
この寺の前の斜面の等高線に沿った道が赤紙仁王通りといわれる。この道に沿って歩くと、途中から道路が拡幅されている。左側は古い家並みだが、右側は新しい区画になって新しい家が立ち並んでいる。大きな造成が行われたようだが、道路は残っている。
この赤紙仁王通りと並行して現在谷田川通りがある。たぶんここは昔は谷田川が流れており、この川沿いに萩原朔太郎、小林秀雄、竹久夢二、小杉放庵、田河水泡などの住んだところが並んでいる。また最初に室生犀星が住んだところでもある。残念ながらここの標識は撮影を忘れてしまった。川を渡った先の不忍通りの面して佐多稲子の住んだ家があった。


谷田川通りから赤紙仁王通りにもどりポプラ坂を登るのだが、この坂が不思議な光景である。坂を上っていくと右側は新しい住宅、それも高級な一戸建てが並んでいる。しかし反対の左側は古い木造やモルタル造りの一軒家や二階建てのアパートが並ぶ。左右で50年の時代差を感じる不思議な坂道である。
この坂を登りきったところに保育園があり、ポプラ倶楽部跡である。テニスに打ち興じた「文士」たちの姿が思い浮かべられる。このあたりには板谷波山の工房跡・窯があったらしい。



ここから少し離れたところに引っ越しを田端の付近で6回も行った室生犀星がいちばん長く住んだ家の跡がある。なお、室生犀星が田端で4番目に住んだ家のすぐ隣には片山潜が澄んでいた家があった。今は更地で駐車場になっていた。




この室生犀星の旧居跡から八幡坂を逆に下ると、八幡神社と大龍寺がある。ここには正岡子規と板谷波山のお墓がある。
16時まではお墓の散策が許されるということで中に入らせてもらった。


板谷波山の墓は入口の正面に派手に建っている。墓石には妻の名もあり、なかなか好ましい。そして正岡子規の墓は奥まったところにこじんまりと建っている。それも子規の生涯を最後まで看取った妹の八重の墓と並んでつつましやかである。細い竹の茂みが背後にあり、静かに兄妹で眠っているという雰囲気が漂っている。
この後は坂をのぼり返し、田端高台どおりという武蔵野台地の平坦面にできた道を東に歩くとすぐに「文士村記念館」の建物に戻ることができ、そこから3分もしないで田端駅に出る。
朝にアップした記事で書き漏らしたが、中野重治はこの田端駅で逮捕されたのだそうである。
俄然、Fsさんの今回の記事が興味深いものになりました。
前回コメントさせて頂いた北区ですが私が行きましたのは王子です。
「揚げ出したまご専門店」はその王子に有りますので
Fsさんが「気が付かなかった」と言うのは当然ですね。
今夜は、Fsさんの記事とネット検索とを照らし合わせながら
もう少し文士村について勉強してみたいと思います。
中々楽しい作業になりそうです。