十河城跡にたつ 称念寺副住職のブログ

高松市十川東町 浄土宗、称念寺の日常の様子や行事の紹介です。時々、十河城跡に関係することも書きたいと思います。 

南海教区布教師会研修会がありました

2024年01月23日 | 日記
 今日は極寒の一日でした。

 午前中、本堂で49日法要を勤め、雪が舞う中お墓に納骨しました。

 高齢のご兄弟が県外からも参られ、姉弟3人が揃う中、お兄様の供養をされました。

 午後からは、まんのうの西念寺様での研修に参加しました。


法然上人ゆかりの寺 西念寺様の本堂です

 研修の中で、お檀家様と一緒に30分ほどの別時念仏をしました。

 帰りに南の山を見ると、雪で白くなっていました。まだまだこの寒さは続くようです。

 明日は、称念寺でも別時会(本堂 13:30~)・写経会(座敷 14:00ごろ~)を勤めます。

 どなたも参加できます。どうぞお待ちしております。

開花しました 梅の花

2024年01月22日 | 花の寺

青空の下、やっと開花しました

 今日はお天気が良く、温かい一日でした。

 ここのところ、温かいとキジが姿を見せたり、ヒバリがさえずったりしています。

 明日から寒波到来らしいので、今日は一日外仕事に精を出しました。


スイセンが見頃です

 午後から七日参りに、初めての家に伺いました。故人のご両親、両祖父母とお念仏をおとなえしました。

 七日参りで、法然上人のお念仏のみ教えをできるだけお伝えしていきたいと思います。

称念寺の阿弥陀様(3)

2024年01月21日 | 日記
称念寺の阿弥陀様(3)

 時が330年ほどたった戦国時代、念仏の教えを伝えるため全国を廻っていた、称念という僧がこの地に来ました。称念はこの阿弥陀様がただ物では無いと感じ、村人に由来を聞くと、住蓮房ゆかりの仏様だと言うではありませんか。そこで、十河氏やご家来衆を檀那に、十河城下におまつりするための庵を建てました。場所はここより少し東側の低いところです。多くの信者が集まり、阿弥陀様の前でお念仏をするようになりました。
 しかし、天正10年にあの長曾我部との戦が始まります。伊予の国(愛媛県)も阿波の国(徳島県)も長曾我部に襲われ、多くの寺社が焼かれ、国を奪われています。讃岐でも次々と長曾我部に降伏・敗戦し、とうとう十河城だけが残ることになりました。四国全てが敵の状況です。想像しても恐ろしいです。
 頼みの綱の織田信長が本能寺で殺されてしまい、援軍は全然来ません。2年たっても戦況は膠着したままです。皆どんな思いで阿弥陀様の前でお念仏していたのでしょうか。
 いよいよ戦が激しくなる時、阿弥陀様をお守りしていた、庵主・里人は井戸の中に阿弥陀様を隠し、壊され焼かれることを防ぎました。ちょうど豊臣秀吉と徳川家康が小牧長久手で戦っている時、城内の人々の奮戦虚しく十河城は落城してしまいます。田畑は荒らされ、家は焼かれ、城方・土佐方共に多くの戦死者が出ました。けれども、もう戦は終わりました。
 残された者は次のお盆の前、7日に井戸から阿弥陀様を引き上げ、ご先祖様の供養と共に亡くなった方々の冥福を願いお念仏したのです。この7日のお参りは平成の終わり頃まで、お盆前の7日に夏まいりとしておこなってきました。称念寺の「なのかび」という縁日で、信徒以外の人も出店を楽しむ行事だったこともあるそうです。ただ、現在は暑すぎることから7月の休日に移しています。
 戦乱で失われることはなかった仏様ですが、水に浸かっていたので、塗は剥げ木地も傷んでしまいました。庵主は寄付を集め、阿弥陀様を修復することにしました。ようやくお金が集まり修復しようとしていたある晩、庵主専誉道順が寝ていると、泥棒がお布施や供物を狙って侵入してきました。すっかり寝込んでいる庵主は気付きません。すると、「道順!道順!」と呼ぶ声が聞こえます。道順が目を覚ましたので、泥棒は何も盗らずに逃げていきました。誰が起こしてくれたのだろうと、周りを見ても誰もいません。道順は阿弥陀様が起こしてくださったのに違いないと、この不思議を喜びました。こうして、阿弥陀様は修復され、新しい堂に安置しなおされ、皆の心のより所となりました。
 江戸時代になり、本堂を城跡に移してからは、現在に至るまでだいたいこの場所で過ごしておられます。
 ただもう一回、この阿弥陀様には危機がおとずれました。それは太平洋戦争のときです。昭和20年になるとアメリカ軍の飛行機が毎日昼夜問わずに飛来し、機銃掃射・爆弾投下・焼夷弾による絨毯爆撃されました。この辺りは、点々と並んだため池の水面の反射が目印にできるので、飛行ルートになっていたそうです。余った爆弾をルート上の軍事物のない所に落とされ、ただ歩いていただけの子供が機銃掃射されるようなことは一度や二度ではありません。数年前に建て替えられた本堂も、漆喰の壁が白く光って目標にされてはいけないと、墨でベタベタと汚しました。本尊様も本堂の蓮華座から前机に降ろされ、腰ひもを胴にかけた状態で安置されました。空襲警報が鳴ると、小学生だった現住職が背負って、防空壕に避難しやすくするためです。警報が解除されるとすぐに本堂に安置しなおしました。なぜなら、夫や子供が戦死しても人前で泣けない時代です。そっと本堂に入り阿弥陀様の前でお念仏する人が多かったからです。無事の願いを込めた紙を木魚の中に忍ばせる方もいました。阿弥陀様はその姿をじっと見ておられたのです。
 この地に来られて800年以上、称念寺の阿弥陀様は今もここに居られます。これから先も守っていかねばなりません。
 阿弥陀様が私たちを見守ってくださっているのですから。(終わり)

称念寺の阿弥陀様(2)

2024年01月20日 | 日記

くーちゃん 服を着せられるのも慣れてきました

 今日は雨が降ったりやんだり、次第に寒くなりました。

 来週の天気予報を見ると、気温が一気に下がりそうです。

 研修会や法事、別時念仏会・写経会など行事があるので心配です。

称念寺の阿弥陀様(2)

 都に帰ってきた上皇は激怒しました。ただでさえ、古くからの仏教寺院に所属する僧たちから、法然上人の布教を止めろとか、法然上人のもとに集まっている僧たちは偽物だから捕まえてしまえとか、訴えられていたところにこの事件です。当然、住蓮・安楽は捕まえられてしまいました。それだけではなく、以前から布教内容がおもわしく無いとされていた者や、堂々と妻帯している者も捕縛されました。親鸞聖人が流されたのもこの時です。師の法然上人もお坊さんの資格を取り上げられ、藤井元彦という名前にされ、土佐(高知県)に流されることになりました。九条兼実様が一生懸命嘆願して、土佐よりは近い讃岐になりましたが、高齢のお上人様が遠路讃岐の満濃辺りまで、罪人として送られたのです。安楽房は京の六条河原(京都)で、住蓮房は近江の馬渕(滋賀県)で首を切られてしまいました。
 時をもどします。住蓮房が讃岐国山田郡を去った後も、この地の人々は阿弥陀様をおまつりし、お念仏の信仰を続けていました。当時の人たちのことを考えてみましょう。
 ありがたい教えを伝えてくださった、住蓮様の身の上に起きたことを伝え聞いた時の驚き。
 同じ国内に法然上人がお越しになり、お会いできるかもしれないと知った時の喜び。
 そのお上人様が都に帰られるときの別れのつらさ。
 法然上人一周忌の結縁交名に協力を呼びかけられた時の気持ち。
 想像してみてください。(続く)

ヤブツバキの花

2024年01月19日 | 花の寺
 「今年は、スイセンやツバキの開花が遅いですね。」と月参りでお話ししていたら、

 境内で落ちているツバキの花を見つけました。


知らないうちに開いていたようです

 堅かった蕾も色づいてきています。

 昨年秋の寺ギャラの際、当山の本尊の説明に使用した文章を紹介します。長いので、3回に分けてのせます。

称念寺の阿弥陀様
 まずは鎌倉時代初期の話です。浄土宗の開祖、法然上人は60歳代からマラリアに悩まされ、65歳の時には死を覚悟しました。幸いに徐々に回復しましたが、熱心な信者の前関白、九条兼実様は法然上人に何かあると教えが正しく伝わらないと心配し、法然上人が回復したのを見て、教えを書き残すことをお願いしました。お上人も、一時は死を覚悟し遺言を残した程だったので、思うところがあったのでしょう。『選擇本願念佛集』を口述し弟子に書き取らせました。
 『選擇本願念佛集』は、誰にでも見せる教本として作られた物ではありません。内容を正しく理解することのできる弟子のみに筆写を許す、大切な本として扱われていました。しかし、内容を知りたいと思う人たちから、正しい教えを聞きたいという要望があげられてきました。都の人だけではありません。都以外の地でも、法然上人の教)えを求める人が多くなっていました。書き上げた翌年には伊予(愛媛県)の豪族から要請を受け、弟子の聖光房弁長を故郷に帰る途中に立ち寄らせたり、同じく安楽房遵西を鎌倉に使わせたりと、全国に弟子を送り出したことが書き残されています。
 称念寺に伝えられている話では、そのころ(正治年間)京から弟子のひとりだった住蓮房が阿弥陀如来座像を背負い讃岐の山田に来て、布教したとされています。この地には景行天皇の皇子、神櫛王の末裔の豪族が住んでいます。今のサンメッセの場所には吉國寺という大きなお寺もありました。おそらく、その人たちが教えを求めたのかも知れません。住蓮房はしばらくこの地で布教した後、阿弥陀様を残して京に帰っていきました。鎌倉時代の山田の人たちも阿弥陀様の前でお念仏をしていたのですね。
 この住蓮房という人は、法然上人の弟子の中でも、安楽房遵西と共に美声のお坊さんとして有名でした。お念仏の声も美しいですが、善導大師が書かれた礼讃に節をつけて誦読する声明に優れていました。住蓮・安楽の別時・六時礼讃会をわざわざ聞きに来る人が多く、聞いた人たちは特別な宗教体験ができたと泣いて歓ぶほどでした。今)でいうアイドルのような人気で、特に女性がこぞってお参りに詰めかけました。法然上人は旧仏教側から白眼視されることや、声明がお念仏から見ると余行なので、偏ってはいけないと諫めていました。しかし、多くの人に布教できる機会なので、二人は止めることなく礼讃会を続けていた時に事件起こります。
それは、後鳥羽上皇のお気に入りの女官二人を、上皇の留守に、上皇の許可なく出家させたことです。(続く)