

サントリー美術館で開催されていた「鈴木其一」展はもう終了してしまったが、この夏秋渓流図屏風と風神雷神図襖の感想をまだ記載していなかった。
本日はこの根津美術館所蔵の「夏秋渓流図屏風」。私は初めて根津美術館でこの作品を見て、初めて鈴木其一という名を知った。左双が秋で桜紅葉である。檜の葉も一部黄色になっている。右双が夏で白百合が咲き誇り、笹の葉が若い。見どころはいっぱいある。
檜の濃い緑と黄、下草や笹の少し薄い緑、渓流の青、基調とした渓流の岩、紅葉した桜らしい葉の紅と黄、ゆりの白と7色しかないにもかかわらず、広い奥深い空間を感じた。
始めは檜の幹と岩肌に描かれた白い縁取りの苔が煩く感じた。カイガラムシや海岸のフジツボを連想させるのであまりいい感じはしなかった。あとでポストカードを見ているうちにこれがなくなったらアクセントのない絵になり、山深い印象が希薄となることに気がついた。同時にこの苔に不思議な魅力を感じるようになった。解説では「妖しい雰囲気を画面に醸し出す」とある。山の精、深山の住む霊気などの象徴かとも思われる。そういえばこの絵には動物は右双の中央の檜幹の上方にいる蝉一匹のみである。
この蝉一匹というのも印象的である。以前に中島清之の作品展を横浜美術館で見た時に、三渓園臨春閣襖絵の牡丹図8枚の内の1枚に小さく描かれたカタツムリ1匹、同じく梅図のリス1匹・小鳥1羽が鑑賞者の視線を弾いていた。琳派を標榜する人の共通する嗜好かともふと感じた。

解説によると円山応挙の「保津川図屏風」、葛飾北斎の「諸国瀧廻り」の影響などが指摘されている。さらに「両隻の中央に身を置いて眺めたときには、自分の方向に勢いよく流れてくるようにしか見えない流水の描き方など、それまでの琳派を逸脱した造形意識も強く感じさせる」と記載されている。
記載のとおりこの作品は、応挙の「保津川図屏風」よりも水の流れが鑑賞者に押し寄せてくるように見えるのは実感できる。この感覚は中央にそして畳に座ってこの絵を眺めるように中腰になって見るといっそう明確になる。
同時にこの低くから見上げる視点が大事だと感じたのは、左双の色づいた葉と右の白百合である。この視点からだと、色づいた葉が目の前に落ちてくるように浮いて見える。目の前に降って来る感覚でもう。わずか4枚の葉が主役のように見える。右に目を転ずると白百合がやはり画面から浮き上がるように見える。だまし絵のように立体感のある作品に変身する。これは上から見下ろしていたのでは実感できない。
できれば展示するときに、もう少し(あと50㎝ほど)上に展示してもらえると、たったままその視点から鑑賞できるのだが、中腰で見るのはつらい。
最初に根津美術館ではこのような見方はしなかった。今回初めてこのことに気がついた。こんな鑑賞ができたことがありがたいと感じた。
他にもいろいろ見どころはあると思われるが、私が印象に残ったことを記してみた。
ところが、4期になったら、赤い枠を視線から見えないように腰を下げても隠れず、どうしたのかな?と思ったら20cmほど高さが上がっていることに気づきました。
参加者の声が寄せられ、微調整が行われたりするようです。そして車いすの方もいらっしゃるので、高すぎる展示はできないそうです。私は高くなって逆に見にくくなったと話したら、いろいろな声があって、そのせめぎあいのところで、高さを決めているらしいです。
しかし、車いすの方への配慮、とても大切なことを失念してしまっていたようです。
確かに展示物を揚げるだけでは、展示スペースの他の要因で逆に見にくくなることもあるでしょうね。
難しい状況であることは理解しました。
また照明の反射のことも考慮しなくてはいけないでしょうから。
ご指摘ありがとうございました。勉強になりました。
そうそう、「両隻の中央に身を置いて・・・」右双左双? 右隻左隻?
さて夏と秋の真ん中という意味です。右に夏、左に秋を見ました。
実は中腰のまま左右に移動しようとしましたが、他の方の鑑賞の妨げになりそうだったことと、膝が痛いので断念しました。
私は「六曲一双の右、左」という意味で右双・左双という表現はあり得ると思っていました。
そのために「隻」と「双」の混在は特に気に留めていませんでした。また右双・左双がすぐに変換できていましたので、気にしていませんでした。
確かに混在というのは変ですね。
解説などの表記をこれから気を付けて見てみたいと思います。
基本的な事項について不勉強の極みですね。
心して記憶することとします。
これからもいろいろ教えてください。