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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

雷が鳴り始めた

2012年09月18日 23時21分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では不気味に雷鳴がなり、稲妻もないのに電気がちらちらしはじめた。雨の予想のメールが届いたが、時間雨量15�・30ミリの予想。たった今降り始めた。こんな大雨の予報メールは初めてだ。
 地響きのような雷鳴が続いている。風も出てきた。
 電気がチラチラついたり消えたりしたので、パソコンは電源を落として、スマホで記事を書いている。
 しかし雷鳴というのは、恐ろしいが反面豪快でもあり、家の中など安全な場所で聞く分には気分的にはスカッとする、と言明しては顰蹙を買ってしまうかもしれないが・・。
 暗い部屋の中で雨の音と雷鳴を神経を研ぎ澄まして聞いているのは、なかなか得難い時間だと思う。
 今停電の影響で市営地下鉄が運転見合わせとのメールが届いた。私も現役ならば、仕事で招集がかかって職場に駆けつけなければならなかったかもしれない。事故の無いことを祈ろう。

 雷と言えば、むかし針ノ木岳を目前にした登山道の鞍部で突然の雷雨に襲われ、小さなピークを駆け下りハイ松の中で「もうだめか」と観念したことがある。ほんの4~500メートル先で連続するいなびかり。あの時の目の目の光と音の圧倒的な凄まじさと、恐怖感をとおり越した諦念は忘れられない。最初にわいてきた恐怖をあじわっているとき「自然に対する祈り」というのはこんな感情からわくのかと思った。それが諦念に変わったとき、自然に対する畏敬の念、ということが飲み込めたような気がした。チョット違うのかもしれないが。
 次の山行では、水晶岳から水晶小屋への下りで雨が降り出し、小屋に入ろうとした瞬間に後ろで衝撃が走り、ものすごい音が響いた。衝撃にしばらく呆然としていたが、小屋の人も口をあけて言葉を失っていた。小屋のそばに落ちたらしい。またしても九死に一生の体験だったようだ。私は小屋の人と思わず笑ってしまった。笑うしかなかった、というしかなない。そのあと足がブルブル震えはじめ、なかなか止まらなかった。次の小屋めざして歩き始める気力が出てくるまで約2時間もかかった。2時間も休まざるを得なかった。

 こんなことを書いているうちに、雷と雨はおさまってくれたようだ。
 


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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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諦念と畏敬 (通りがかり人)
2012-09-19 09:38:35
諦念は、味わったほうが絶対いいんだと感じました。畏敬の念も納得。しかし、これらも慣れすぎても、いけないのかなあ? 難しいもんです。
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通りがかり人様 (Fs)
2012-09-19 11:08:55
慣れすぎは確かにまずいですね。登山など自然と直接接するときは、敬意を払って準備をすすめるようにしています。
しかし突然の雷のような人の力を超えた力に出くわします。これが自然の力でしょうが、これがまた自然の魅力でもあります。難しいですね。
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