Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ハマスホイとデンマーク絵画」展 その4

2020年02月20日 08時22分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 4つ目のコーナーにハマスホイの作品が37点並ぶ。「ヴィルヘルム・ハマスホイ――首都の静寂の中で」という名を冠している。
 図録の解説には「ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)は、‥1888年と1890年にハマスホイを含む若手の芸術家たちが開催した「落選展」を経て、1891年の「独立展」の設立に結びついていく。ハマスホイは進歩的な芸術家たちの象徴的な存在となった‥。洗練されて、それでいて控え目な美意識を映し出すその作品は、物静かで慎み深い画家の人となりを示している。」「時間の遺跡を感じさせる美しい部屋と後期帝政様式の上質な家具、穏やかな光、調和した色彩、そして何よりも語らない後ろ向きの女性。幼い頃から見慣れていたはずの街中に建つ聖堂や、シェラン島のなだらかな農耕地は人影はない。ハマスホイが描く、洗練された美的空間は、急速に発展を遂げる首都から消えていく古い文化の残影のように、近代の都市生活に特有の郷愁と、ある種の諦念を誘う、静謐な空気を漂わせている。」と記されている。

 37点の内、気に入ったものは15点ほどもあった。11点ほどが特に気に入っている。

   


 まずは人物を正面から描いた作品。1891年の「夜の室内、画家の母と妻」(デンマーク国立美術館)と、1895年の「三人の若い女性」(リーベ国立美術館)。ハマスホイは画家仲間のイルステズの妹イーダと結婚する。その結婚前後の作品に複数の女性を描いた作品があった。前者は題名からわかるとおり、妻になるイーダとハマスホイの母親を並べて描いている。
 この作品は二人の世代の違ういわゆる「嫁と姑」である。二人の間には会話はない。共同で何かの作業をしているわけではない。視線も合わせていない。妻は編み物をしている。母と何をしているかは不明。
 その3で触れたとおり、光線は右からさしているけれども安定感のある構図である。光は妻イーダに主として当たり、母親には少し影になる。だが二人はこの場面で充足している。近世の絵画ならば共同で何かの作業をするなどの濃密な関係が描かれたかもしれない。しかし近代の都市生活者の家族の関係を象徴しているかのように、濃密な関係ではないものの、そこには充足した暖かな関係が描かれているように見受けられる。
 これと正反対の作品が1895年の「三人の若い女性」である。血族ではない3人の親族を描いている。左端の黄色の服の女性は画家の妻イーダの兄の妻、中央が画家ハマスホイの妻、右端はハマスホイの妹。この3名は、画面上では互いに重なって描かれている。スカートが接しているけれど、それ以上に窮屈に重なっている。相互の位置関係が不自然な配置である。三人の肖像画を強引にひとつの画面の中にはめ込んでいる。視線は交わっていないばかりか、視線を避けるようにしている。三人の周りには打ち解けない緊張感がある。三人には複雑な感情のもつれがあるのだろうか。あるいは画家は敢えてそのようなドラマを用意したのだろうか。 

 ハマスホイという画家は、数少ないモデルを描きながら、その描く人物相互の関係、葛藤を表現しようとした、という解釈を私はしてみた。ただし、解説にはこの3者の関係がきびしい状況だったことには言及はない。室内の時間の集積や、その構成的な秩序へのこだわりではなく、物と物、人と人の関係をフィクションとして画面に表そうという志向があったのではないだろうか。

            

 次は人物が1人の室内画。1898年の「室内」(スエーデン国立美術館)、1903年から04年に描かれた「背を向けた若い女性のいる室内」(ラナス美術館)、1910年の「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」(国立西洋美術館)。
 ハマスホイの室内画には後ろ向きの人が描かれる。ほとんどは妻イーダらしい。ここに掲げた2点を見たときの私の印象は、人が描かれているのに人間の匂いがしない空間を描いている、というものであった。先週訪れた写真家のソール・ライターとは正反対だと感じた。
 縦と横の直線が交差し、大きな壁の面を丁寧に塗り、左右からの柔らかな光線のかげを柔らかなぼやけた直線で斜めに描いている。これだけでは構図上単調になるので、鏡や人体で曲線を配置しているのだと思った。
 室内のテーブルや机や陶器などは室内に存在する時間、建物の歴史、住んでいる家族の記憶を呼び起こす契機になるものとして描かれている。だから匿名性を確保するために顔は描いていないのだと思った。
 今回「背を向けた若い女性のいる室内」を見て、「室内」とは違った女性の描き方に戸惑った。こちらの女性は盆を持つにしては少し強めに体を右に傾けている。髪の毛の描き方もかなり丁寧である。人体全体として細部までこだわって描いている。単に記憶を呼び戻す契機となるための造形だけではない人体の配置に気がついた。ここはまだ私の中ではうまく説明がつかない。
 そして三枚目の「ピアノを弾く妻イーダのいる室内」については、人体も小さく遠景に配置しており、匿名性が顕著なのだが、表題であえて「妻イーダ」と記している。作品だけを見ればは「匿名性」があるのだけれども、表題でこのように具体的に特定されると、私の見方に変更が必要になるのかもしれない。
 さらに手前のテーブルやその奥の机は画家の愛用のものであると解説に記されている。ならば画家と妻イーダの間に横たわる親和性、そして充足感を少ない調度品に託しているということが出来る。そこにピアノの音が配置され、より二人の関係の好ましい親和性が強くなる。

 普遍性と個別性、この二つの要素が複雑に絡み合ってなかなか一筋縄では理解できない。
 共通して漂ってくるのは、室内画にただよう時間とそこに住んでいた人と調度品の穏やかな関係である。生々しい人間の痕跡を消し去ったあとに残る、穏やかで充足し、調度品と一体となった「時間」が浮かび上がってくる。
 
 ハマスホイの直線へのこだわりがよく指摘されるが、私は先ほどの室内画たけでなく風景画にも、曲線へのこだわりを感じた。描かれる曲線が穏やかでのびやかで、気持ちを和らげてくれる。

   

 今回は、1906年の「スネガスティーンの並木道」(デーヴィス・コレクション)とおなじく1906年の「ロンドン、モンタギュー・ストリート」(ニュー・カールスベア彫刻美術館) の2点が目についた。
 「並木道」のほうの草原の地平線のなだらかな起伏が私は好きである。人工的な下方の道路の強い直線に対して、樹木の幹の縦の線も柔らかい曲線を感じさせるが、やはり地平線の起伏がより私の目を和ませてくれる。
 次の「ロンドン‥」の下部の道路と柵の曲線に私は目が釘付けになった。何の変哲もない曲線である。どこにでもある道路に表れる曲線である。しかし手前の拡がりを強調し、消失点の遠さをより強調している。多分実際の距離以上に奥行き感が出ていると感じた。
 がっちりとした直線に囲まれた建物が、縦の線が密な柵で囲われているけれども、この曲線に沿った曲がりで柔らか味を出している。どんよりとした大気とともに画面から直線の強さが消えている。
 さらに、どちらの作品でも樹木の美しさもまた際立っている。



 そして樹木の美しさを描いた作品は1904年の「若いブナの森、フレズレクスヴェアク」(デーヴィズ・コレクション)である。左から右下に斜めの地面が描かれている。この斜めの線が独特なのである。霧が地面から立ち上がっており、その空間が丁寧に描かれている。樹林の奥行き感がいい。
 長谷川等伯の松林図屏風も、松とブナで樹木に違いはあるが、ともに私の好みである。

 



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