長田弘(おさだひろし)の詩集「世界は一冊の本」をふと手にして購入した。長田弘の詩は好きである。やさしい言葉がアフォリズムのように次から次へと出てくる。この詩集はその最たるもののひとつかもしれない。
1939年生まれ、今からちょうど10年前の2015年5月にに75歳で亡くなっている。
立ちどまる
立ちどまる。
足をとめると、
聴こえてくるくる声がある。
空の色のような声がある。
・・・・
立ちどまらなければ
ゆけない場所がある。
何もないところにしか
見つけられないものがある。
ファーブルさん
・・・・
理解するとは、とファーブルさんはいった。
はげしい共感によって相手にむすびつくこと。
自然という汲めどつきせぬ一冊の本を読むには、
まず身をかがめなければいけない。
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狭いほうからしか世界を見ない人たちの、
とげとげしいまるで人を罵るような言葉。
呪文のような用語や七むつかしいいいまわし。
ファーブルさんは、お高い言葉には背を向けた。
・・・・
死がきて、ファーブルさんのたくましい頭から
最後に、大きなフェルトの帽子をとった。
そして、二十正規の戦争の時代がのこった、
ファーブルさんの穏やかな死のあとに。
世界は一冊の本
本を読もう。
もっと本を読もう。
もっともっと本を読もう。
書かれた文字だけがほんではない。
日の光り、星の瞬き、鳥の声、
川の音だって、本なのだ。
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本でないものはない。
世界というのは開かれた本で、
その本は見えない言葉で書かれている。
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権威をもたない尊厳がすべてだ。
200億光年のなかの小さな星。
どんなことでもない。生きるとは、
考えることができるということだ。
・・・・
「おぼえがき」の中で、詩人は「十二人のスペイン人」という詩の一群について、今回は引用しなかったが、次のように述べている。
「人の生き方、人のことばの生き方を感じ考える場所に、黙って立ち尽くして心すませ、聴こえない声に耳かたむける。そうした思いの方法に私がつよくみちびかれたのは、1930年代の終わりにヨーロッパの端で起きたスペイン市民戦争がそれからの世界に遺した経験の切実さを尋ねて、沈黙の国だったフランコ独裁下のスペインを車でだ比してのことだった。「十二人のスペイン人」が、スペイン市民戦争の時代をよく生きた、十二人のスペイン人の密やかな紙碑であればとねがう。」
この12人の中には、私も知る、作曲家ファリャ、、チェリストのカザルス、詩人のヒメネス、画家ピカソ、思想家オルテガ、画家ミロ、詩人ガルシア・ロルカなどを取り上げている。
また「おぼえがき」の末尾には、
「私にとっては詩は賦である。生きられた人生の、書かれざる哲学を書くこと。‣‣‣」とも記されている。‣‣‣には白川静の「字統」が引用されている。
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