syuの日記・気まま旅

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中央本線・梁川無人駅

2017-12-02 | 富士山麓日記

都心からも近い、高尾山から陣馬高原・相模湖・三頭山・坪山・三国山・生藤山・権現山・扇山・高柄山・矢平山・倉岳山・二十六夜山・赤鞍岳・
向風山・要害山・御春山・・・・・。など登山・ハイキング・散策コースが四季折々で楽しめる。
山梨百名山も桂川を渡り、高柄山(733.2m)その先に、紅葉の秋山川が・新大地峠の矢平山(860.2m)・二十六夜山(971.8m)・990.1mの倉岳
と続く、中央高速側には、談合坂IC・仲間川を渡ると虎丸山、八重山(約500m)・要害山(536m)・瀬渕山(553m)・扇山(1137m)と続いて行く

上野原駅から四方津駅・次が無人駅の「梁川駅」 立野峠(浜沢大ケヤキ)都留市へ出られる。

             
                  梁川駅前は、国道20号線


後醍醐天皇 1288-1339 親政を試みた最後の天皇ー建武の新政を開始したが、武将や貴族の反撥を招く、足利尊氏は、光明天皇即位し幕府を開く。
護良親王  1308-35  悲劇の武将親王・後醍醐天皇の第一皇子建武新政府征夷大将軍、中先代の乱・幽閉中殺された。

「悲運の皇子と姫物語・秋山村」
南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王は鎌倉で悲運な最後を遂げた。
そば女として仕えていた「雛鶴姫」は、亡き皇子の首級を抱いて従者と共に相州からやがて山深い秋山村に。
最奥の無生野に辿り着いた年の暮れ、皇子の子を身籠った姫は子を生んだが、不運にも母子ともに死んでしまった。
里人は手厚く葬り、以来、正月には門松の代わりに樒の枝を立て冥福を祈ったという。
確かに、南朝終焉の地ではあるのだろう。後に、護良親王の王子・綴連王がこの地に落ち延び、不思議な因縁を聞き、追善供養のため始められたのが
無生野の大念仏。
今では、夏のお盆と冬の小正月の年に二回行われ、白装束の男達が、太刀や竹棒を持って激しく舞い踊る。
悪霊退散を念じる「ぶっぱらい」と五穀豊穣をもたらす奇祭として知られる。



「犬目の兵助」
天保4年の飢饉に続いて、天保7年の1836年、春からの天候不順の雨続きで、再び飢饉がやってきて、食糧不足に郡内(山梨県の富士吉田市、都留市、大月市、南都留郡、北都留郡の地域を指す)の人々を悩まし、草の根、木の皮までも食べ尽くす有様。
餓死者は、日を追って増加しました。
救済方を代官所に願い出たり、国中からの米の移送を訴え手が、ラチがあかず、「犬目の兵助と下和田の武七」を頭取とした、郡内人は結集して、笹子峠を越えて、熊野堂(春日居町)の小川奥右衛門を襲撃しました。
世に言う甲州一揆です。この時点で、一揆側にはならず者も加わり、甲州騒動の様相に発展したので、郡内勢は引き上げてきました。
しかし、当局の追及はきびしく、武七は自首しますが、兵助は逃亡の旅に出ます。
兵助は、妻の「理ん」に罪が及ぶのを防ぐために離縁状を出し、長い間逃亡生活を続け、その間の日記を残します。
知らない土地で、苦難を続けての旅であり、しかも逃亡という特異な旅で、故郷に残した妻と子の夢も記され、一泊の礼にそろばんや文字を教え、開平(平方根)や開立(立方)を解くそろばんまで教えていたと云います。
暖かい季節には野宿もし、木更津に隠れすみ、年老いてから犬目に帰ってきたですが、兵助の遺品である、旅日記と離縁状が、兵助の生家である、水田屋(奈良尚文氏)に保管されていると云う。(犬目宿に、墓所があると云う)



野田尻~犬目宿(上野原市)
正徳3年の1713年、宿が、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であったと云う。
昭和45年の大火で宿の6割を焼失、「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」といわれ、、、、。
犬目の兵助の墓ー妻への「離縁状」などは、生家である「水田屋」に残されていると云う。



  北斎の 冨嶽三十六景「甲州 犬目峠」は、富士山が中央に大きく書かれている。



梁川ー倉岳山(990m) 約5.5時間登山コース
桂川の南側に連なる「秋山山系」眺望は、富士山ー富嶽12景の一つ。北側に百蔵・扇山が。

           峠入口の里山民宿「やまみち」道路を挟んでーやまみち農園が。




「塩瀬大橋」- 構造種別・5径間上路式鋼ローゼ桁
河口からの距離は、63.5km・ 橋の長さー140m・ 有効幅員ー7~9.5m。

               完成は、平成13年








「小松神社」
朱色の両部鳥居が、「小松神社」です。
平貞能卿が平重盛公の打刀一振と共に尊骨を綱の上の山頂に改葬したのが1186年と云う。
1273年の文永10年、小松大明神宮を造営して重盛公を祀ったとの伝承があり。
祭神は、小松内大臣(平重盛公)。



「平重盛」平安時代1138-1179. 
正室:藤原経子・子ー維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、重実、行実、清雲、養女:平家盛の娘(原田種直室)、平徳子。
重盛は、武将・公卿。平清盛の嫡男。
保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場に、清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。

保元の乱、平治の乱ー保元元年の1156年、保元の乱に父に従って参戦。
重盛は、勲功賞として伊予守に任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任。



                           狛犬


                           社殿


          国道20号線からJR中央本線ガードを潜ると「金昌寺」が。


臨済宗建長寺派 「金昌寺」  山号ー龍瀧山
                       JR梁川駅に近い


臨済宗とは、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。



                   歴史を感じる石仏が


                埼玉県秩父にも同じ名の寺があるが?


                        本堂