Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

式典に近寄りたくないまま‥生きてきた

2021年01月11日 23時33分31秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 私は高校卒業以降、〇〇式というものにはあまり縁がなかった。そして私は、成人式、卒業式、入学式、入社式などは一連の儀式として、他人事のように眺めているばかりである。式典というと1972年1月から5月までの濃密な5か月間を思い出す。それが式典というものへの私の原点である。

 大学の入学式がまずなかった。1969年の大学紛争-バリケード闘争の封鎖解除という騒動の影響で、大学側が入学式を中止した。そして当時の学生自治会を握っていた民青系執行部が、「自主入学式」と称して各クラスごとに教室を割り当て、授業の履修カードなどの提出の仕方や必修科目などの若干の説明をした。そしてクラス名簿を誰かが音頭をとって作成したことは覚えているが、それ以外のことは記憶にない。
 大学側もいい加減なもので、履修カードの配布や授業のガイダンスなどその「自主入学式」にまかせっきりであった。必修科目が同一時間帯に組まれていたりして、その対応の仕方も丁寧な説明がなかった。端から我々の学年は大学側に親切な対応はしてもらえなかったことははっきりしている。

 要するに大学側は民青系自治会の執行部を使って、入学式を代行させ、民青系執行部は大学側の代役を買って出て、その影響力を増大させようとする魂胆が見え透いていた。ノンポリに近かった私にもそのもたれあい構造に嫌気がさした。

 入学式がなくなったことについて、クラスの中には「全共闘」系学生への反発もあったが、民青系執行部の学校側へのすり寄りにも嫌気がさした、という級友が多かった。しかし、まさか2年後に今度は私たちが入学式を結果として行わせなかったことを当時は思いもしなかった。

 2年後の1972年1月15日の仙台市の成人式典会場での体験は以前に記した。住民票は仙台市に移していたが、下宿に仙台市からの式典の案内も来なかった。大学側だけでなく、仙台市からも私は存在そのものが歓迎されていないようであった。
 もっとも案内が来ても参加しなかった。背広もワイシャツもネクタイも革靴もない。ジーパンとサンダルと運動靴、長靴しか持ち合わせのない学生は、あの華やかな会場にそぐわない。成人式展の出席率も今ほど高くはなかったのではないだろうか。派手な振り袖や紋付きはやめて、平服で参加しようという運動もあったが、それも私には何かずれていると思えた。
 式典から乳飲み子を抱えて嬉しそうに、誇らしげな顔で友人たちと談笑して出てくる振り袖姿の女性が、たまたま目についた。彼女の現実に、私の参加している学生運動の切実さが、決して届かないことを実感した。そしてそれが届くような社会的な運動にいつかは従事したいとおぼろげながら思った。
 かかわっていた学費値上げに反対する運動がどんな結末になるか、皆目見当もつかなかったが、やれるところまではやりたい、そうすれば何かが見えるかもしれないと考えた。

 成人式というのは、確かに選挙権など主権者としての認知、法律上の責任主体の認知の儀式である。しかし私には本来はあくまでも個的なものに思えてならない。誕生日に個別に成人式を行えばいいのではないか、と思っている。行政や国などが関与すべではないと思う。選挙権や責任主体としての通知は、自治体や国が文書で通知をすれば足りる。成人式に出て、大人としての自覚を新たにした、という優等生的答えは聞いていてもいい感じはしない。中学や高校の同窓生と会うだけならば同窓会でいいはずだ。市長や議員など関係ない。
 こんなことは年寄りのたわごとなので、若い人に意見を求められれば、「若い人なりに行政や政治家とは関係なく、やる必然があるならば、自由にやればいい」とだけ言うことにしている。

 大学に入って、5年たって、就職するために卒業を迎えたが、卒業式もとても行く気がしなかった。就職するために卒業という事実が欲しいだけで、はやく「大学」と縁を切りたかった。引っ越しの準備で忙しかった卒業式とその翌日、友人が学生課からもらってきてくれた卒業証書は、名前が変てこな字体で、到底就職先に提出できない代物であった。
 名前を間違えるなどとは失礼も甚だしい、と今なら怒るが、当時はこれ以上付き合いたくないという思いが極めて強かった。書き直させるのも面倒で、後日郵送で「卒業証明書」を取り寄せて就職先に提出した記憶がある。

 二度とあの大学と関係を持ちたくないと、46年経って69歳になった今でも思っている。当時の教官も、事務職員も、関係者ももういないのはわかっているが、気持ちは離れたままである。片平地区にある大学の歴史を扱った資料館の醜悪な展示をたまたま見て、その気持ちを一層強くした。

 就職先は横浜市だった。4月1日の採用辞令の交付式、異動時の辞令交付式、退職時の辞令交付式も、よそよそしさが先に立ち、他人事のように過ぎ去ってしまった。
 私にはどうしても〇〇式というのは「ひとごと」なのである。

 私のこんな経験が娘にどのように伝わったかは知らないが、娘は娘なりにいろいろ考えたらしい。高校を卒業する前から私は娘に「大学に入ったら学費と生活費の一部は出すが、あとは自分の責任で処理するつもりで20歳に備えろ。一人でアパート暮らしでもしたほうがいい。アルバイトで生活費も稼ぐ経験を積んだほうがいい。20歳までは法律に触れるようなことや、他人との関係で不始末をしても親の責任である。しかし20歳以降は、助言はするがそれ以上のことはあくまでも自分の責任で始末する覚悟をしろ」と伝えたと思う。私の思いが伝わったかどうかは知らない。
 娘は誕生日近くになって、「20歳の誕生日に一度は振り袖を着てみたい」と言い出した。着付けと写真館の手配は、いつも世話になっている親族に娘もつれて依頼に行った。その写真を妻のほうの親族、私のほうの親族に、成人したことのお礼と本人の決意を添えて送付した。親族からは心の籠もった返事をたくさんいただいた。
 結局、娘は成人式には出なかったと記憶している。そうであっても社会的な通過儀礼としての成人式は娘なりにきちんと誕生日を利用して処理したと思う。私としてはいい選択をしてくれた、と思っている。
 口うるさい親父をどのようにして自分の思い通りにことを進めるか、それもひとつの成人への通過儀礼だったのであろう。

 この時期にいつも思うことをいつものようにまとめてみた。



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