Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ミュシャ展」から 1

2017年05月16日 10時56分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ミュシャ展ではスラヴ叙事詩の20作品を中心に見て回った。いづれも大きな作品であるが、丁寧に描かれていて、精密な作品であった。色彩が淡いと思ったが、それもまた白を効果的に強調するように思えた。パリでの作品とは違った色彩効果だと感じた。
 20作品全体を見ると、わたしなりに惹かれるものとそうでないものは出てくる。私は多くの指摘があるように、鑑賞者をじっと見つめる画面下方の人の目が強調された作品が印象に残った。
 以下「」内は図録の解説からの引用である。





 最初の作品である「原故郷のスラヴ民族-トゥーラニア族とゴート族の剣の間に-」(1912年作)。展示会場のショップで購入したポストカードをコピーしてみた。淡いコントラストの作品が多いミュシャであるが、実は色合いを濃くし、コントラストをほんの少しだけ強調してコピーすると、下方の人物が自ら光っているように浮かび上がってくる。
 背後の「初期スラヴ史に重要な役割を果たした多神教の祭司が夜空に浮かび、両腕を広げながら、専制と戦争の終わりを神に請い願う」姿もまた実際に見るよりも幻想的に浮かび上がったくる。下方の人物の後ろを駆けてくる「略奪者」の軍隊が黒々と現実の脅威として黒い闇に紛れて描かれている。夜空の星は原画よりは小さな点になってしまうが、私にはこちらのほうが星として明確に浮かび上がってきた。
 この下方の「略奪者に村を焼かれ、逃げのびてきた二人のスラヴ人」と「祭司」と「略奪者」と天空の星、これを念頭に置いて原画を見ると、この4つがより鮮明に眼に映るように感じた。細部をみるとやはり原画のほうがより明確に描かれている。
 下方の二人のスラヴ人は、「楽園から追放されたアダムとイヴになぞらえられている」。「この場面はスラヴ人が自然界の神々を崇拝し、人の運命は夜空の星と結ばれていると信じた時代にさかのぼる」と図録に記されている。キリスト教と古いスラヴ人の信仰の不思議な混合が忍ばれる。
 この下方の二人の「スラヴ人」は、略奪と収奪、民族間の抗争下の民衆の象徴であろう。「地上に生きる人間と幻の世界の住人が、赤い炎と純潔や無垢を象徴する白い衣服」というのは頷ける。だが「敗北と自由を求める不断の闘いに彩られるスラヴ民族の未来を予感させる」という風な断定には保留をしておこう。
 それは現代の視点と過去の人々の視点を混同しているからである。過去の人々には現在流布する普遍的な意味合いでの「自由」は念頭にはない。
 だが同時にミュシャの作品が、民衆を象徴する怯える二人の眼によって、現代の世界に通用する「被抑圧者」の象徴として鑑賞できるように転換したことが、この作品の価値である、と考えられる。神話を現代の世界に生き返させるということはこの現代における普遍性への転換、変換がないと単なる「民族主義」でしかない。戦争と革命の世紀といわれる20世紀の冒頭に、この作品を描いたミュシャという画家の思想には興味を惹かれる。この「二人のスラヴ人」の眼に惹かれる私たちは、スラヴ人ではないにもかかららずこの眼に共感する。「スラヴ民族の未来を予感させる」のではなく、抑圧と非抑圧の現代を見ているからではないか。
 しばらくこの「眼」に注目しながら、私が惹かれた作品を取り上げてみたい。


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