一昨日川瀬巴水の人物に対する違和感を書いたが、自分でもうまくまだキチンと表現できていないと反省している。もうひとつ、どんな人物ならばいいのかとも自問自答していた。


比較が適切ではないと思うが、たとえば葛飾北斎の富嶽三十六景は必ず人物の点景が出てくる。人物が主ともいうような絵である。私はこのこのシリーズの人物が気に入っている。


また、歌川広重の東海道五十三次も旅する人物が主であるようにみえる。
実際はどちらも富士や宿場の景色が主題なのだが、いづれも風景と人物が溶け合っている。人物と風景は一体になっている。ひとつのドラマを見るようだ。
一方で、現実の風景をどこかで拒否をして、現実の風景を手がかりに新しい風景を創出しようとしている画家の意欲も感じる。どこかで現実の風景を拒否しているような感じをいつも私は受け取る。現実に対する画家の違和感といったものを受け取るのだ。その違和感が具体的にどのようなものなのかは、まったく見当がつかないけれども。
同時に風景と人物が混然一体となっている時代というものもそれとなく感ずることもある。それを北斎や広重といった画家は彼らの方法で再構成しようとしているのかとも思える。
無論、広重や北斎と、時代もおおいに違う巴水を単純に並べて比較することの無理は承知しているつもりだが‥。近代化という時代が、都市風景や自然風景と、人間の関係を北斎や広重のときとは違って、大きく変えてしまった。巴水という画家はそれを無意識に感じ取ってたじろいでいる、といってしまって、何かをいいおおせたわけではないことは承知をしている。巴水は現実の風景に人を配置することの困難と格闘したようには感ずる。
また、北斎や広重が現実の風景から感じ取ったと私が思う違和感らしきものが何なのかは、まったくわからない。
これ以上、墓穴を掘らないよう、ここら辺でこの論はお終いにしておこう。


比較が適切ではないと思うが、たとえば葛飾北斎の富嶽三十六景は必ず人物の点景が出てくる。人物が主ともいうような絵である。私はこのこのシリーズの人物が気に入っている。


また、歌川広重の東海道五十三次も旅する人物が主であるようにみえる。
実際はどちらも富士や宿場の景色が主題なのだが、いづれも風景と人物が溶け合っている。人物と風景は一体になっている。ひとつのドラマを見るようだ。
一方で、現実の風景をどこかで拒否をして、現実の風景を手がかりに新しい風景を創出しようとしている画家の意欲も感じる。どこかで現実の風景を拒否しているような感じをいつも私は受け取る。現実に対する画家の違和感といったものを受け取るのだ。その違和感が具体的にどのようなものなのかは、まったく見当がつかないけれども。
同時に風景と人物が混然一体となっている時代というものもそれとなく感ずることもある。それを北斎や広重といった画家は彼らの方法で再構成しようとしているのかとも思える。
無論、広重や北斎と、時代もおおいに違う巴水を単純に並べて比較することの無理は承知しているつもりだが‥。近代化という時代が、都市風景や自然風景と、人間の関係を北斎や広重のときとは違って、大きく変えてしまった。巴水という画家はそれを無意識に感じ取ってたじろいでいる、といってしまって、何かをいいおおせたわけではないことは承知をしている。巴水は現実の風景に人を配置することの困難と格闘したようには感ずる。
また、北斎や広重が現実の風景から感じ取ったと私が思う違和感らしきものが何なのかは、まったくわからない。
これ以上、墓穴を掘らないよう、ここら辺でこの論はお終いにしておこう。