昨日6月15日は、樺美智子の忌日。
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
1956年 美智子作
1960年6月15日、安保闘争の最中、衆議院南通用門から国会に突入して警官隊と衝突して死亡。享年22。警察病院の検死では死因は「胸部圧迫及び頭部内出血」。警察は「転倒による圧死」と主張したが、状況的に機動隊による踏み付けないし暴行死であることは確実。
彼女の墓は、多磨霊園にあり、たまたま私の親族の墓も近くにあり、数回訪れたことがある。「最後」は墓誌に刻まれている。
私は1968年、高校2年生のときに横浜の伊勢佐木町の有隣堂で「人しれず微笑まん―樺美智子遺稿集」を立ち読みした。名前と遺稿集のことは知っていたが、目をとおしたのは初めてであった。当時、ちょうど私はチェコスロバキアの「プラハの春」に衝撃を受けていた。立ち読みしたきっかけはこの「プラハの春」だったともいえる。
樺美智子のことは社会から忘れ去られようとしている。私の見聞きした、体験した1960年代・70年代の社会の運動も否定されるような流れの中で忘れ去られようとしている。流れに抗するのもまた、私の生き方であるのだろう。ここに記しておきたい。
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