イスラエルによるイランのウラン濃縮施設の爆撃は、さらにトランプによる同じくイランのウラン濃縮施設への爆撃の引き金を引いた。トランプは「攻撃は壮大な軍事的成功」「イランの主要な各濃縮施設は完全かつ全面的に消滅」と自画自賛。イスラエルのネタ二エフは「大胆な決断、歴史を変える」と称賛。
核関連施設、原発関連施設への攻撃は原子爆弾による攻撃に等しい。「放射能漏れはない」との報道があるが、ウラン濃縮施設が物理的な破壊を受ければ放射能が拡散されるのが当たり前である。核が絡む攻撃に「きれい」な戦火などあるわけがない。
ロシアのウクライナ侵攻と虐殺、イスラエルのガザ侵攻と虐殺と目を覆いたくなる事態が当たり前になってきている。人は「慣れ」るものである。「慣れ」は「麻痺」でもある。
さらに連邦議会に図ることもなく軍事的が既成事実が先行することの恐ろしさにも目を向けたい。議会のコントロールが機能していないアメリカの「民主主義」の現状も危機的である。この蛮行を歓迎するアメリカの世論の熱狂が、日中戦争、太平洋戦争にのめりこんだ戦前の日本をほうふつとさせることにならないことを願いたいものである。かなり危うい状況ではないだろうか。違いは、当時も現在もアメリカが最大の軍事大国であるということである。アメリカは自国が「アメリカが世界の規範」であるという思い上がりをベトナム戦争を経ても学習していないということではないか。
悲しいことはまだある。日本の石破首相は「情報収集」と「邦人の安全確保」の2点のみ言及した。この2点は否定はしないし当然なのだろうが、広島・長崎に原爆を落とされた悲惨な体験をしている日本が、この蛮行に対して批判することもしない。また私たちの生活に大きな影響を与える原油価格の動向にも言及がない。
80年という時間の経過というものが、戦争の被害と戦後憲法の軛を為政者が忘却してしまったことの表れでないことを願いたいものである。戦争とそれを回避することが何よりも為政者のなさねばならないことという基準が踏みにじられてほしくないものである。
本日は朝から、悲しく、そして無力感にさいなまれた日である。と同時に、私になりに何かをしなくては、という意欲も醸成されつつある日であった。
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