

紫陽花は好きな花のひとつである。特に濃い紫陽花の花が好みである。青でも赤でも濃い紫の色がいい。理由は特に思い浮かばない。言えることは葉の色がそれなりに濃い緑である。あの葉の色をバックにして咲くからには淡い曖昧な色では埋もれてしまう。
白い紫陽花の花もあることは知っている。確かにあの濃い、暗めの緑の葉の色には白い花は合わないことはない。それでも色をしっかりと主張した花の方が、こと紫陽花に関しては映えると思う。俳句では「濃紫陽花(こあじさい)」という語もある。
紫陽花であるからには、雨にも映えなくてはいけないのだ。白では雨に負けるような気もする。


★あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ 橋本多佳子
この句、手紙は自分が書いた手紙でまだ投函していない手紙なのか、あるいは届いた手紙なのか、ということを議論したことがある。私は自分が書いた手紙だと思っていた。その意見は変わらない。しかし届いた手紙と云われるはまた違った世界が出現するかもしれないと思う。
いづれにしろ、かなり艶めかしい句であることには変わりない。自分で書いて出し渋ったか、恥ずかしいか、もっと控え目にかいた方が良かったか、と逡巡しているうちに、昨日から今日に手紙の相手との関係が、少しずつ移ろってしまうことへの不安やもどかしさを感じる。
貰った手紙とした場合、相手の不実をなんとなく匂わせているようだ。
いづれにしろ、きのうから今日への時間の推移が紫陽花の花の変化としてとらえられないだろうか。紫陽花の花の変化は「色」であると云われるが、気持ちの上ではそんなにゆったりした時間では無いと思う。水に挿しておくとあっという間に花粉がたくさん花の下に落ちる。無駄に落ちる花粉にも早い時間の推移が暗示されていないか。
燃えるような情念の句と私が感じる所以である。そしてこの紫陽花の色は濃い赤紫でなければならないと思う。