当時の百済の繁栄と文化水準の高さを示す巨大な石造の五重の塔と博物館を見学。飛鳥寺などの伽藍配置に影響を与えた様式などもう少し知識があればよかったと悔やまれた。
定林寺史跡を後にしてさらに国立扶余博物館まで歩いた。暑い日で結構つらかった。ここ扶余博物館の見どころは何といっても国宝百済金銅大香炉(1993発掘、高さ61.8、直径19センチ、国宝287号)と百済様式と云われる金銅製観音菩薩像(国宝293号など)。

博物館の外には大きな石像がいくつも並んでいる。韓国は花崗岩を使ったと思われる石像の遺物がたくさん存在している。日本ではあまり見られないが、それでも7世紀前半の頃などは多くの石像の遺物などが見つかっているという話を聞いたことがある。
特に入口にあるこの笑っているとしか思えない亀などは親しみ深く迎えてくれたように思えた。石像は仏像ばかりではなく、中国から伝わった陰陽五行思想、神仙思想などに基づくこの亀などの像などがあり、その大きな影響を見ることができる。

ここの博物館も入場は無料である。第一室はこの地の先史時代から馬韓といわれた時代までの遺物。土器・青銅器・銅器などが中心。
第二室が6世紀、百済の聖王から威徳王の時代。金銅大香炉はこの時代の遺物である。初期の記述が正しいとすれば、倭が南朝鮮での利権を百済や新羅に奪われ、聖徳太子の執政が始まる頃までのいわゆる飛鳥時代にほぼ相当する。
この金銅大香炉も写真撮影が許されているが、ガラスの反射もあり思うように撮影することはできなかった。しかし目が吸い寄せられるような感じである。複雑で飽きることのない造形美に圧倒される。天辺の鳳凰と思われる形象が世界の頂点に位置するようでもある。また土台に相当する不思議な足は竜であろうか。百済の人々の信仰や世界観の反映のような気もする。

第三室は7世紀に前半に相当する百済の武王から百済最後の王義慈王(660)までを展示する。ここに金銅製の菩薩像、とりわけ観音像が美しい。日本の法隆寺にある百済観音の源流を示すように痩身で足の開き具合などもよく似ている。これが中国の様式がどのようにつたわり、百済の様式として確立したのかはわからないが、いづれにしろ日本の仏像に大きな影響を与えたことは確かだ。とても懐かしいものを見ているような気がした。
博物館の三つの部屋を回るだけでかなりの時間を要し、またとても疲れた。このあとさらに歩いて、扶余山城の入り口まで歩き、食堂が並ぶところで夕食に焼肉を食べて、ホテルに向かった。ホテルは今回の旅行で一番きれいなホテルで、閑静な郊外にありゆっくり休むことができた。



扶余では、百済歴史再現団地、百済歴史文化館、百済王陵園なども訪れたかったが、時間的にはもう一日滞在しないととても無理であった。

朝、ホテルの窓から見る水田風景は日本の農村風景と酷似している。バスの時刻までの1時間を利用してタクシーでクナンジ(宮南池)を訪れた。蓮の大変綺麗な広大な池があり、季節的には少なくなったようだったがそれでも豪華な花がいくつも見ることができた。