★河より掛け声さすらいの終わるその日 金子兜太
★陽の柔わら歩ききれない遠い家 金子兜太
これは金子兜太の最後の9句より末尾の2句。過去と現在、遠い土地と今ここに立つ地平とを自由に句の中に閉じ込めた感のある金子兜太という私の印象からすると、「遠い家」は幼児のときの生家でもあり、そしてもう一つは青春の頃の原体験に基づく「こだわり」とも解釈できる。私は後者にこだわる。金子兜太にとっては戦争という体験をさまざまに捉えて、体験の核となるようなものを作り上げてきた。いつもそこに戻りながら、体験の核となるものを変容させ、拡大し、そして金子兜太流の核を作り上げてきた。
原体験は原体験として過去の記憶に鎮座しているものではなく、時間と体験の累積とともに変わって行く。だからいつまでたってもそこには到達できない。到達できない苛立ちと不達成感に苛まれることすらあったのではないか。同時にそれなしには自分が語れないという親和性もまた強烈である。この二重性のある原体験、これは自覚的にこだわらない限り忘却の彼方に雲散霧消する。
★陽の柔わら歩ききれない遠い家 金子兜太
これは金子兜太の最後の9句より末尾の2句。過去と現在、遠い土地と今ここに立つ地平とを自由に句の中に閉じ込めた感のある金子兜太という私の印象からすると、「遠い家」は幼児のときの生家でもあり、そしてもう一つは青春の頃の原体験に基づく「こだわり」とも解釈できる。私は後者にこだわる。金子兜太にとっては戦争という体験をさまざまに捉えて、体験の核となるようなものを作り上げてきた。いつもそこに戻りながら、体験の核となるものを変容させ、拡大し、そして金子兜太流の核を作り上げてきた。
原体験は原体験として過去の記憶に鎮座しているものではなく、時間と体験の累積とともに変わって行く。だからいつまでたってもそこには到達できない。到達できない苛立ちと不達成感に苛まれることすらあったのではないか。同時にそれなしには自分が語れないという親和性もまた強烈である。この二重性のある原体験、これは自覚的にこだわらない限り忘却の彼方に雲散霧消する。