昨年の5月に、俵屋宗達・尾形光琳、酒井抱一の3者の風神雷神図を比較して次のように述べた。

私なりに感じたのは、まず第一に宗達に比べて光琳の絵では雲があまりに濃い。濃すぎるのである。黒が強いことで宗達の絵よりもおどろおどろしさを強調しているようではあるが、風神も雷神も目立たなくなってしまっている。それゆえに動きが伝わってこない。二番目には宗達の雷神に比べて光琳の雷神は下に少し降りてきたので風神と雷神が同一の高さになってしまった。このために雷神の下に降りていこうとする動きと、風神の左に横切ろうとする動きが、屏風の真ん中で交差する緊張感が希薄になってしまった。宗達の絵に比べて光琳の絵は、雷神・風神がそれぞれ今いる場所で地団駄を踏んでいるようにすら見えることがある。それは雷神の眼が下方を見ていないで風神を見ているから余計そのように見える。
抱一はこのふたつのマイナスを復元しようとしたのではないだろうか。まず雲がうすくなり宗達のように軽やかな画面に戻った。雷神・風神とも画面の前面に出てきた。また雷神を少しだけ上にあげた。宗達のように太鼓は画面からはみ出るほどではないが、太鼓が上辺ぎりぎりに戻った。風神の右足は光琳では指が上を向いて足を上げる動作だが、抱一では甲が着地の形になり、前方へのベクトルがより強調されている。ただし雷神の眼は光琳と同じく風神を見つめたままである。だから雷神の下方への動きはそれほど復元はしていない。とはいっても宗達の絵のように雷神が風神を無視するように下を向いているのもおかしいものがある。
このように見ると抱一は、光琳が宗達の絵を装飾的に変えたものを、躍動感を戻そうとしたように見える。
抱一は光琳を尊敬していたが、江戸時代後期という時代の精神の中で光琳を越えようとしてもがいていたと私は感じている。光琳を尊敬しあこがれていただけの模写ではなかったと思える。私はそのもがいた形跡が好きである。一見静かな眼を思わせるがその実、夏秋草図からは激しいエネルギーを感ずることがある。それは光琳の風神雷神図屏風の裏に描いたという行為からうかがえるのではないか。

さて、鈴木其一の風神雷神図襖を今回の「鈴木其一」展で見ていていくつか気がついたことを記してみたい。
まず屏風に貼られていた金箔は襖にはなく、地は白っぽい。
次に横8面の襖絵であるので、両者の目の距離が非常に離れている。これまでは目で比べると屏風2枚分離れているだけであったのに比べると、襖で約5枚分離れている。
また、風神も雷神も身につけているヒレようのものが、それぞれ横に長くたなびている。体も、特に雷神はこれまでの先行した3作品に比べて横に長い姿態である。
また視線は、抱一のように雷神の眼は襖の真ん中の鑑賞者を見ている。雷神は風神を睨んでいる。そして雷神の方へと移動している。雷神はその場で踊っているか、あるいは下降のベクトルを持っている。
両者が乗っている雲はこれまで以上に存在感がある。風神は左足が雲の中に隠れている。あたかも風神が黒い雲の中から出てきたような雰囲気である。また風神の方の雲は、岩にぶつかって砕け散る波のような形状で描かれている。風神の起こす風に煽られている雲である。
風神の雲に比べて雷神の雲の方がわずかに濃い。しかし波のように表現はなく、こちらの雲は動きがない。太鼓の音の強弱に沿っているかのように雲の塊がリズミカルに配置され、それが中央へたなびいている。
雷神の筋肉は抱一の作品よりもさらに隆々として誇張している。特に両腕の筋肉の盛り上がりを示す線は異様なほどで、両足よりも太い。風神の筋肉はあまり抱一とあまり変化はない。彩色では地が金泊が施されていない分、風神の緑色がうすくなっているがそれがかえって風神を浮かび上がらせている。これは成功しているのではないだろうか。
このようにして風神と雷神を比べていくと、其一の作品は抱一の作品を基本的に踏襲している。しかし師の風神雷神図屏風の何らかの発展形とはなっていない。また雲に工夫があるものの、風神・雷神の関係そのものに広い襖にしたことによる新機軸は提出されていないように見える。
襖という左右に広い空間を使って、それでもなお緊張感を持った風神雷神図が出来上がったとは言えない。風神・雷神がより鮮明になり、雲の処理が進展しより動きが感じられると思ったが、それ以上の革新的な変化は起きていない。多分其一はこの作品をもって師である酒井抱一への鎮魂としたのかもしれない、と思った。
もっとよく観察比較すれば、あるいは新しい視点があれば、もっと踏み込んだ感想になったかもしれないが、今の私にはこれが限界だと思う。
ひょっとしたら鈴木其一という人は、動きよりも静的な配置でよりその真価を発揮したともいえる。夏秋渓流図屏風のようにわずか数枚の桜紅葉の葉の落下で秋の深まりを匂わしている。このような微妙な動き・繊細な動きに其一の存在が浮かび上がるのではないだろうか。

私なりに感じたのは、まず第一に宗達に比べて光琳の絵では雲があまりに濃い。濃すぎるのである。黒が強いことで宗達の絵よりもおどろおどろしさを強調しているようではあるが、風神も雷神も目立たなくなってしまっている。それゆえに動きが伝わってこない。二番目には宗達の雷神に比べて光琳の雷神は下に少し降りてきたので風神と雷神が同一の高さになってしまった。このために雷神の下に降りていこうとする動きと、風神の左に横切ろうとする動きが、屏風の真ん中で交差する緊張感が希薄になってしまった。宗達の絵に比べて光琳の絵は、雷神・風神がそれぞれ今いる場所で地団駄を踏んでいるようにすら見えることがある。それは雷神の眼が下方を見ていないで風神を見ているから余計そのように見える。
抱一はこのふたつのマイナスを復元しようとしたのではないだろうか。まず雲がうすくなり宗達のように軽やかな画面に戻った。雷神・風神とも画面の前面に出てきた。また雷神を少しだけ上にあげた。宗達のように太鼓は画面からはみ出るほどではないが、太鼓が上辺ぎりぎりに戻った。風神の右足は光琳では指が上を向いて足を上げる動作だが、抱一では甲が着地の形になり、前方へのベクトルがより強調されている。ただし雷神の眼は光琳と同じく風神を見つめたままである。だから雷神の下方への動きはそれほど復元はしていない。とはいっても宗達の絵のように雷神が風神を無視するように下を向いているのもおかしいものがある。
このように見ると抱一は、光琳が宗達の絵を装飾的に変えたものを、躍動感を戻そうとしたように見える。
抱一は光琳を尊敬していたが、江戸時代後期という時代の精神の中で光琳を越えようとしてもがいていたと私は感じている。光琳を尊敬しあこがれていただけの模写ではなかったと思える。私はそのもがいた形跡が好きである。一見静かな眼を思わせるがその実、夏秋草図からは激しいエネルギーを感ずることがある。それは光琳の風神雷神図屏風の裏に描いたという行為からうかがえるのではないか。

さて、鈴木其一の風神雷神図襖を今回の「鈴木其一」展で見ていていくつか気がついたことを記してみたい。
まず屏風に貼られていた金箔は襖にはなく、地は白っぽい。
次に横8面の襖絵であるので、両者の目の距離が非常に離れている。これまでは目で比べると屏風2枚分離れているだけであったのに比べると、襖で約5枚分離れている。
また、風神も雷神も身につけているヒレようのものが、それぞれ横に長くたなびている。体も、特に雷神はこれまでの先行した3作品に比べて横に長い姿態である。
また視線は、抱一のように雷神の眼は襖の真ん中の鑑賞者を見ている。雷神は風神を睨んでいる。そして雷神の方へと移動している。雷神はその場で踊っているか、あるいは下降のベクトルを持っている。
両者が乗っている雲はこれまで以上に存在感がある。風神は左足が雲の中に隠れている。あたかも風神が黒い雲の中から出てきたような雰囲気である。また風神の方の雲は、岩にぶつかって砕け散る波のような形状で描かれている。風神の起こす風に煽られている雲である。
風神の雲に比べて雷神の雲の方がわずかに濃い。しかし波のように表現はなく、こちらの雲は動きがない。太鼓の音の強弱に沿っているかのように雲の塊がリズミカルに配置され、それが中央へたなびいている。
雷神の筋肉は抱一の作品よりもさらに隆々として誇張している。特に両腕の筋肉の盛り上がりを示す線は異様なほどで、両足よりも太い。風神の筋肉はあまり抱一とあまり変化はない。彩色では地が金泊が施されていない分、風神の緑色がうすくなっているがそれがかえって風神を浮かび上がらせている。これは成功しているのではないだろうか。
このようにして風神と雷神を比べていくと、其一の作品は抱一の作品を基本的に踏襲している。しかし師の風神雷神図屏風の何らかの発展形とはなっていない。また雲に工夫があるものの、風神・雷神の関係そのものに広い襖にしたことによる新機軸は提出されていないように見える。
襖という左右に広い空間を使って、それでもなお緊張感を持った風神雷神図が出来上がったとは言えない。風神・雷神がより鮮明になり、雲の処理が進展しより動きが感じられると思ったが、それ以上の革新的な変化は起きていない。多分其一はこの作品をもって師である酒井抱一への鎮魂としたのかもしれない、と思った。
もっとよく観察比較すれば、あるいは新しい視点があれば、もっと踏み込んだ感想になったかもしれないが、今の私にはこれが限界だと思う。
ひょっとしたら鈴木其一という人は、動きよりも静的な配置でよりその真価を発揮したともいえる。夏秋渓流図屏風のようにわずか数枚の桜紅葉の葉の落下で秋の深まりを匂わしている。このような微妙な動き・繊細な動きに其一の存在が浮かび上がるのではないだろうか。
比較の画像を、紹介させていただきました。https://tabelog.com/rvwr/000183099/diarydtl/145245/ その後、疑問がまだ残ったので、調べてみて判明したことがあります。襖は裏表だとしても、下絵は一枚ものだったようなので、構図に意図することがあるのかも・・・と思い直したりしています。
この解説で引っ掛ったのが「屏風ではなく襖の大画面に移し替えた」という表現。「其一が屏風で描いた作品を、其一自身が襖に作り替えた」と読み取って、その痕跡を実物を見ながら探すということに意識が集中してしまいました。後で私の文章理解が間違っていることに気が付いて、それからこの解説を無視していました。
「雲の表現にポイントを置き」ということ、まったく同意です。
私の結論は少し強引すぎる気もしないでもないので、まだまだこれからいろいろと考えてみたい画家ですね。
貴重なご意見、また私のブログを紹介していただき感謝です。
大変勉強になりました。