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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「最後に、絵を語る。」(辻惟雄)

2025年02月23日 22時25分40秒 | 読書

   

 「最後に、絵を語る。」(辻惟雄、集英社)の第4講「私の好きな絵」の後半部分(東山魁夷の評価部分)と、第5講「辻惟雄×山下裕二 師弟対談」を読み終えた。
 私はどうしても東山魁夷の作品になじめないできた。現在も変わらない。この第4講は辻惟雄の評価を読んで、今後に鑑賞の一助にしたいものである。

実景を丹念に観察しながら、それをまた別のものに変換する画家のマジックというものを痛感させられました。」(第4講)
ナイーブさというものが共通してあります。ナイーブさと同時に写実の力を持っておられるんだけれども、たいてい写実性はあまり出さないで、後ろへしまっておくような感じです。」(第4講)
天候なら薄曇り、光の柔らかい時間帯、あるいは薄暗い夕方などが多いですね。東山魁夷の描く風景は、寒いとまではいかないけれど、ちょっとひんやりするようなところがあります。私は奇想ばかりではなく、そういう表現にもやはり心惹かれるんです。」(第4講)

山下:昨今は、日本美術というと『奇想の系譜』で先生が紹介された画家たちをはじめとする、「奇想」のほうに人気が偏っています。しかしやまと絵や狩野派といった「正統派」という本筋の存在があって「奇想」もあるわけだから、正統派について辻先生の味方をしりたい‥。
辻:『奇想の系譜』のあとがきに、‥奇想のほうが日本美術の主流なんじゃないか、。その言い方は「奇想」の価値を強調するために気負い過ぎた面があるにしても、この本は、それをまたもとへ戻そうとしているんです。
山下:正統派と奇想派の両方あるのが、日本美術のおもしろさなんだと思います。
辻:正統派と奇想派は対立しているわけではないんです。『奇想の系譜』のあとがきでも、奇想については「〈主流〉の中での前衛」という表現をしてました。」(以上第5講)

 第5講については私が書くのはあまりに烏滸がましいのだが、次の視点を私から付け加えてみたい。
 集団や師系の中に正統派、奇想派という人格を一人の人間に当てはめるのではなく、一人の画家の内面で「正統」への志向と、「奇想」への志向の両方の存在すること。あるいは一人の画家の内部での葛藤というものを見る、見つけるという視点を持ちたいと、感じた。


「最後に、絵を語る」第3講

2025年02月14日 21時45分49秒 | 読書

 朝一番で親の通院の付き添い。親と帰宅後、今度は私一人で薬局に処方箋持参で薬をもらい、その足でいつものように横浜駅まで歩いて喫茶店へ。

   

 一昨日に引き続き「辻惟雄 最後に、絵を語る。」(辻惟雄)の第3講「応挙と蘆雪」の後半「蘆雪」に言及した部分を読み終えた。

師匠(応挙)の筆法でもってズバズバと大胆な絵を描く蘆雪は、応挙門下の他の弟子たちとは毛色の違う存在です。高弟ではあっても、やはり「鬼っ子」。奇想の持ち主としての「奇才」であり、鬼の字の「鬼才」でもあったといえます。応挙と蘆雪の師弟関係は、「型」の創造と「型破り」という点で、狩野派における元信と永徳の関係に似ています。

 なるほどと思わせるなかなか面白い把握だと関心。

 帰宅後は退職者会ニュースの原稿づくり。あまり進捗がなかったのが悔やまれている。明日は少しネジを巻いて先に進めたい。


読了「大人のための残酷童話」

2025年02月12日 21時21分09秒 | 読書

 朝のうちは寒かったが夕方以降は風が強くなり気温も上がってきた。現在は風がとても強くなり、北側の窓が煩いほどに鳴っている。本日は欲張った読書タイム。

   

 朝のうちは「大人のための残酷童話」(倉橋由美子、新潮文庫)の最後の1編を読み終わった。ほぼ読み終わっていたが、そのまま忘れてしまっていた。
 全部で26編、あとがきで作者は「これが童話であって小説でないのは、描写を通じて情に訴えるという要素をすっかり棄てて、論理によって想像力を作動させることを狙っている‥。子供にはいささか毒性が強すぎるのと、話の性質上思わずエロティックに傾くことがあった‥。」と記述している。
 ただし、それなりに楽しめた毒であるが、毒が充分に有害な毒であったか、疑問は残った。



 昼食時間を挟んで日経サイエンスの別冊「太陽系新時代 探査機で迫る生命の起源」を読み始めた。第4章の「小惑星」の半分ほどを読み終えた。

    

 昼食後は、いつものとおり横浜駅まで歩き、いつもの喫茶店で「辻惟雄 最後に、絵を語る。」(辻惟雄)の第3講「応挙と蘆雪」の6割ほどを読んだ。辻惟雄の円山応挙評価は初めて目にするが、かなり高い。

応挙の絵は、実際の空間で見ないとわからないものが多い。特に障壁画は、絵画空間と現実空間の連続性ということを非常に重視して描いている。蘆雪や若冲、蕭白の絵の魅力はフラットな図版でも、空間性を重視した応挙の作品の真価は伝わりません。
応挙の功績は、民衆のための絵に対する需要が非常に高まって来た18世紀の京都を舞台に、新旧のさまざまなスタイルを「総合」したということ。江戸時代中期までの日本の伝統に、中国画、西洋画の要素を取り入れて、分かりやすい表現にしていったんです。
(四季の月図など)月と雲と夜の空気、光と闇の関係、こういうものを表現できるのは、近代的としか言い様がない。


読了「もっと知りたい ルドン」

2025年02月11日 22時15分48秒 | 読書

 本日の午前中は自宅にて「もっと知りたい ルドン」(山本敦子外、東京美術)を読み終えた。

 ルドンは好きな作品はいくつもあるが、黒の時代の石版画集の諸作品はどれも惹かれる。
 さらに色彩、特に色彩が溢れて以降の、青を基調とした諸作品に惹かれる。
 《老いた天使》(1875)、《グラン・ブーケ》(1901)の青い花瓶、《オフィーリア》(1905)の青い花弁、《仏陀》(1905)の青い空や遠景の靑等々。さらに《キュクロプス》(1914)なども印象的である。
 今回、《オリヴィエ・サンセールの屏風》(1903)や《ドムシー城衝動装飾画》(1901)をあらためて図版で見たときに、思わず琳派の酒井抱一の諸作品(《秋草図》《秋草鶉図》等)を思い出した。日本美術に傾倒していたピエール・ボナールの影響なども想定される。
 ルドンはモネと同年生まれ。影響を与えた人物、交流のあった人物としてウジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・モロー、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、ステファーヌ・マラルメ、クロード・ドビュッシー、などがいることを知った。断片的に知っていただけではよくわからなかった交友関係の一応の全体像を知ることが出来た。

 2018年の三菱一号館美術館での「ルドン 秘密の花園」展の図録をあらためて眺めてみると、この本で取り上げてあり、今回あらためて認識した諸作品もすでに私は見ていたことになる。
 この図録の解説もさらに丁寧に読んだほうが良さそうである。


   

 


本日より「辻惟雄 最後に、絵を語る。」

2025年02月10日 20時44分07秒 | 読書

   

 本日から読み始めた本は、「辻惟雄 最後に、絵を語る。」(辻惟雄、集英社)。副題は「奇想の美術史家の特別講義」。昨年の8月に発刊されたばかりの本である。
 「奇想の系譜」の著者である辻惟雄が「やまと絵」「狩野派」「応挙」「東山魁夷」を語るという「意外」な内容である。
 第2講のはじめに、著者自身が「東京国立文化財研究所時代に、昼は狩野元信の研究をして、家に帰って「奇想の系譜」の原稿を書くというようなことをしていましたね。奇想のほうは裏稼業であったと(笑)」と語っている。
 そして「はじめに」では「『奇想の系譜』は半世紀以上経った現在も読み継がれているという。信じがたいことだ。いささか心配なのは、伊藤若冲、曽我蕭白その他に人気が集まりすぎて、教師されていた狩野元信、探幽、円山応挙らの影が薄くなってしまったとだ。価値の逆転、古い言葉でいえば本末転倒だ。
 ということで、教科書的な記述とは違うものの、日本絵画史の本流を「奇想」の辻惟雄がどのように語るか楽しみである。「日本の美術の歴史」(辻惟雄)を再読したくなった。

 東横線の横浜・武蔵小杉往復と横浜駅のいつもの喫茶店で読み始めた。第1講を読み終わり、第2講に入った。聞き取りを起こしたものであるが、いつもながら口調は穏やかで滑らか。とても分かりやすい。
 久しぶりに電車の中での読書に挑戦してみた。明るい陽射しで目が疲れて寝てしまうかと思ったが、集中して読むことが出来た。


読了「鬼の研究」

2025年02月09日 21時49分18秒 | 読書

      

 ようやく「鬼の研究」(馬場あき子、ちくま文庫)を読み終えた。たくさんの付箋を貼ったが、ひとつひとつ引用をし、それをつなげて再構成する能力が私にはない。読解不足などは素直に告白すればいいのだが、それすら危うい。

 ということで、終章から少し長いがまとめを引用しておきたい。

反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質であるとすれば、近世の封建的社会体制の確立しゆくかなで、当然、鬼は滅びざるを得ないものであり、そして褒め日たと言えよう。・・・しかし本当に蟹は滅び切ったのだろうか。・・・平安京を見下す山岳部を選挙して、疾風迅速の変化の技をももって怠惰な状況を告発した鬼の族や、信仰の権威とわたり合って堂々の論陣を張り、呪術験方を競った鬼どもの挑発が、いかに末細りになったとはいえ、全く絶滅しつくしたとは考えられない。忍者部落の鉄の規律が、人にして鬼たることの必須の条件として守られたことなどをもってしても、盗人集団がきびしい掟のもとに秘密結社を維持したことをもってしても、日常を保つに必要な人間の規律に数倍する規律だけが、その鬼たる身分を保つ法であったことがわかる。このような形で保たれた鬼の志には単純な利害得失の概念では、はかりがたい偸盗の歴史が埋められていたのではなかろうか。・・・鬼とはやはりひとなのであり、さまざまの理由から〈鬼〉と仮に呼ばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じた・・。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった。」(終章「鬼は滅びたか」)

 また解説の中で谷川健一は次のように記載している。
『鬼の研究』の出版された1971年は私が『魔の系譜』を刊行した。私は拙著のあとがきに次のように書いた。『魔の中に自分があり、自分の中に魔があるという個人的な体験をあじわったものはさいわいなるかな。魔に憑かれている自分を解放したいとおもったり、自分の中にしばられ、とじこめられている魔が、その窮屈な囲いをぬけ出したがって、叫び声をあげるのを聞いたことのなかったものは、本書に無縁である。』私が自分の中に〈魔〉のもどかしい叫び声を聞いたように、馬場さんは自分の中に〈鬼〉を見出した。

 付箋を貼ったところは剥がさずに残しておきたい。再読したい本である。


読書再始動

2025年02月05日 21時41分09秒 | 読書

 本日は親の通院の付き添い。体調の回復が遅ければ、妻に付き添いをお願いしようと思っていたが、さいわいにも充分に回復出来た。
 午後からの通院で、薬局で薬を処方してもらって帰宅したのが16時すぎ。それから地下鉄で横浜駅まで出向いて、親に頼まれたカイロなどを購入。喫茶店で1時間ほどの読書タイムとした。
 読んだ本は読みかけのままにしていた「鬼の研究」(馬場あき子)の再読から。これまで読んだところを少しばかりさかのぼって復習。第4章「天狗への憧れと期待」の第2節「天狗と飛行時間」、第3節「無道の智者」を再読してみた。情けないことに覚えていない箇所がたくさんあった。次回からは第4節「天狗山伏」へ進む。明日以降続きを読み進める予定。
 これまで読んだところまでを読み返したのち、「もっと知りたい」(東京美術)シリーズの「ルドン 生涯と作品 改訂版」(山本敦子)を読み始めた。帰宅後、夕食時間を挟んで60%程を読んだ。



 ルドンはとても惹かれるのだが、生涯も作品背景も充分には理解できていない。私は晩年の色彩の爆発ともいうべきパステル画・油彩画に至る過程などを知りたい。三菱一号館美術館に展示されている《グラン・ブーケ》にはいつも圧倒される。印象派の色彩の把握とは基本的に違っているのではないか。あの色彩がもたらされる意図に触れてみたいと感じてきた。むろん黒の時代の象徴的な作品の意図もおおいに知りたい。
 ルドンの作品は興味の尽きない作品ばかりである。

 


読了「図書2月号」

2025年02月04日 21時19分07秒 | 読書

 

図書2月号を読み終えた。目を通したのは以下の諸編。いつものように覚書。

・[表紙に寄せて]ハロゲンランプ    杉本真維子
行事をたのしめるていどには/へいぼんでいたいものだが/それがもっとも/むつかしい/炬燵のおくふかくまでもぐって/ハロゲンランプのなかにある/国を/じっと見る

・春と旅立ちを待って         佐藤志敦

・チェンニーノ・チェンニーニと
  その「絵画術の書」をめぐって(上)  森田義之
ルネサンス期フィレンツェの顕著な特徴は、それぞれの地区や街区における社会的・経済的な異種混交性であった。都市の中に富裕層だけが居住する地区は存在しなかったし、貧民しか住んでいない地区もなかった。どの地区も大きな邸館と小さな家、織物工房と小売店、、教区聖堂と修道院が入り混じっていた。

・幸せになる能力(たぶん)       森本あんり

・花盛りの庭             奥本大三郎

・海を渡った鎌倉のユリ        入江真理子
 明治・大正期の球根栽培と輸出
明治から日本がユリの球根を大量に輸出していた。・・・(ユリは聖母マリアのアトリビュートとされるが)戦前まで欧米ではユリ球根は栽培できず、輸入が主流であった。産地はシリア、パレスチナ、エジプトなどで、キリスト教発祥地に近い場所から来る高価な花だった。明治半ば球根の輸出が本格的に始まった。日本のユリ、特に白いテッポウユリは欧米でイースターリリーと呼ばれた。・・・明治・大正期の横浜港ではユリ球根が生糸や絹織物、お茶に続く輸出品となり、最盛期には年間約4000万球の球根が海を渡り・・・。明治20年頃、鎌倉群玉縄村や大船村、豊田村(栄区)、三浦村などでヤマユリやテッポウユリ球根の栽培が行われた。

・できごとの場所 水俣、上湾、浅草  大坂紘一郎
表現に必要なのは、展示会場ではない。人びとの声や行動が引き合い、場そのものがものがたりを紡ぎ出す力を持つとき、それが「できごと」を生む原動力となる。・・・くらがりは想像を喚起し、未発の可能性を引き出す。「できごと」が起こるために必要なのは、その情感が押し込められた場所そのものなのである。

・みたことのない景色へ        宮本文昭
小澤征爾さんは常に「完全な理想の完成型」を求めて何度でもトライすることが生きている自分の証明だったのかな、と空想してしまう。

・イスタンブールで聴くイエスタディ  阿部成樹

・子規編輯「古白遺稿」考       復本一郎

・ドイツの中の「日本写真」      結城 円

・グローバル・シェイクスピア     前沢浩子
シェイクスピアはイギリスの誇りとして、この400年間を生き延びてきた。果たしてこれからはどうだろう。・・イギリスの国語としての個別性はどのようにして保たれるのだろか。・・グローバル化した経済と国民国家の文化的ヘゲモニーはどのように交差するのだろうか。厳しい問いを突きつけられながら、シェイクスピアの変容は未来に続いていく。

・二月には厄払い           柳家三三

・不調の波 髪の乱れた女たち     中村佑子

 


読了「系外惑星と太陽系」

2025年02月02日 20時33分46秒 | 読書

   

 夕食後に読書を試みた。「系外惑星と太陽系」(井田茂、岩波新書)を読了。読書の意欲が回復しているか心配したけれども、意外とスムーズに読み進んだ。

 「研究の先端では「地球中心主義」は崩れ去り、「第二の地球探し」というようなフレーズではハビタブル惑星の研究はカバーできなくなっている。・・・「第二の地球発見!」なとという見出しに違和感を感じ、「地球に似ていなければ研究対象、興味の大正として意味がないのか?」「地球中心主義にこだわることで、全体像が見えなくなってしまい、地球の位置づけもみえなくなるのではないか?」などと考えてしまう。・・・実際の研究の現場では「地球中心主義」は崩れ去っているのだあるが、専門の研究者の議論であっても「私の視点」が購入し、それが混乱を招くこともある・・・。」(第5章「系外ハビタプル惑星」)
 「ハビタブル条件を、惑星の質量・軌道、水・炭素・窒素の供給にまで条件を捨象してしまうと、太陽系に似た惑星系である必要も、地球に似た惑星系である必要も、地球に似た惑星である必要もななり、さらには惑星である必要もなくなる。」(終章「惑星から見た、銀河から生命へ」)
 「地球生命は、単一の遺伝暗号、決まった20種類のアミノ酸を使う一系統の生命である。この地球生命というたった一つの礼だけである。だが、系外惑星は、液体の水(海)を持つものでも、その海の携帯や他の大気・気候やプレート・テクトニクス、磁場、中心星紫外線・X線などの表層環境には大きな多様性があるであろう。ハビタブル・ムーンのように惑星でない者も、表面ではなく、地下に海を持つものもあるであろう。」(終章)

 人はどうしても「地球」のシステムや環境にとらわれて、広い視野を見失う。政治の世界も「日本」という枠組こだわって「世界」を見てしまう。「世界」性の視点の確保というのは難しいことなのだろうか。
 まして「地球」という枠組を超えるのは厳しい。木星や土星の衛生にハビタブルな条件が見つかったとしても、地球型生命ばかりに気を取られてしまう。
 飛躍すれば、地動説から天動説への転換が、またも求められる時代に突入しているということか。

 今年「図書」を除く初めての単行本の読了である。少しエンジンをかけて読書時間を確保したい。
 


久しぶりに読書タイム

2025年01月26日 21時47分43秒 | 読書

 本日も午前中は退職者会のリーフレットづくり。本日までの情報で作れるところまでは完了。明日27日(月)に情報を再度精査の上、リーフレットと名札の最終版を作成、28日(火)に我が家で印刷、29日(水)に役員が集まって製本、会場に持込み、2月2日(日)が本番というスケジュールである。100名近い参加者の宴会なので、毎年のこととはいえ、準備は大変である。


   

 午後からは昨日ほどではないものの、遠回りをして横浜駅まで歩いてから、喫茶店で久しぶりに読書タイムを確保。
 リュックに入れたままであった「系外惑星と太陽系」(井田茂)の第4章「地球とは何か?」の半分ほどを読んだ。寝るまでに第4章を読み終えたいものである。

惑星はその場でずっと成長していくのではなく、あちこち動き回るのだという考えに変わった。太陽系の地球型惑星は、0.7~1天文単位の狭い軌道範囲に集中していて、そこから散らばっていったのではないかというアイデアは斬新で、かつ見事に太陽系の地球型惑星の分布を説明する。海王星軌道以遠のカイパーベルト天体群の分布から、海王星は7天文単位以上動いて現在の位置(30天文単位)に到達したようだ。」(第3章「系外惑星系はなぜ多様な姿をしているのか」)
地球はそれ自体がひとつの生命体のようなシステムだと主張するガイア仮説というものがあるくらい精緻な物質・エネルギー循環、気候調節、生命との相互作用による自己調節システムを備えている。・・・だが地球が精巧な自己調節システムを備えるに至ったから生命が生まれたのだろうか?惑星が形成され、生命が生まれて進化していけば、その存在が最適化していくために、結果として、惑星に精巧な自己調節システムか自動的に構築されていくということはないのだろうか?・・・いったん非生物的な代謝サイクルが成立すれば、勝手に必要な有機物が生産されて増殖していくという考えもある。」(第4章「「地球とは何か?」)


 ところで、本日の横浜駅は昨日に続いてとても混雑。いつもの土・日と比べて格段に人が多かったようだ。理由はよくわからない。店のなかよりも通り過ぎる人のほうが圧倒的に多かった。
 また外は日があまり差さず、風も冷たかった。しかしそれでも最高気温が12℃と3月中旬並みの温かさとのことである。
 明日の最高気温の予報は9℃と冷える。

 


読書と添削と・・・

2025年01月15日 21時52分55秒 | 読書

 一昨日に続き「系外惑星と太陽系」(井田茂)をいつもの喫茶店で。「鬼の研究」(馬場あき子)も持参したが、読みやすい方へ気持ちが流れた。
 第2章「太陽系の形成は必然だったか」の第1節「美しい古典的標準モデル」、第2節「円盤から始まった」、第3節「寡占成長モデルの成功と微惑星形成問題」を読み終えた。

 読書のあとは若干のメールチェックをして、ウォーキングをしながら帰宅。
 帰宅後は、退職者会ニュースに掲載する文章の校正。600~800字の原稿を依頼したら4800字近くの原稿が来た。高齢の先輩なので、書き直しを依頼するわけにもいかず、まずは私が添削することにした。しかしこれが難しい。4時間近くもかけてようやく半分の字数にした。これをあと二日ほどでさらに半分以下の700字くらいに縮めないといけない。ため息が出てばかり。
 これも含めて来週月曜日の幹事会に向けて、いくつかの資料の作成、100部ほどのニュース印刷をしなくてはいけない。明日から日曜までの3日間は読書タイムはなしで作業をこなさなくてはいけないが、神奈川大学のみなとみならキャンパスで明日の午前中から始まる美術鑑賞講座にも出かけなくてはならない。慌ただしくなってきた。
 小中学生の頃の夏休み、冬休みの宿題と同じ。どうしても間際にならないとエンジンがかからない。

 今晩から寒くなるという。これより夜のウォーキングを少々。本日の作業はとりあえずこれにて終了。

 


「系外惑星と太陽系」 続き

2025年01月13日 21時30分50秒 | 読書

 第1章の第3節「系外惑星の姿」を読み終え、第2章「太陽系の形成は必然だったか」の第1節「美しい古典的標準モデル」へと読み進んだ。

 第1章の最後に次のような記述があった。
ニュースで゛地球に似た惑星発見!」「第二の地球発見」というものが繰り返されるが・・・ハビタブル・ゾーンの惑星は、惑星環境としては地球からかけ離れたものになっていると予想される。報道はいまだに地球中心主義にとらわれているようだ。かつては、空想の翼を広げていたはずのSF映画は地球中心主義の描写になりがちである。・・・現実の系外惑星研究の発展があまりに急速で、空想の翼を広げていたはずのSF映画ですら、最近では現実に追いついていない。
 未だ天動説から地動説から脱しえないでいる時代を彷彿とさせる指摘である。「想像力の貧困」ということについては、社会全体を見渡せば、おおいに肯けるものがある。

   


「系外惑星と太陽系」

2025年01月12日 21時50分16秒 | 読書

 まだ少々まぶたの腫れと痒みと赤味は残るが、それほど気にはならなくなった。それよりも冷たい空気が目に痛い。本日は8.8℃と9℃に届かなかった。
 午前中は団地の管理組合の諮問機関の会議と団地内の若干の巡回。日がかげってしまい、寒さにふるえて早々に終了した。簡単な作業を考えていたが、中止にした。

    

 本日は横浜駅までいつものように歩いたが、読みかけの「鬼の研究」をリュックに入れるのを忘れてしまった。有隣堂の新書コーナーでたまたま「系外惑星と太陽系」(井田茂、岩波新書)を見つけた。発行は2017年2月。7年前で最新の動向からは少しズレがあるかもしれないが、私にはこれで充分と考えて購入。早速、「はじめに」と第1章「銀河系に惑星は充満している」の第1節「惑星系は普遍的な存在である」を読み終えた。


読了「図書1月号」

2025年01月06日 14時44分19秒 | 読書

   

 ようやく読書をする気になってきた。今月号は一応全編に目を通した。今回は特に気になったものだけをピックアップ。
 表紙は志村ふくみの小裂(こぎれ)。
 「志村ふくみは長い作家人生のなかで織りためた小裂を大切にとっておき、何冊かの小裂帖としてまとめている。今年一年間、『図書』の表紙に小裂が一点ずつ掲載される。小裂は心の断片であり、どんな小さな裂にも心が宿っている。「糸のあわいから、響いては消えてゆくかすかなさざめき」に耳を澄ませていただければ、と心から願っている」(志村昌司、「小裂への想い」)。
 この表紙について、青野暦による[表紙に寄せて]は「our music」はこの表紙の小裂に寄せた詩。100歳を超えた志村ふくみの積み重ねた作品の集成「小裂帖」にある作品に、30代前半の若い詩人がどのような感性を共振させるのか、興味深いところ。しかし若い詩人の感性に私は追いつけなく、かつ理解できるとは到底思えない。
悪い考えを耳に吹き込む悪魔と、暖炉の炎と、談笑しながら、一角獣の背を撫でていた/きみと会えなかった。日の、毛並み、波心地、unicorn、庭、閉じていて‣‣‣」と多分「15世紀末のフランドルで織られた連作タピスリー《貴婦人と一角獣》」の背景の色と呼応している。
 「若き詩人へ」(志村ふくみ)は青野暦の詩への返信。
 さらに「物を物として分析、解明してゆく方向とは逆の、物とは何か、物を物として存在させているものの領域というか、知識や努力では通れない、何か決定的な厳しい関門があるように思われた。」(志村ふくみ、「雪の湖」)が引用されていた。

・富士山とアラビアンナイト(西尾哲夫)
ガランの仏訳「千夜一夜」は1704~1717年にかけて出版された。1704年は1707(宝永四)年に富士山の大噴火が起こった。マロン派キリスト教徒が「アラジンと魔法のランプをガランに語った。宝永大噴火によって日本では農作物の不作がもたらされたが、1708年には当時の中東でも不作と飢饉がつづいたため、マロン派はフランス国王に庇護を求めた。バリも1708年暮れから翌年にかけて大寒波となり、フランス全土で60万人もの死者が出た。大きな気候変動が人間の歴史を変えることがある。1780年代には世界各地で火山の大噴火が起こり、地球全体が長期にわたり異常気象に見舞われた。日本でも浅間山が噴火しで天明の大飢饉が起こったが、フランスでも凶作で民衆の不満が爆発し、1789年のフランス大革命の火蓋が切られた。

・輸入学問としてのシェイクスピア(前沢浩子)
シェイクスピアは翻訳不可能と断言した漱石は、英文学を英国の文学として「批評的」に理論家することを試みる英文学者であり、また日英同盟に沸く日本社会を冷静に描き出す国民作家でもあった

 


「無為を為す」

2024年12月21日 18時24分52秒 | 読書

 退職者会のニュース原稿づくりも終了したので、二人で桜木町まで出かけてみた。風は少し強めでロープウェーは休止。もともと乗る気はないが喫茶店で軽食とコーヒーを注文し、外を眺めて取り留めもない話をして時間を過ごした。

 夕方になり、風が強まり、厚い雲も出てきた。野毛を一瞥してから地下鉄で横浜駅へ。夕食に弁当を購入。
 平日とは違い、16時過ぎのバスはとても混雑。道路も渋滞していた。団地の中の路面が少し濡れており、予報通り雨がわずかだが降ったようだった。

 老子に「為す無きを為し、事無きを事とし、味無きを味わう」という言葉がある。昔はこれだけが独立して教科書にあり、「為るように為る」、「無理な作為は不要」などという解釈が解説本にも載っていた。
 しかしこの先には「難(かた)きを其の易(やす)きにはかり、大なるを其の細(ちい)さきに為す。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細さきより作る。是を以て聖人は、終に大を為さず。故に能(よ)く其の大を為す」と続く。

 要するに「ものごとは大ごとになってから対処するのでは手遅れ、初期のうちに対処しよう」という意味だと教師に教わった(ような気がする)。

 こんな難しそうな話とは無関係な日である。特に難しい局面に遭遇しているわけでも、事前に何かの仕掛けをしたわけではない。エネルギーを費やした「仕事」がひと段落して、のんびりと夫婦で何事も為さずに、時間を経つのを愉しんだ。こんな日があってもいい。