syuの日記・気まま旅

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和歌山城の周囲を歩く

2014-03-31 | 気まま旅

「刺田比古神社」は、式内社で、旧社格は県社で、「岡の宮」の通称があるほか、「吉宗公拾い親神社」の別称がある。

創建は、社伝、道臣命の十世孫・大伴佐氐比古命が功により当地「岡の里」を授かり、命の後も代々治めたとする。
その後、二十世孫・大伴武持が当地に住むにあたってこの地に祖神を祀ったのが創祀といい、里人はそれを「国主ノ神」「大国主神」として祀ったという。境内にある「岡の里古墳」という古墳を大伴氏の墓と見ているほか、「続日本紀」に、「名草郡片岡里」から出た大伴部の記載から、当地と大伴氏との関係の深さを指摘している。

豊臣秀吉が和歌山城を築く際、大伴氏後裔の岡本左介を社司としたという。
桑山重晴による修造では、岡本家長が神官とされ,以後は,岡本家が代々当社の神官を務め、岡本長諄が徳川吉宗の仮親を務めたり、
岡本長刻以後は代々3年に1度将軍に拝謁する等を経ていた。
境内は昭和20年の戦災で焼失したため、のちに復興したもので、1811年の「紀伊国名所図会」には名所の冒頭に紹介され、当時の境内が描かれていると云う。

和歌山城中心に市役所・医科大・美術館・博物館・紅葉渓庭園・寺院などが、刺田比古神社もその一つ
    

主祭神は、 道臣命・ 大伴氏祖。
「古事記」によると、神武天皇の東征において先鋒を務めたとある。 大伴佐氐比古命 「日本書紀」では「狭手彦」と表記。
大伴金村の子で、道臣命十世孫とされる。朝鮮半島に派遣されて武功を挙げたとある。

神武天皇東征祈願したとある。 
  

祭神、数々の兵乱により古文書・宝物等が失われたため、古来の祭神は明らかとなっていない。
「紀伊続風土記」(江戸時代の紀伊国地誌)神社考定之部では刺国大神・大国主神とされており、明治に入って変更があったと見られている。

古くから「九頭明神」とも称されたと言い、「紀伊続風土記」所収の「寛永記」や1589年の棟札に「国津大明神」、1650年の石燈籠に「九頭大明神」1678年の棟札に「国津神社」ともある。
「九頭」は、「国主」の仮字であり、本来は地主の神とする見解がある。
神社側の考察では、祭神さえもわからないほど荒廃した社を氏子が再興した際、氏子が「国を守る神」の意で「国主神社」としたとして、また大国主命を祭神とする伝承も生まれたとしている。

境内                             拝殿
  

一方、本居宣長による説では、刺田比古神を「古事記」の出雲神話における「刺国大神」と推定。
刺国大神は、「古事記」によると、大国主神を産んだ刺国若比売の父神で、大国主の外祖父にあたる神である。
そして「紀伊続風土記」では、刺国若比売を「若浦(和歌浦)」の地名によるとし、大国主神が八十神による迫害で紀伊に至ったこととの関連を指摘、そのほか「刺田比古」の音から、刺田比古神を猿田彦神や狭手彦神とする説もある。

「刺田比古」を記す資料としては唯一、「甲斐国一之宮 浅間神社誌」に収録される「古屋家家譜」がある。
古屋家は浅間神社の社家で、大伴氏の流れを持つという。
そして、道臣命の父を刺田比古命とし、道臣命については「生紀伊国名草郡片岡之地」と伝えている。
この記載から神社側では、本来は祖先神として刺田比古命を祀ったものと推測していると云う。

紀ノ川水運・紀伊湊と紀伊半島横断路、古くから水陸交通の要地であった。城造りの石切り場が、祭神を祀ったのであろう小さな神社
    

紀州・万葉の地として昔から多くの歌人に愛されてきたこの和歌浦には徳川吉宗の生誕地もあり、紀州徳川家にまつわる数多くの神社・仏閣・史跡などが残されている。小さいが和歌山城裏手に「徳川神社」があったが、それもその一つか?。

和歌山市の縁結び神社として有名なのが、淡嶋神社 。この淡嶋神社には、縁結びの神として知られる大己貴命のほか、婦人病や安産にご神徳がある少彦名命も祀られている。

紀州徳川神社が                  祭殿 
    

紀州55万石の拠点、「和歌山城」の南側に小高い岡、岡と周囲100m四方くらいが「岡公園」。中央にそびえる弁財天山と岩山からは、
和歌山城(臥虎城)がよく見える。
坂本龍馬の盟友「陸奥宗光」の像、岩山の北側には稲荷神社や御不動様も祀られ、山頂には忠霊塔が立っていた。

軍服の石像、阿弥陀如来石造等が洞窟前に
  

「岡公園」のある場所は元々、和歌山城築城の折りの石切り場。天守台や本丸に積まれている石垣は紀州の青石と言われる緑泥片岩。
この公園内で、切り出されたもの。その後、徳川に入り城の補修などを行う「御作事所」が置かれ、その仕事にたずさわる者達が住んでいた。

「松生院」は、和歌山市にある真言宗の単立寺院。山号は向陽山。和歌山西国三十三箇所13番。
  

842年、智證大師円珍の開基で創建。865年、清和天皇の勅願寺となる。1185年、屋島の合戦の兵火で本堂を残し焼失。1302年、紀州和歌浦芦辺(現在の和歌浦羅漢寺付近)に移転。1573年-1592年、兵乱を避け山東荘黒岩村に移転。1608年、現在地に移転する。
1613年頃、宝光寺(廃寺)から本堂を移築し、 初代紀州藩主徳川頼宣の帰依を受け毘沙門天像、山門等の寄進があり紀州藩の護邦殿となる。

和歌山城から一番近い寺。

松生寺 
  

刺田比古神社境内にある「岡の里古墳」
境内には6世紀のものと推定される古墳があり、「岡の宮」と関わりの深い「大伴氏」のものと考えられている。
岡の宮の名を有名にしたのは、「8代将軍吉宗公」の誕生にまつわる話です。
吉宗は1684年、父光貞の第四男として厄年に生まれたため、ひとまず追廻門外の扇の芝に捨てられ、それを岡の宮の宮司・岡本長諄が拾うという厄払いの儀式を受けた。
これにより、岡の宮が拾い親となり、以後吉宗のあつい信仰を得ることになる。

岡の里古墳、           先史時代の土器などが
  

市では、岡の公園内に・茶室「夜雨荘」と他に「芦鶴庵」「岡陽軒」の3 つの茶室で、 表千家、裏千家の茶会などが行われている。
     
「夜雨荘」は、紀州藩家老三浦家上屋敷跡にある。三浦為春は、徳川頼宜の母の縁故によって家康に仕えます。
1619年、頼宜の紀州転封に伴い、紀州に移り政務に貢献。紀州徳川家の家老となり、当時の禄高は1万石で、幕末には1万5干石を。

三浦為春の屋敷跡
  

「弁財天社」は、 天嬪山(現和歌山市岡公園内天妃山。別名 弁財天山)に祀られ、 市杵島姫命は天照大神と須佐之男神が安河原で誓約
をした時に天照大神の息から化生した神、田心姫命、湍津姫命と宗像三女神と呼ばれ、古くから航海安全の神として信仰。

古地図を見ると、天妃山を含む岡の里、現在和歌山城虎伏山などを除き、和歌山市内の大部分が海で、海上交通の盛んな岬にあった航海安全の
古社であろう。
1582年、豊臣氏が紀伊国を統一し、和歌山城を建てた。築城のさい、弁財天社は城を見下ろす位置にあることを忌み、和歌山城の鎮護社でもあ
った刺田比古神社(岡の宮)の境内に遷座したと云う。
現在も末社として祀られている。 明治維新後、弁財天町の人々が天嬪山に再びお社をたてて祀るようになった。

古社の弁財天社
  

「長屋喜弥太」(1836~1897)は、天保9年(1836)紀伊藩家臣の家に生まれ、長じて御親兵となり、天誅組、長州征伐などに活躍。 市制施行に伴い初代和歌山市長(明治22~30年)に就任した。

公園の丘の頂上に地域の記念碑が
    

「四役戦亡記念碑」、「四役」とは明治7年から同10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のこと。
これら戦で戦死した和歌山県出身の兵士は491名。碑は、明治12年に旧藩主徳川茂承らの発起により建てられた。

西南戦争記念碑など。
    

和歌山市内の川は、5月から6月にかけて、紀の川や和田川、亀の川そして各地の池につながる用水の水門が開くと、用水のすみずみまで水が行き渡り、やがて水田の中にも水が入り、田植えが始まります。
今まで草原だったところが一変して大湿地に変わるのです。土の中で卵の姿で眠っていたカブトエビのなかまや冬眠していたカメやカエルの仲間、用水のわずかな水たまりの中で冬をすごしていた、メダカやドジョウ、貝やトンボのやごの仲間などがいっせいに活動を、、、。

百間長屋跡、築城の人々の長屋が                 市内を流れる和歌川
    

「和歌山・護国神社」

招魂祭ー明治戊辰の役以来、国家のため散華され、靖国神社に合祀された本県出身の戦没者を奉慰、
明治13年から明治28年までは、年1回和歌山市岡公園内の天妃山で、明治29年から昭和11年までは和歌山城内砂ノ丸において、和歌山県知事が祭主となり毎年5月5日神式により招魂祭が執行されている。36670柱の英霊。

和歌山県人の護国神社。


勝海舟 
1863年頃、当時の日本も開国するということで外国から船が日本にやってくる時に、特にこの紀伊半島、和歌山のあたりっていうのは、ちょうど船が来る紀伊水道っていうのは一番防衛の要。
沢山の砲台跡があるという。
明治のはじめ頃から出来始めた砲台跡の検分しに、「勝海舟」10数名が、杭ノ瀬質舗が場所を提供されて滞在し、碑が。数日間滞在。

南方熊楠生誕の地でもある、世界的な植物学者、渡米し。6年間アメリカに滞在し、明治25年にロンドンへ渡り、大英博物館へ通い、やがてその学識才能を認められている。明治33年に帰国、田辺を永住の地として昭和16年に亡くなるまで37年間その地で過ごした。
粘菌・菌類の調査や民族学の研究、また明治末期の神社合ひの反対運動に奔走したことでもしられている。

勝海舟寓居地碑が



次回は、官弊大社「日前神宮」へ。

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