Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「図書3月号」

2021年03月02日 19時42分37秒 | 読書

 いつものとおり、読んだ記事と、気になった個所を覚書として。

・[表紙]夢のようなもの     司 修
「(ネパールで戒厳令がしかれた夜)一応、ホテル内に缶詰めとなりました。60年安保の国会周辺の夜、「戒厳令がしかれるかもしれない」という情報が流れて、大勢のデモ隊とともに道に座り込んだ時の不安はなく、二つの「戒厳令」が夢のようなので不安になりました。‥」

・十一年目の琵琶        佐伯一麦
「東日本大震災の前年に‥(種を植えたが芽を出したのち)この土地はすぐに震災に見舞われることになった。‥十一年目にしてようやくつぼみを付けたのだった。‥震災によって喪われたものが数多くあるなかで、震災後の歳月の中でしっかりと育ったものもある。宮城県生まれの歌人の佐藤佐太郎が、敗戦後の東京で琵琶の花を詠んだ歌を引こう。〈苦しみて生きつつをれば琵琶の花終りて冬の後半となる〉」

・止まった刻をすすめるために-東日本大震災十年」  山崎 敦
「寄り添う――。東日本大震災の発生以来、「絆」と同じくらい被災地で多用されてきた言葉の一つだ、ただ、誰かに寄り添うことが、他の誰かに意図せず背中を向けてしまうこともある。‥「真実とは何か」という命題への深入りは避けつつ、記者として「真実に寄り添う」覚悟こそ必要なのだと、今更ながら自分に言い聞かせている。半世紀たって初めて真実を語り始めた広島の被爆者を取材したことがある。広島の被爆者同様、語り始めるまでに半世紀近い時を要する被災者たちが、今も被災地にいることへの想像力だけは失いたくない。」

・大江山に鬼が出た      高橋昌明

・ラッドリー家の人々     小川公代

・団扇と夫人         青柳いづみこ
「オルセー美術館に所蔵されているマネの「団扇と夫人」は印象的な絵だ。黒髪の女性がひじをつき、長椅子の上でトルコのサルタンのようなポーズで寝そべっている。((ニナ・ド・カリアスの肖像)ともいう。Fs)‥」以下、略。

・もっともらしさ       畑中章宏
「日本列島では「神」はもともと、自然崇拝に由来する姿形を持たない存在だった。‥そこに宿る霊や魂をこそ人々は信仰してきたのである。こうした精霊的な神は確固とした姿で思い描かれる必要がなかったし、信仰のありようそのものが、その対象に形を求めてはいなかった。常設の構造物がないのがふつうで、神は必要なときに岩や境に降ろされ、その際にだけ祭場が仮設されたのである。‥心霊は、おそらく透明な存在だったのではないか‥。しかし、記紀に登場する神々は身体や感情を持ち、目に見えるように行動する。‥記紀が書かれた時代の人々は、おそらくは彼らの少し前の先祖の姿を、神として思い浮かべていたのではないだろうか。」
「神様を初めて造ろうとした人々は、仏像をマネするほかなかった。例えば精霊のよりどころとである山川草木を写すというのではなく、仏像にならって身体を持った像を造ることにしたのである。」
「神像が抱える「もっともらしさ」にだれひとり疑念を抱かなかったはずはない。そのときにもちいられたであろう方便は「神像は依り代にすぎない」というものだった。」
「日本の神イメージが持つ「もっともらしさ」を科学の領域で再現させような存在が、‥NHKを中心としたプロジェクトが作り出した「AI美空ひばり」がそれである。‥「美空ひばりらしさ」に応えるには、熱心なファンをはじめとする多くの人々の理想を体現している必要があった‥。(しかし)“蘇生”はファンの要望により実現したものではなかった。‥そして、待ち望んでもいなかった再現が理想とかけ離れていたとき、「らしさ」を演出したことそのものが、「冒涜」と指弾されることになった。」
「AIを使いこなして個人を再生できると過信した現代の技術者よら、日本列島の古代や中世、神仏習合時代の人々のほうが、綱渡りのような表現を会得していたように私には思われるのだ。」

・六十七年前の時間を再生する   片岡義男
「六十七年前のLPを、初めて聴いた。再生が始まった瞬間から、時間が現在になるのはいつものとおりだ。いまの時間のなかで再生されるのだから、録音されたのがいつであれ、スピーカーから聞こえてくる音はいまのものになる。六十七年前に録音されたものだと知った上で、いまのものとして聴くのだがら、僕がしている行為はかなり複雑なものだ。」

・ナブコフの呪い         亀山郁夫

・いぬいとみこさんのこと     斎藤真理子
「いぬいさんが戦後民主主義の申し子なら、私は冷戦構造の子どもだった。日米安保条約締結の年に生まれ、ベトナム戦争で死ぬ子どもたちの姿におびえていた。冷戦時代の終わりなんて予想もつかなかったから、韓国の軍事独裁政権も、朝鮮半島の南北分断もがんじがらめの決定事項で、どうにもならないことのように感じていた‥。

・水引に張りつめる力       橋本麻里
「無垢の水引やわしから感知される「張り」はコップになみなみと注いだ水の表面をわずかに盛り上げる張力や、弾けんばかりに果肉を充実させた葡萄の粒、いましも開こうとする蕾、日ごとに育つ赤子の肌と同じ、内から湧き上がり、押し上げ、吹きこぼれようとする力の内在を想像させる。‥紙縒に備わった「張り」、そして無垢の白さによって、いつからか水引は、送り主の「祝意」に宿った根源的な力を可視化するかざりとなった。‥」

・不幸な日本国憲法        長谷川櫂
「長瀬十悟は福島原発から六十キロ離れた福島県須賀川市の人である。『鴨引くや十万年は三日月湖 十悟』 三日月湖は川が蛇行した跡にできる三日月の形をした湖。メルトダウンと水蒸気爆発によって放射能で強度に汚染された地域が原発を囲んで三日月湖のように残された。原発事故から七年後2018年に出版された句集「三日月湖」は不思議な静けさをたたえている。『村はいま虹の輪の中誰も居ず、村ひとつひもろぎとなり黙(もだ)の春、夏草やスコアボードはあの日のまま、十悟』 この静けさを言葉の次元でみれば、かつて原発を正当化する脆弱な言葉で覆われていた土地、それが今はすべての言葉を剥がされて裸で横たわっている。いわば言葉を失った土地の静けさである。言葉が記憶の器なら、それは記憶を失った土地の静けさであろう‥。『月光やあをあをとある三日月湖、牛の骨雪より白し雪の中、夏草や更地の過去を忘却す、十悟』 原発事故によって記憶を喪失してしまった土地の無残な光景である。」

・「こぼればなし」より
「思えばこの一〇年、現下のコロナ危機まで、度重なる災害と繰り返される失政に、小さな声の人たちがどれだけ追い詰められてきたでしょうか。権力をもつ者の虚偽と隠ぺい、論点すり替えと開き直り、逃亡に‥。

 



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