これまで目を通したことのなかった「日本霊異記」という書物、筆者の三浦佑之は前書きで興味深いのは二つの面が見通せる、として以下のように記している。
① 「神話的な世界との連続性」=「神話と共通する様式や要素がいくつも見出せる」「神話から隔たっているように見え、連続的でありながら断絶」
② 霊異記以前にはまったく見られない話が多数存在し、そこに霊異記説話の本質がある。「伝承説話の主要な母体の一つに「日本霊異記」をはじめとした仏教説話集があった」
「内包する二面は、発生器という時代を背景にして生まれてきたものだと考えている。その時代はあまりに隔たり過ぎてはいるが、現代社会を先取りしているのではないかと思える姿で、出現する。人は時代や社会を生きているか、霊異記の説話は奇妙なリアリティをもって私たちに語りかけてくる。」
まえがきの最後には「霊異記説話を取り上げるのは、仏教的な教えを見出したり、仏教思想の浸透を考えたりしたいわけではない。わたしが見つけたいのは、説話が描き出す八世紀あるいはその直前の時代の人びとの生きた姿である。」
また9月18日に引用したものとダブルが、「古事記や播磨国風土記に描かれる笑われたりからかわれたりする天皇たちに近いところがある。霊異記に登場する天皇も貴族も普通の人々のフィルターを通して造形化されてきた」(要約)と指摘している。
これまで私が読む前から持っていた印象の「仏教説話集」という視点は取り払って読むことになる。
本日、第4講までを読み終えた。第4講の結語が印象に残っいる。
「律令制を基盤として社会が営まれ、仏教が浸透して人びとの心に入り込んでいくことによって、血縁的・地縁的共同体が終焉を迎える。神婚神話は、神婚性を保証しえなくなってしまった。両者はいつも往復しながら共存しているとみたほうがよい。「古事記」的な神話世界は、霊異記的な説話が成立したところでは、そのまま行け入れることのできない伝承になっていかざるをえないのも事実なのである。」
「七世紀と八世紀とのはざまで日本列島に生きた人びとが強いられた変化と、十九世紀半ばに生じた前近代から近代への激動のなかに生きた人びとが強いられた変容とのあいだには、よく似たところがあったのかもしれない・・。」