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伊東良徳の超乱読読書日記

はてなブログに引っ越しました→https://shomin-law.hatenablog.com/

タマラ・ド・レンピッカ

2010-02-07 22:54:07 | 人文・社会科学系
 1920年代のパリで時代の寵児となったポーランド出身の女性画家タマラ・ド・レンピッカの解説付き画集。
 自分の個性についてとやかく言われることを嫌い日記や手紙類の記録資料を残さなかったため伝記が書かれなかったというタマラ・ド・レンピッカについて、娘のキゼットが書いた本などを材料に解説をしています。
 社交界への取り入りと唯我独尊的な発言は、人間的には私の好みとは反対ですが、1920年代の肖像画作品には輝きがあります。
 タマラ・ド・レンピッカの作品は、肖像画が中心で、古典派のアングルとキュビズムがミックスされたような画風です。キュビズムの採用は肖像部分では初期に軽くなされているだけで主として背景部分で用いられていますので、キュビズムの嫌いな人にもあまり嫌われない絵になっています。金儲けのために短期間に多作したということと表裏しているかもしれませんが、シンプルな色づかいとシンプルな力強く美しい曲面表現が特徴的です。また透き通るような眼差しも印象的で、現代のイラストに通じるものがあります。


原題:Tamara de Lempicka
シュテファニー・ペンク 訳:水沢勉
岩波アート・ライブラリー 2009年11月19日発行 (原書は2004年)
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「やるっきゃない!」 吉武輝子が聞く土井たか子の人生

2010-02-07 00:18:36 | ノンフィクション
 サブタイトル「吉武輝子が聞く土井たか子の人生」通りの対談本。
 子ども時代の軍国少女経験と空襲で命からがら逃げ延びた話が、割と淡々と語られているのがかえって印象的でした。そうした体験が反戦と護憲、とりわけ憲法第9条への思いにつながっているはずですが、それを大上段に語らないところが人柄を感じさせます。
 インタビュアーの志向もあって憲法第9条よりも第14条、第24条の方に力が入っていますが、これも教条的な話でなく、人が語られていて、いい感じで読めました。
 政治家になってからの話は、いろいろ差し障りがあるのでしょうけれど、今だから話せるというような話はほとんどなくて、すでに知られていることが大半で、そこはちょっと残念。
 学生の時に学費値上げ闘争で試験ボイコットの全学ストライキに、そういう闘争は負ける、足並みをそろえてボイコットなんてできっこないと反対し、しかし決定された以上自分はボイコットして単位を落とした(67~68ページ)というエピソードには、学生の頃でも冷静で読めているけど律儀な人だったんだなぁと感心しました。
 そういう来歴への関心で読む本かなと思います。


土井たか子、吉武輝子 パド・ウィメンズ・オフィス 2009年11月24日発行
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男性学の新展開

2010-02-05 23:39:13 | 人文・社会科学系
 男性/女性を抑圧者/被抑圧者と単純に捉えたり、男性の問題を男性の制度的特権と男性性の代償(男性の払う犠牲)のいずれを強調するかといった2項対立的に捉えることに対して、男性性の多様性、複数性の概念を導入すべきことを提唱する研究論文。
 社会的に構築された性ないし性別役割としてのジェンダーが強固に存在し続けるのは、あるべき男性像、あるべき男女関係としてのモデルのイメージが人々に自主的に選択されているからであり、人々に支持されるあるべき男性像は、現代日本社会では「サーヴィス化・消費社会化とフェミニズムの攻勢を受け止めて手直しされたアッパー・ミドルクラス(専門職・管理職)の男性像」(60ページ)であり、さらには「フルタイム労働に従事しながら妻子を養う男性像」(157~158ページ)だという。著者は欧米の研究者が提唱する「ヘゲモニックな男性性」の概念でこれを説明し、このようなヘゲモニックな男性性はそれ自体で確立するのではなくそれに反する男性性の否定によって確立され、そのために覇権的でない周辺的な男性性が併存することが前提となり、複数形としての男性性を理解することが必要としています。欧米の研究者の間では異性愛男性がヘゲモニックな男性性と捉えられ、同性愛男性が否定される従属的男性性と位置づけられるが、日本では働けない/働かない男性としてのニートやパラサイトシングル、そしてオタクが否定される従属的男性性となると著者は論じています。
 オタクやニートを個人的な問題として否定的に捉えることが働けない状態を生じさせた側(企業の新規雇用抑制)の問題を隠蔽しているという指摘(86ページ)は頷けます。
 ただ、読み終えての感想としては、気負ったタイトルと大仰な第1章・第2章の問題提起の割には、言いたいことはそれだけかと思ってしまいます。学者さんの論文にはありがちですが。


田中俊之 青弓社 2009年12月19日発行
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イギリス東インド会社 軍隊・官僚・総督

2010-02-04 22:32:03 | 人文・社会科学系
 17世紀から19世紀にかけてイギリスのインド支配とアジア貿易を担った東インド会社の興亡を通史的に記述した歴史書。
 東インド会社の当初の目的であったアジア貿易の観点でも、最初は香料貿易を目指していたがオランダに駆逐されてインドに転進しインドの綿・絹製品を輸入し、イギリスの繊維業者の反発を受け、またイギリスには魅力的な輸出品がなく(中国との関係でも同じで阿片を売りつけていたわけですし)貿易は赤字が続いたなどの経緯は、産業革命でイギリスが綿織物輸出国になり後には紬車がガンジーのスワデシ(国産品愛用運動)の象徴となったようにインドが綿織物業者の保護を打ち出さなければならなくなったことを考えると、興味深いところです。
 そして一民間会社である東インド会社が国王からアジアでは戦争の権限を与えられて傭兵による軍隊を持ち領土を獲得しベンガルの徴税権まで獲得したこと、東インド会社の戦争はインド人傭兵によってインドの藩主国などの勢力との間で行われたこと、東インド会社の株主の4分の1がライバル国のオランダ人だった時期もあること(78ページ)など、改めて国家という単位やその存在は自明の前提というわけではないことを考えさせられます。現代でも、戦争請負会社など似たような多国籍企業が暗躍しているわけで、国家とその権力をアプリオリに前提とすること自体が幻想なのかもしれません。
 そしてその東インド会社を財政難の救済を契機に規制して支配下に置こうとする国王と議会、政府の規制を受けつつ国王と議会の対立を利用して特権の維持を図る東インド会社役員会や現地官僚たちの確執も、興味深く読めます。
 著者は、現在のインドの発展はイギリスが残したインフラや官僚等の育成に負うところが大きいという立場から、イギリス支配の正の遺産を評価し直すべきという考えを「はじめに」で明らかにしています。植民地支配は正しかったというわけです。しかし、そういう考えであれば、イギリスの植民政策が現在のインドにどのように影響しているか、またそれをインドの人々がどのように評価しているかに言及があってしかるべきですが、この本にはそういう記述はほとんど見えず、イギリス本国の政府や世論、東インド会社内の動向の記述がほとんどを占め、視点は明らかにイギリスにばかり向けられています。インド民衆の側を向いていない著者にイギリスの支配はインドのためになったと言われても、素直にはうなずけないのですが。


浜渦哲雄 中央公論新社 2009年12月10日発行
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なぜ無実の人が自白するのか DNA鑑定は告発する

2010-02-03 00:12:31 | 人文・社会科学系
 アメリカで1970年代以降になされた自白で後に虚偽であったこと、つまり自白者が無実であることが証明された125例について分析した研究論文とその著者らによる名張毒ブドウ酒事件第7次再審請求特別抗告審(最高裁)に提出された意見書を合冊した本。
 ここで取りあげられた事例は、犯罪そのものが発生していないことが客観的に立証された、被告人が犯罪を犯すことが物理的に不可能(完全なアリバイ:事件の時刑務所に拘禁されていたなど)、真犯人が突き止められかつ真犯人の有罪が客観的に立証された、科学的証拠(最近ではDNA鑑定が多い)により被告人の無実が立証されたの4パターンのものに限定されています(39~40ページ)。
 そのように客観的には無実の者が犯行を自白した例が、少なくとも現実に125例明らかになっていること自体、恐るべきことです。このこと自体で、罪を犯していない者がやってもいない犯罪を自白するはずがないという、検察官や裁判官そしてマスコミと一般人がことあるごとにいうことが誤りであることが明確に示されています。
 アメリカではロースクール内の「イノセンス・プロジェクト」が冤罪を訴える囚人のうちDNA鑑定により無実の証明ができる事件を受けて捜査機関が保管しているサンプルにアクセスしてDNA鑑定を行い冤罪を明らかにし続け(4ページ)2004年の論文執筆時点で有罪判決を受けて服役していた受刑者がDNA鑑定の結果無実と判明して釈放された事例が140に上り(24ページ)、2008年の意見書執筆時点では211そのうち死刑囚だけで124人に及んでいるそうです(151ページ)。他方、日本では、民間人が捜査機関が保管するサンプルにアクセスすることなどできず、このような試みは行われていません。同じことが日本で行われたら一体どれだけの無実の死刑囚・服役囚が判明するでしょうか。
 この論文では、無実の人が自白した原因の考察の中で警察の取調時間に触れて次のように述べています。「虚偽自白者の80%以上が6時間以上の取調べを受け、50%が24時間以上の取調べを受けている。取調べの平均時間は16.3時間であり、取調べ時間の中央値が12時間である。この数字はとりわけ、米国における日常的な警察の取調べの研究と比較すると衝撃を受ける。それらの研究によれば、通常の取調べの90%以上は2時間以内に終了している」(52ページ)。このような記述を見ると、日本の弁護士としてはそれこそ衝撃を受けます。日本では軽い犯罪でも逮捕すれば20日あまりの拘束が認められ、重罪事件では、例えば殺人事件は殺人と死体遺棄に分けるなどして何度も逮捕して1か月以上拘束して取り調べることが日常的に行われていますし、重罪事件で取調が6時間未満で済むことなどおよそ考えられません。名張毒ブドウ酒事件の再審開始決定を取り消した名古屋高裁刑事2部の決定は6日間49時間の取調を比較的短いと述べ無実の被疑者であればそのようなストレスのない取調で自白することはないと判断しています(157ページ)。日本の法律と司法の実際の運用が許している取調時間は、無実の者にも虚偽の自白をさせるに十分すぎるものということを意味しているわけです。そういう点を明らかにしているだけでも極めて注目すべき研究というべきでしょう。
 ただ、私はこの論文で2点違和感を持ちました。1つは、この論文が、取りあげられた事例のうち有罪判決が出されたものは客観的には虚偽の自白以外にそれを補強する証拠がないのに有罪判決が出されていると何度も指摘していることです(56ページ、64ページ等)。この論文では被告人の無実が立証されたケースを分析していますが、補強証拠として何があるかは少なくとも論文上は全く分析検討されていません。もちろんほとんど補強証拠がない事案もあったでしょうけれども、それを統計的にそうだという論拠は全く示されていません。実質的な補強証拠もないのにということは、裁判の判断者が自白に影響されやすい・自白に依存していることを示す方向です。しかし、私はむしろ客観的には無実である者の虚偽自白に裁判時には正しいと思える信用性のあると見えた補強証拠があったとしたら、それがどのように作られたかも含め、そっちの方がもっと深刻だと思います。それを考えれば、十分な根拠・検証なく、補強証拠がなかったと断じて欲しくない。
 2つめは、虚偽自白の圧倒的多数が殺人(81%)・強姦(9%)等の重罪事件に集中しているとしている(50~51ページ)ことです。確かに重罪事件では解決のプレッシャーを受けた捜査機関の焦りが虚偽自白を生みやすいという事情はあるでしょう。しかし、DNA鑑定で無実を立証できるということが事件の性質と捜査機関がサンプルを保管している可能性から考えて殺人・強姦に偏らざるを得ないこと、イノセンスプロジェクトが活動するのも重罪事犯だからこそそこまでやろうという気持ちが出てくることからすれば、そういった活動で無実を立証できた事件が最初から殺人・強姦事件に偏っていると考えられるわけです。重罪事件で無実の者がこんなに虚偽自白をさせられたという事実は重要ですが、研究対象の中で殺人事件が何%という数字はあまり意味がないように思えます。
 そういう研究としての疑問はないではないですが、全体としてはとてもいい問題提起で、ぜひ多数の人に読んでもらいたい本だと思います。


原題:THE PROBLEM OF FALSE CONFESSIONS IN THE POST-DNA WORLD
スティーヴン・A・ドリズィン、リチャード・A・レオ 訳:伊藤和子
日本評論社 2008年12月15日発行 (原書は2004年)
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シュガー&スパイス

2010-02-01 00:14:27 | 小説
 古ぼけたマンションの最上階にある知る人ぞ知るフランス菓子の名店「パティスリー・ルージュ」を舞台に見習い職人永井晴香が凄腕のシェフ・パティシエの柳原雅也に寄せる憧れと恋心を描いた短編連作。
 パリで若くして才能を発揮しアンファン・テリブル(恐るべき子ども)と賞賛されたが表舞台を去り、妻子ある映画監督と恋に落ちてシングルマザーとなっていた女優坂崎紅子に拾われて愛人関係になり、帰国して紅子の出資で店を開いた柳原は、紅子との関係を持ち続け、見習い職員の晴香には手の届かない憧れの人だったが、紅子にかつての愛人で今は妻と離婚して独身となった映画監督から映画主演のオファーがあり、紅子と柳原の関係は微妙になるという展開。他方晴香の方も、もともと同級生の彼がいて、柳原に憧れ、しかし同じ見習い職人の同僚近藤君にもキスを仕掛けと、迷い道。そんな2人を紅子のヘアデザイナーのゲイ「マシュマロ」が無責任にけしかけたりといった感じで進めていきます。
 それぞれがある面でしたたかである面で純情なキャラたちが見せる人間関係の機微が読みどころです。


野中柊 角川書店 2009年10月31日発行
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