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syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

今年もルバーブのジャムを作る

2013-08-22 | 富士山麓日記
夏休み、10日ほど富士山麓で過ごしました。世界遺産となり山も混み合っているようです。山麓の道も車どおりが激しくなっていました。

桔梗の花が毎年増えています。


今年もルバーブのジャムを作ります。


茎のみ使います。葉は捨てます。


良く洗って2~3cmに切り、リンゴを加えると、まろやかな味になります。


砂糖を入れそのまま煮ます。2~30分で滑らかなジャムになります。




栗が年々数を増しています。





靖国神社と終戦記念日

2013-08-15 | syu散歩
8月暑い1日、靖国神社に参拝、8/15は終戦記念日、そして私の誕生日。
 
九段は「科学技術館」、「東京国立近代美術館工芸館」、「靖国神社遊就館」、「昭和館」と、博物館、資料館が多い。
JR飯田橋駅から九段下にいたる「目白通り」は、“発祥の地通り”と言って、史跡が多い。
「徽章業発祥の地碑」など歴史の標柱が13ヵ所もある。

北辰社牧場跡は明治時代、榎本武揚によって創設され、牧場の最盛期には乳牛が四、五十等頭もおり、牛乳などを提供していたという。

吉岡彌生は明治33年(1900)「東京女医学校」を創立。
翌34年、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転し、のち市ケ谷河田町へ移転して現在の「東京女子医科大学」に続きます。
吉岡彌生の至誠医院は明治41年に旧飯田町四丁目に移り、関東大震災まであった。

標柱が13か所あると云う
    

「九段」千代田区の北西部、市ヶ谷からの靖国神社と目白通りが交差が九段坂下で、麹町台から神田方面の下りは、1700年頃、9層の石段
幕府の御用屋敷が建てられ、これを九段屋敷と称したことによると聞く。
明治維新後にこの九層の石段を坂道とした。
急坂の為、関東大震災後改修され現代に、1936年の2.26事件戒厳司令部になった軍人会館「現九段会館」の他、千代田区役所・靖国神社
桜の千鳥ヶ淵・北の丸公園の石垣・昭和館などがある。

靖国神社を参拝する。(我が国の初の銅像大村益次郎の像は1890年に、戊辰戦争で功績・彰義隊討伐)

九段坂下から                江戸時代の九段               昭和館
    

小田原攻めで、秀吉から京都から遠ざけるため、武蔵国(東京)が与えられ、家康は、迷うことなく移り住んでいます。その理由に、富士山が見える地と云われています。即「富士見櫓」を建て、富士見・不死見とかけ、長寿を願ったともいう。

「常燈明台」は、幕末から明治維新の間の内戦で官軍戦没者の慰霊のため建てられた招魂社「靖国神社」の霊を鎮めるため、明治4年に、品川沖の灯台を移設したと云う。

市ヶ谷駅から              靖国通り
    

「九段下昭和館」は、主に戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年頃まで)の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する施設。

「靖国通り」は、都心部を東西に貫く路線の一つ。
新宿5丁目交差点の約300m東から東神田交差点の約100m西まで、都営地下鉄新宿線がこの道路に沿って地下を走っている。
日本橋両国、つまり現在の東日本橋地域、 総延長は、11.2km。

「靖国神社」
明治2年、明治維新に倒れた志士の霊を慰めるため、招魂社として創建られたが、後、明治12年、日清・日露・第一次世界大戦・第二次世界大戦の殉国者を合祀している。
九段坂を登りつめたところに大鳥居があり、鳥居を潜ると大村氏銅像(招魂社創建に労があった)、正面に拝殿右奥に遺品展示の「遊就館}が
境内にも桜の木が多い。

「大村益次郎」1824-69 長州藩士 戊辰戦争の功績者、上野戦争で薩摩兵配置し西郷が「薩摩兵を皆殺しにするのか、、、」訪ねると
「そうです」と答えたという。最後は、京都で暴徒に襲われた後、死亡している。


常燈明台のある坂上                 大鳥居                     正門
    

千鳥ヶ淵戦没者墓地は、公園内に無名戦士の墓がある。(87000体の遺骨が祀られている)

連合国(1942年宣言国)45か国、中立国は、アフガニスタン・アイレ・ポルトガル・スペイン・スウエーデン・スイスの6か国
連合国敵国は、ブルガリア・ドイツ・ハンガリア・日本・ルーマニア5か国
地位に変更国は、アルゼンチン・フインランド・イタリア・タイ国がある。

恒例青空骨董市                           境内に大朝顔が
  


暑い昭和20年8月15日に終戦、疎開先の小学校校庭で、天皇の戦争終結の詔書を放送で聞き、私の誕生日でもあった。。

17日に東久邇宮内閣が成立、30日ソ連軍事行動停止し、連合国最高司令官マッカーサー厚木に上陸し、9月2日「米艦ミズーリ号降伏文書調印
10月24日国際連合成立、11月に財閥解体している。

東条英機自殺未遂で米軍病院に収容される。

小回りの利く、零戦の開発元は、三菱重工業、中島飛行機で生産され、総生産数の半数以上は中島製。
零戦はアメリカ陸軍のP-51マスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。
設計者、堀越二郎。 初飛行は、1939年(昭和14年)、 生産数:10,430機、退役昭和20年。

母の像(若くして死んだ母を思い出す)          近所だった予科練のお兄さんを      ゼロ戦
    

戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された靖国神社。
1853年のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。
1877年の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなる。

国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のことという意見の一方に、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見もある。
終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。

日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、 他方、戦争被害を受けたと主張する中国、韓国、北朝鮮の3カ国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に反発しているが、残念でならない。

東条英機(開戦時首相)紋首刑・重光葵(外相)禁固7年・星野直樹(満州国務相)終身刑・荒木貞夫(陸軍大将、文相)終身禁固
土肥原賢二(陸軍大将9首刑・永野修身(元帥海軍大臣)死亡・松戸洋右(近衛内閣外相)死亡・木村兵太郎(ビルマ軍司令部)紋首刑
、、、、、。A級戦犯28名。

                        拝殿


                        「涙の九段坂」
                鳥居くぐれば 思わず知らず
                    あつい涙が こみあげる
                    ああ お父さん はるばると
                    逢いに来ました 逢いに来ました 九段坂

                   「お父さん あなたが戦死なさったのは、やけつくような 砂漠の戦場だったとか
                    水が欲しい 水を呉れと 叫びつづけて死んでしまった 可哀想なお父さん
                    今年はネ おじいちゃんやおばあちゃんや皆んなで ホラ こんなにたくさん
                    裏山のお水を 持って来てあげたのよ」・・・・・・。


                  歌手 天津 羽衣(他:姫之宮ゆり) 、作詞 門井 八郎、作曲 久慈ひろし、発売 昭和41年。

1週間ほど夏休みです。ブログも来週半ばまで休みます。

東新宿 大江戸線を終わる

2013-08-14 | 気まま旅
「内藤新宿」の内藤氏一族は、日本の氏族。中世から近代まで栄えた豪族・大名の一族。
「藤原北家秀郷流内藤氏」、鎌倉時代に源頼朝に仕えた「内藤盛家」がこれらの内藤氏の共通の先祖にあたるとされる。
丹波国の守護代。細川氏に仕えた。藤原氏秀郷流を称する。長門国の守護代。大内氏に仕えた。藤原氏秀郷流を称する。
松平氏に仕えた三河国の豪族。丹波国・長門国の内藤氏と同族と称する。甲斐国の一族。丹波・長門の内藤氏と同祖とされ、武田氏に仕えた。「内藤昌豊」が有名。屋敷跡は新宿御苑。

新宿、北・西新宿が東京副都心、西側に、淀橋除水城跡の再開発の超高層ビルが林立し、都庁も1991年移転した。
江戸時代甲州街道・青梅街道・追分と宿場、旅籠、茶屋として、品川・板橋・千住と共に発展し四宿の一つになった。
1926年から、デパートが出来、35年東側に伊勢丹・三越が出店している。

大江戸線は、新宿駅、都庁前、中野、光が丘と進行する


戦後に入り、西口に小田急・京王・地下街がどんどん拡張され行った。1964年東口JRのマイシティ一番街、以降サブナード、京王モールと
駅中心に目覚ましいはってを今も続けている。

首が痛くなる高さの高層ビル群
    


不夜城でもある歓楽、「歌舞伎町」、中央通り広間でもネオンが、港区方面に行くとイチョウ並木青山通りに、山手通りは、渋谷、逆が池袋
また、大学や高校などが、関東に散ったが、その中心が新宿になるため、若者の街でもある。

「新宿イーストサイドスクエア-」は、「日本テレビゴルフガーデン跡地」に、(仮称)新宿六丁目N街区計画」と(仮称)新宿六丁目S街区計画」が建設された。
街区全体の名称は「新宿イーストサイド」、 敷地北側の「(仮称)新宿六丁目N街区計画」には、地上20階、塔屋2階、地下2階、高さ96.60mの巨大な高層オフィスビル「新宿イーストサイドスクエア」と地上6階の高級賃貸マンション「ロイジェンド新宿イーストサイド」が建設。
「新宿イーストサイドスクエア」は、2012年4月13日に工事が完了し、4月27日に竣工。
オフィスゾーンの入居開始は2012年8月下旬から行われ、16店舗が出店する商業ゾーン「新宿イーストサイドスクエア ショップ&レストラン」と合わせ、「新宿イーストサイドスクエア」は2012年9月にグランドオープンした。

「東新宿」駅は、このビル地下。

緑が欲しい



江戸時代から、新宿は、2丁目辺りから開けたと云う。1698年、宿場は、信州高遠藩内藤氏の地域に出来た云う。
宿場には、遊郭も出来、相当な賑わいを見せていたという。
鉄道も早く、山手線の新宿駅が明治18年で現在より西寄りであったが、後中央線開通、小田急線などで現在に定着した。

これで一周したが、昭和が遠くに


大江戸線、単一の地下鉄路線としては、日本最長 (40.7 km) であり、全線がトンネル(地下区間)構造のため、連続した地下鉄トンネルとしても日本最長。
日本の地下鉄では最深部を走行しており、耐震性に富み、災害時には救助作業の大動脈として利用されることになっている。
そのため、非常用の備蓄倉庫が麻布十番と清澄白河の両駅に設置されていると云う。

昔時刻を伝え、時の鐘、「天竜寺」(4丁目)の今は、




光が丘駅から先には、大泉学園町・埼玉県新座市を経由してJR武蔵野線東所沢駅までの延伸構想がある。

区役所近くは都電の軌道敷が、今の遊歩道を大事に


大泉学園町から南下して世田谷区を経由し都庁前駅に戻るという8の字型運転の構想がされたこともある。
都庁前駅の引き上げ線は世田谷区方面に延伸できる構造になっているが、正式な計画として採用されるには至っていない。


中野坂上で丸ノ内線に出た


地下深く、各駅の地上までの時間がかかり、エスカレターの上り左側一列に集中、誰が決めたのか右側は歩く事に。

光が丘先の延伸を楽しみに
    

大江戸線の散歩終了します。疲れました。



若松河田駅 抜弁天

2013-08-12 | 気まま旅

いよいよ大江戸線も、「東新宿」の一つ手前、区の中央「河田・若松町」に入る。この付近は、東京女子医科大学および付属研究機関が町域の大部分を占め、同大学と隣接している。
かつては「フジテレビ本社」があった。現在は、港区の台場に移転した。1869年頃は、 武家地および牛込村字川田窪の区域が市ヶ谷河田町、 1911年に 市谷河田町に変更している。

若松町は、豊島郡牛込村であったが、江戸時代の1705年に江戸町奉行所の支配になり、牛込若松町が起立している。
商家のほかに武家屋敷などもあったが、明治維新後、武家地等を併合。1876年三十人町・原町・市谷河田町の各一部を併合して町域が確定した。
新大久保と牛込神楽坂の中間を位置している所から都電が通っていた。
都電が廃止された事で一番近くの駅が東西線の早稲田駅となり不便となった。大江戸線の開通により、便利に。

内藤宿で栄えた、甲州街道、新宿二丁目界隈


「団子坂」は、昔、一帯が低湿地で、坂は、いつも泥んこで、歩くたびに泥だんごのようになったという。
1854年の「江戸切絵圖」には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。(区標)

「浄土宗寺院の専念寺」は、一心山行住院と号し、専蓮社念誉梅会(元禄2年1689年寂)が寛永元年(1624年)創建したと云う。
本尊 阿弥陀如来像、。

専念寺・太宗寺、(内藤氏菩提寺)・成覚寺(内藤新宿の投げ込み寺)など
      

小石川伝通院末 (牛込原町),一心山行住院専念寺、境内御年貢地494坪, 起立寛永元甲子年, 開山専蓮社念誉梅会元禄2乙卯年7月23日寂。
客殿、本尊弥陀如来木立像。左右観音勢至。 以上丁亥書上。(御府内寺社備より)

専念寺           本堂                   歴史を見てきた石仏


「鹿嶋神社・抜弁天」は、1086年、鎮守府将軍・源義家(八幡太郎)が後三年の役(1083~1087)で奥州平定に向かう途中ここに宿営した。
この地は、この地域で最も高い場所であり、かつては富士山もよく見えたようで、この時、義家も遠く富士山を望み、さらにその先、安芸に鎮座する厳島神社に戦勝を祈願したという。
義家は、奥州平定を成し遂げ、その帰途、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、「厳島神社」を勧請したと伝えられる。
義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けたという伝説と、また境内参道が南北に通り抜けできることから「抜弁天」ともいわれ、江戸の六弁天に数えられる。

江戸時代には稲荷神社もあり、徳川綱吉による生類憐れみの令により付近に野犬のための2万5千坪の犬小屋が設置されていたと云う。

源義家が戦勝祈願           抜弁天                  拝殿


「余丁町」付近は、旗本の組屋敷であったところで、この町が4条あったので東大久保四丁目と呼んでいたが、1872年大久保前町と合併したのをきっかけに縁起の悪い「四」を改めて大久保余丁町とし、1911年に余丁町となった。
この当時の小字として「抜弁天」が挙げられる。「大久保」とついているようにもともと大久保村であり、大久保村の中では唯一東京15区発足時から区部(牛込区)であった町である。
坪内逍遥や永井荷風の住んだ町でもある。 住居表示で「東新宿」となる予定であったが、住民の運動により1986年に余丁町のまま住居表示が実施されたという。

年々変わっていく新宿
     

「西向天神」は、菅原大神、稲荷大神、秋葉大神、嚴島大神を祀る。
古来より東大久保村の鎮守。1228年 栂尾明恵上人の勧請とされる。
西向天神とは太宰府の方へ向かい社殿を西向きに造っているために昔から呼ばれている。
隣が「大聖院」になる。

西向天神鳥居                  拝殿                   狛犬
    

「大聖院」は、天台寺門宗寺院、西向天神社の旧別当、紅皿の墓で知られている寺。
梅松山五大尊寺と号し、中世より春日部にあり、後当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めている寺。
境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿の墓があります。

大聖院も無縁墓地が増         マンションが
    

明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれ、その際、同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。
主なものを列記しておくと、天満宮由緒書、天満宮出自記、東大久保村地誌書上帳、不動明王縁起、大聖院境内図書上、紅皿縁起などがある。

太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので、崖崩れのために現在地へ移したといい、江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。(区の文化財より)

紅皿の碑            墓                              本堂
    


都営大江戸線の散歩も次の「東新宿」駅で終了。

牛込柳町 交差点

2013-08-10 | 気まま旅
外苑東通り、大久保通りが、市谷柳町交差点で交差。
道路沿いを中心に商店やマンションなどが立ち並んでおり、これらの道路を離れると住宅地。
柳町は、窪地の地形であるため、自動車の排気ガスなどが滞留したと考えられている「大気汚染」が社会的問題に。
大久保通りに市谷柳町交差点で停止する自動車を制限するための信号機も設置されている所。

市谷柳町交差点付近に都営大江戸線の牛込柳町駅。
バスの便もある。牛込柳町駅の名称は東京市牛込区の市谷柳町を意味する。これは、明治・大正期には、同じく都電の停留所である小石川区の柳町(小石川柳町)との区別が必要であったと聞く。

明暦大火以降、被災者の移住により成立しまちで、当初は代官領だった。1713年に町奉行管轄とされる。
窪地ということから、柳が多く派生していたとの伝承もある。
多くは町人地で、かなりの賑わいを見せた地域でもある。寺町ということもあり、蝋燭問屋が多く存在したという。

牛込は、江戸城の見附のある地(桜並木が良い)


「新宿山ノ手七福神 大黒天|大乗山経王寺」

大黒天は、貧しき人、難民の救済をかって出た神様。
く大きな福徳を授けるので、大黒天と呼ばれている。
経王寺の大黒天は、1598年安置され、霊験も多く大願成就のご利益があると、庶民の間で親しまれて何時と云う。

地元に親しまれている大黒天経王寺           本堂
    

10階建てのマンションにお寺が常楽寺


牛込柳町駅前の市谷柳町交差点付近、牛込柳町駅西口の隣に「瑞光寺」がある。

「日蓮宗 瑞光寺」は、境内の大燈篭に「文恭院殿尊前 天保十二(1841)辛丑年閏正月」と刻んでいる。

常楽寺に並んで瑞光寺が、          本堂                 境内
    


次回は、「若松河田」駅へ。