●5月21日(水)
今日は、朝はいろいろと調査して、その後、西村きみ子さんと長浜市に「まちづくり」を視察に行った。
長浜駅について、まず商店街で昼食。その店のオヤジさんに(上の写真)「あんたたち、視察できたの?」と聞かれて「そうですよ^^」と何気なく答えた後、僕が「このお店はここで、長いんですか?」と聞き返すと、オヤジさんの話が止まらなくなった。
「長浜のまちづくりのことを熱っぽく、ずーっと話し始めたのだ」
オヤジさんいわく
「長浜のまちづくりは町衆のまちづくり、行政の押し付けの街づくりと違う!」
「80年代は大規模商店の郊外出展で、商店街中歩き回って、すれ違うのは犬が二匹、人は7人とさびしい限りだった」
「店で待っていても客が来ないから、客のとこまで歩いていって宣伝や出前などでなんとか店をつないでる状況がつづいた」
「ガラスをきっかけにまちづくりを進めてきたが、ガラスになったのは、売れなくても溶かせばまた商品になるから」
「今は、これからの長浜をどうするかが課題」
「町衆の文化は自分だけがよければそれでいいということを許さない文化、だから町のみんなが結束してがんばった。だから、強力な魅力がない長浜でも、まちの活気を取り戻すことができた」
と話を締めくくった。このオヤジさんナカナカのもの、
「この後、行政のおエラいさんの話でも聞くの?そんなの勉強にならないからやめときな」
と悪態をつく始末^^。ある意味、このオヤジさんの講演(?)が聞けただけで「収穫あったな」と思ってしまった(ひそかにメモをとっていたことをオヤジさんは気づいていただろうか)。こういう現場の声がリアルで役立つのだ。
次にNPO「まちづくり役場」の湯口正男さん(写真2枚目の右端)に講義を受けた。湯口さんはまちづくり役場の顧問であり、もと市役所の収入役と行政の立場でまちづくりを見つめてきた方だ。話の概要はさっきのオヤジさんと一緒だが。講義は、戦国武将の豊臣秀吉からはじまる。その後、石田光成が関が原の合戦で敗れた後、長浜の町の上から町民たちを押さえつける権力機構がくずれ、町衆とよばれる12人の代表者が町を治める時代が続いた。幸か不幸か石田光成が長浜で作っていた上から押さえつける権力機構が壊れたことが「自分たちの町のことは、自分たちで決める」という気風を生んだ。このことが「長浜のまちづくり」の成功の一番根っこだという。(さっきのオヤジさんの熱っぽい語りはこういう歴史がつくったものだろうか)
しかし、行政の立場でがんばってきた方だから聞けることもたくさんあった。
「まちづくりの組織を作るときのトップは必ず民間、そのバックで行政が支援」
「初期投資に行政がかかわっても、その後の運営費は行政は一切出さない、もたれあいがおこって自主的な活動にならないから」
「ガラスにしたのは、商店街でほかにやっているとこがなかったからというのが大きい。競合してつぶしあう商品だと商店街の人たちがOKをくれないから」
「行政は金は出しても、口は出すなが基本でやってきた」
とあくまで町民が中心で、行政は側面支援に徹してきたことを強調。
「まちの区画整理など大規模な公共事業を行ったことは?」
との質問に、湯口さんは
「ありません」と即答。
「昔、広い道を作る計画があったけど、今から考えれば、『やらなくてよかった』と痛感してます」と。
「行政で仕事してきた私が言っちゃいけないんだけど」
とワンクッションおいて
「そもそも行政が主導で商売やっても上手くいきませんから」といってしまうとこがスゴイ。
湯口さんも店のオヤジさんもまったく同じ言葉を使った一節があった。
「長浜はなんにもないでしょ」
寂れた商店街を建て直し、年間200万人が訪れるまちづくりを担ってきた人たちの共通理解なのだと感じた。
「『何か』があったからまちづくりが成功したんじゃない。みんなで手を取り合って、みんなで悩んで、みんなで苦労して、まちににぎわいをとりもどそうと、みんなで本気でがんばったから『今がある』」
そんな自負が「なんにもないでしょ」の一言の裏に隠れている気がした。
(下が長浜の町の写真)
今日の視察は、僕たち日本共産党議員団としては、「福井市の再開発ビル」をはじめとする「『公共事業ありき』のまちづくりで本当にいのか?」「まちのにぎわいづくりに本当に必要なものは何か?」という問いの答えを探すための視察だった。
お目当てのものは見つかりました。形のないものだから見過ごしそうになってしまいました。
きみ子さんが何気なく「人のぬくもりがある町ですね。気取らないこの雰囲気に、なんだかホッとします。」と言うとしゃべりつづけていたオヤジさんが少し嬉しそうだった。
夕方、福井に帰って生活相談に向かう。その後、夜は会議。日記更新して寝ま~す^^☆
今日は、朝はいろいろと調査して、その後、西村きみ子さんと長浜市に「まちづくり」を視察に行った。
長浜駅について、まず商店街で昼食。その店のオヤジさんに(上の写真)「あんたたち、視察できたの?」と聞かれて「そうですよ^^」と何気なく答えた後、僕が「このお店はここで、長いんですか?」と聞き返すと、オヤジさんの話が止まらなくなった。
「長浜のまちづくりのことを熱っぽく、ずーっと話し始めたのだ」
オヤジさんいわく
「長浜のまちづくりは町衆のまちづくり、行政の押し付けの街づくりと違う!」
「80年代は大規模商店の郊外出展で、商店街中歩き回って、すれ違うのは犬が二匹、人は7人とさびしい限りだった」
「店で待っていても客が来ないから、客のとこまで歩いていって宣伝や出前などでなんとか店をつないでる状況がつづいた」
「ガラスをきっかけにまちづくりを進めてきたが、ガラスになったのは、売れなくても溶かせばまた商品になるから」
「今は、これからの長浜をどうするかが課題」
「町衆の文化は自分だけがよければそれでいいということを許さない文化、だから町のみんなが結束してがんばった。だから、強力な魅力がない長浜でも、まちの活気を取り戻すことができた」
と話を締めくくった。このオヤジさんナカナカのもの、
「この後、行政のおエラいさんの話でも聞くの?そんなの勉強にならないからやめときな」
と悪態をつく始末^^。ある意味、このオヤジさんの講演(?)が聞けただけで「収穫あったな」と思ってしまった(ひそかにメモをとっていたことをオヤジさんは気づいていただろうか)。こういう現場の声がリアルで役立つのだ。
次にNPO「まちづくり役場」の湯口正男さん(写真2枚目の右端)に講義を受けた。湯口さんはまちづくり役場の顧問であり、もと市役所の収入役と行政の立場でまちづくりを見つめてきた方だ。話の概要はさっきのオヤジさんと一緒だが。講義は、戦国武将の豊臣秀吉からはじまる。その後、石田光成が関が原の合戦で敗れた後、長浜の町の上から町民たちを押さえつける権力機構がくずれ、町衆とよばれる12人の代表者が町を治める時代が続いた。幸か不幸か石田光成が長浜で作っていた上から押さえつける権力機構が壊れたことが「自分たちの町のことは、自分たちで決める」という気風を生んだ。このことが「長浜のまちづくり」の成功の一番根っこだという。(さっきのオヤジさんの熱っぽい語りはこういう歴史がつくったものだろうか)
しかし、行政の立場でがんばってきた方だから聞けることもたくさんあった。
「まちづくりの組織を作るときのトップは必ず民間、そのバックで行政が支援」
「初期投資に行政がかかわっても、その後の運営費は行政は一切出さない、もたれあいがおこって自主的な活動にならないから」
「ガラスにしたのは、商店街でほかにやっているとこがなかったからというのが大きい。競合してつぶしあう商品だと商店街の人たちがOKをくれないから」
「行政は金は出しても、口は出すなが基本でやってきた」
とあくまで町民が中心で、行政は側面支援に徹してきたことを強調。
「まちの区画整理など大規模な公共事業を行ったことは?」
との質問に、湯口さんは
「ありません」と即答。
「昔、広い道を作る計画があったけど、今から考えれば、『やらなくてよかった』と痛感してます」と。
「行政で仕事してきた私が言っちゃいけないんだけど」
とワンクッションおいて
「そもそも行政が主導で商売やっても上手くいきませんから」といってしまうとこがスゴイ。
湯口さんも店のオヤジさんもまったく同じ言葉を使った一節があった。
「長浜はなんにもないでしょ」
寂れた商店街を建て直し、年間200万人が訪れるまちづくりを担ってきた人たちの共通理解なのだと感じた。
「『何か』があったからまちづくりが成功したんじゃない。みんなで手を取り合って、みんなで悩んで、みんなで苦労して、まちににぎわいをとりもどそうと、みんなで本気でがんばったから『今がある』」
そんな自負が「なんにもないでしょ」の一言の裏に隠れている気がした。
(下が長浜の町の写真)
今日の視察は、僕たち日本共産党議員団としては、「福井市の再開発ビル」をはじめとする「『公共事業ありき』のまちづくりで本当にいのか?」「まちのにぎわいづくりに本当に必要なものは何か?」という問いの答えを探すための視察だった。
お目当てのものは見つかりました。形のないものだから見過ごしそうになってしまいました。
きみ子さんが何気なく「人のぬくもりがある町ですね。気取らないこの雰囲気に、なんだかホッとします。」と言うとしゃべりつづけていたオヤジさんが少し嬉しそうだった。
夕方、福井に帰って生活相談に向かう。その後、夜は会議。日記更新して寝ま~す^^☆