8月暑い1日、靖国神社に参拝、8/15は終戦記念日、そして私の誕生日。
九段は「科学技術館」、「東京国立近代美術館工芸館」、「靖国神社遊就館」、「昭和館」と、博物館、資料館が多い。
JR飯田橋駅から九段下にいたる「目白通り」は、“発祥の地通り”と言って、史跡が多い。
「徽章業発祥の地碑」など歴史の標柱が13ヵ所もある。
北辰社牧場跡は明治時代、榎本武揚によって創設され、牧場の最盛期には乳牛が四、五十等頭もおり、牛乳などを提供していたという。
吉岡彌生は明治33年(1900)「東京女医学校」を創立。
翌34年、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転し、のち市ケ谷河田町へ移転して現在の「東京女子医科大学」に続きます。
吉岡彌生の至誠医院は明治41年に旧飯田町四丁目に移り、関東大震災まであった。
標柱が13か所あると云う
「九段」千代田区の北西部、市ヶ谷からの靖国神社と目白通りが交差が九段坂下で、麹町台から神田方面の下りは、1700年頃、9層の石段
幕府の御用屋敷が建てられ、これを九段屋敷と称したことによると聞く。
明治維新後にこの九層の石段を坂道とした。
急坂の為、関東大震災後改修され現代に、1936年の2.26事件戒厳司令部になった軍人会館「現九段会館」の他、千代田区役所・靖国神社
桜の千鳥ヶ淵・北の丸公園の石垣・昭和館などがある。
靖国神社を参拝する。(我が国の初の銅像大村益次郎の像は1890年に、戊辰戦争で功績・彰義隊討伐)
九段坂下から 江戸時代の九段 昭和館
小田原攻めで、秀吉から京都から遠ざけるため、武蔵国(東京)が与えられ、家康は、迷うことなく移り住んでいます。その理由に、富士山が見える地と云われています。即「富士見櫓」を建て、富士見・不死見とかけ、長寿を願ったともいう。
「常燈明台」は、幕末から明治維新の間の内戦で官軍戦没者の慰霊のため建てられた招魂社「靖国神社」の霊を鎮めるため、明治4年に、品川沖の灯台を移設したと云う。
市ヶ谷駅から 靖国通り
「九段下昭和館」は、主に戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年頃まで)の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する施設。
「靖国通り」は、都心部を東西に貫く路線の一つ。
新宿5丁目交差点の約300m東から東神田交差点の約100m西まで、都営地下鉄新宿線がこの道路に沿って地下を走っている。
日本橋両国、つまり現在の東日本橋地域、 総延長は、11.2km。
「靖国神社」
明治2年、明治維新に倒れた志士の霊を慰めるため、招魂社として創建られたが、後、明治12年、日清・日露・第一次世界大戦・第二次世界大戦の殉国者を合祀している。
九段坂を登りつめたところに大鳥居があり、鳥居を潜ると大村氏銅像(招魂社創建に労があった)、正面に拝殿右奥に遺品展示の「遊就館}が
境内にも桜の木が多い。
「大村益次郎」1824-69 長州藩士 戊辰戦争の功績者、上野戦争で薩摩兵配置し西郷が「薩摩兵を皆殺しにするのか、、、」訪ねると
「そうです」と答えたという。最後は、京都で暴徒に襲われた後、死亡している。
常燈明台のある坂上 大鳥居 正門
千鳥ヶ淵戦没者墓地は、公園内に無名戦士の墓がある。(87000体の遺骨が祀られている)
連合国(1942年宣言国)45か国、中立国は、アフガニスタン・アイレ・ポルトガル・スペイン・スウエーデン・スイスの6か国
連合国敵国は、ブルガリア・ドイツ・ハンガリア・日本・ルーマニア5か国
地位に変更国は、アルゼンチン・フインランド・イタリア・タイ国がある。
恒例青空骨董市 境内に大朝顔が
暑い昭和20年8月15日に終戦、疎開先の小学校校庭で、天皇の戦争終結の詔書を放送で聞き、私の誕生日でもあった。。
17日に東久邇宮内閣が成立、30日ソ連軍事行動停止し、連合国最高司令官マッカーサー厚木に上陸し、9月2日「米艦ミズーリ号降伏文書調印
10月24日国際連合成立、11月に財閥解体している。
東条英機自殺未遂で米軍病院に収容される。
小回りの利く、零戦の開発元は、三菱重工業、中島飛行機で生産され、総生産数の半数以上は中島製。
零戦はアメリカ陸軍のP-51マスタング、ドイツ空軍のメッサーシュミット Bf109、イギリス空軍のスピットファイアなどとともに、第二次世界大戦期の代表的な戦闘機として知られている。
設計者、堀越二郎。 初飛行は、1939年(昭和14年)、 生産数:10,430機、退役昭和20年。
母の像(若くして死んだ母を思い出す) 近所だった予科練のお兄さんを ゼロ戦
戊辰戦争の戦死者を祀るために1869年(明治2年)に創建された靖国神社。
1853年のアメリカ東インド艦隊の司令官、ペリーの浦賀来航以降の、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀るようになる。
1877年の西南戦争後は、日本国を守護するために亡くなった戦没者を慰霊追悼・顕彰するための、施設及びシンボルとなる。
国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のことという意見の一方に、政教分離や歴史認識、近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見もある。
終戦の日である8月15日の参拝は太平洋戦争の戦没者を顕彰する意味合いが強まり、特に議論が大きくなる。
日本兵が戦友と別れる際、「靖国で会おう」と誓ったことから、靖国神社は日本兵の心の拠り所としてのシンボルの一つであったが、 他方、戦争被害を受けたと主張する中国、韓国、北朝鮮の3カ国は、靖国神社にA級戦犯が合祀されていることを理由として、日本の政治家による参拝が行われる度に反発しているが、残念でならない。
東条英機(開戦時首相)紋首刑・重光葵(外相)禁固7年・星野直樹(満州国務相)終身刑・荒木貞夫(陸軍大将、文相)終身禁固
土肥原賢二(陸軍大将9首刑・永野修身(元帥海軍大臣)死亡・松戸洋右(近衛内閣外相)死亡・木村兵太郎(ビルマ軍司令部)紋首刑
、、、、、。A級戦犯28名。
拝殿
「涙の九段坂」

鳥居くぐれば 思わず知らず
あつい涙が こみあげる
ああ お父さん はるばると
逢いに来ました 逢いに来ました 九段坂
「お父さん あなたが戦死なさったのは、やけつくような 砂漠の戦場だったとか
水が欲しい 水を呉れと 叫びつづけて死んでしまった 可哀想なお父さん
今年はネ おじいちゃんやおばあちゃんや皆んなで ホラ こんなにたくさん
裏山のお水を 持って来てあげたのよ」・・・・・・。
歌手 天津 羽衣(他:姫之宮ゆり) 、作詞 門井 八郎、作曲 久慈ひろし、発売 昭和41年。
1週間ほど夏休みです。ブログも来週半ばまで休みます。