館山市は、千葉県房総半島の最南部に位置し、県内陸部の最西端にあたる。周囲は南房総市に囲まれており、南房総地域における政治・経済の中心地。現在過疎化が進み商店街も活気が無い。
おじんの一言、ディズニーランドと館山を結んで、世界一の遊歩道(自転車)を造り、桜並木、杉並木、銀杏並木、紅葉並木、松並木、、、
と2~3か所に宿場町の温泉街に、お土産は産地直送で新鮮野菜と花を、料金は世界一良い物が「安いを売り」にPRする。
ターゲットは家族の一泊コースと完走に記念品を・・・。県知事どうでしょう。頑張れ千葉。
舘山北条海岸・東京湾・向かい神奈川県三浦半島が

1441年の結城合戦後、里見義実は、逆臣山下氏の妻を斬首に、最後の言葉が「里見の子孫を畜生道に落とし煩悩の犬にしやる」と呪う。
「千田城は長田城」とも呼ばれ、里見義実によって築かれた城であったと言われている。しかし、これは伝承上のことであり、実際にそうであったかどうか定かではない。とはいえ、この城の示す古い形態は、その時代の頃のもの、といってもたいして矛盾しないものである。
義実は白浜城に拠り、安房国を統一したが、白浜城は南に偏りすぎているので、10kmほど北の、ここ、長田の地に居城を移した

「南条城」は、館山、東方脇街道を守備する枝城。JR館山駅の南東2.5km(稲村城の南西3.5km)、勝浦方面から安房国府へ向かう脇街道を抑える標高50mの丘陵に築かれた平山城。城址は、直線連郭式という。
主郭の東方にある郭や空濠がかなり風化し判断が難しいが、3連郭かもしれない。
南条集落が根小屋と思われる。本殿の西方から尾根道を登り、小さな小山を通り抜けて西に向かうと埋もれた竪濠(土橋)がある。
ここからが城域かもしれないという。
館山城・里見城は、枝城 南条城方面 館山城内の山道

「八遺臣の墓」
大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を回らせた。
この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに1622年、29歳で倉吉在の堀村に卒した。
この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されている。
何を暗示しているのであろうか。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして、遙々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であるという。この八人の殉死者が、
八犬士のモデルであるとも伝えられている。
馬琴は、この八遣臣をモデルに 八つの墓石が 古い塔も

「八犬士」犬江親兵衛、犬川荘助、犬村大角、犬坂毛野、犬山道節、犬飼源八、犬塚信乃、犬田小文吾。
1781年 旗本の「稲葉正明」が館山周辺の1万石を与えられ、館山藩を立てた。
以後、稲葉氏の支配が5代にわたって続き、明治維新を迎える。
苔の墓石に塔婆が お線香の燃えカスが

「慈思院」 曹洞宗の寺、城主「里山義康」の菩提寺で、元は歴代の持仏堂として城内に創建されていた。
1603年に没した康義の墓所がある。
中世の陽刻五輪塔があるが市内では珍しい塔。
その他にも明治の絵師「川名楽山」。東京商大前校長 「坪野南洋」等藩士の墓が多い。
鹿島堀、由来碑は、「里見義康」が加増を受けた常陸国鹿島の領民が普請したとのいわれによると云う。
城山の東南から北側にまで水堀が取り巻いていたと推測されている。
慈恩寺入口 仁王像 境内

「里見義康」は、1590年の小田原征伐で秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総の所領を没収され、安房4万石に減封された。
遅参とされたが、近年では里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して、北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、
三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている。
この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降、里見氏は徳川氏に接近、
その後に上洛し、羽柴姓を許され、安房守・侍従に叙任して「羽柴安房侍従」と称された。
1591年には館山城を改築し、新たに居城とし、1592年の「文禄の役」では、家康に随行して肥前名護屋城に滞陣した。
1597年の太閤検地により、石高は9万1千石に高直しされ、1600年の「関ヶ原の戦い」では、家康に従い会津征伐に向かうが、関ヶ原へ向かう軍には組織されず結城秀康の軍とともに宇都宮城の守備を担当。
中山道を進む秀忠隊への同行を願ったが許されなかった。
戦後、常陸国鹿島郡3万石を加増されて計12万石を領し、関東最大の外様大名となる。
1603年に死去。家督は10歳の嫡男・梅鶴丸(のちの忠義)が相続した。
里見義康の墓 本堂 墓地の奥に

次回は崖観音方面へ。
おじんの一言、ディズニーランドと館山を結んで、世界一の遊歩道(自転車)を造り、桜並木、杉並木、銀杏並木、紅葉並木、松並木、、、
と2~3か所に宿場町の温泉街に、お土産は産地直送で新鮮野菜と花を、料金は世界一良い物が「安いを売り」にPRする。
ターゲットは家族の一泊コースと完走に記念品を・・・。県知事どうでしょう。頑張れ千葉。
舘山北条海岸・東京湾・向かい神奈川県三浦半島が

1441年の結城合戦後、里見義実は、逆臣山下氏の妻を斬首に、最後の言葉が「里見の子孫を畜生道に落とし煩悩の犬にしやる」と呪う。
「千田城は長田城」とも呼ばれ、里見義実によって築かれた城であったと言われている。しかし、これは伝承上のことであり、実際にそうであったかどうか定かではない。とはいえ、この城の示す古い形態は、その時代の頃のもの、といってもたいして矛盾しないものである。
義実は白浜城に拠り、安房国を統一したが、白浜城は南に偏りすぎているので、10kmほど北の、ここ、長田の地に居城を移した


「南条城」は、館山、東方脇街道を守備する枝城。JR館山駅の南東2.5km(稲村城の南西3.5km)、勝浦方面から安房国府へ向かう脇街道を抑える標高50mの丘陵に築かれた平山城。城址は、直線連郭式という。
主郭の東方にある郭や空濠がかなり風化し判断が難しいが、3連郭かもしれない。
南条集落が根小屋と思われる。本殿の西方から尾根道を登り、小さな小山を通り抜けて西に向かうと埋もれた竪濠(土橋)がある。
ここからが城域かもしれないという。
館山城・里見城は、枝城 南条城方面 館山城内の山道



「八遺臣の墓」
大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取り潰しの策を回らせた。
この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに1622年、29歳で倉吉在の堀村に卒した。
この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されている。
何を暗示しているのであろうか。慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持ち帰るべく漁師の姿に身をやつして、遙々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麓に埋めたのが、この八遺臣の墓であるという。この八人の殉死者が、
八犬士のモデルであるとも伝えられている。
馬琴は、この八遣臣をモデルに 八つの墓石が 古い塔も



「八犬士」犬江親兵衛、犬川荘助、犬村大角、犬坂毛野、犬山道節、犬飼源八、犬塚信乃、犬田小文吾。
1781年 旗本の「稲葉正明」が館山周辺の1万石を与えられ、館山藩を立てた。
以後、稲葉氏の支配が5代にわたって続き、明治維新を迎える。
苔の墓石に塔婆が お線香の燃えカスが



「慈思院」 曹洞宗の寺、城主「里山義康」の菩提寺で、元は歴代の持仏堂として城内に創建されていた。
1603年に没した康義の墓所がある。
中世の陽刻五輪塔があるが市内では珍しい塔。
その他にも明治の絵師「川名楽山」。東京商大前校長 「坪野南洋」等藩士の墓が多い。
鹿島堀、由来碑は、「里見義康」が加増を受けた常陸国鹿島の領民が普請したとのいわれによると云う。
城山の東南から北側にまで水堀が取り巻いていたと推測されている。
慈恩寺入口 仁王像 境内



「里見義康」は、1590年の小田原征伐で秀吉の怒りに触れた結果、上総・下総の所領を没収され、安房4万石に減封された。
遅参とされたが、近年では里見氏が庇護していた小弓公方・足利義明の遺児頼淳を擁して、北条氏によって奪われた旧領回復の好機とし、
三浦へ渡海進軍し、鎌倉公方家再興を標榜し独自の禁制を発したことが、私戦を禁じた惣無事令違反に問われたと考えられている。
この件を仲介したのが徳川家康であり、これ以降、里見氏は徳川氏に接近、
その後に上洛し、羽柴姓を許され、安房守・侍従に叙任して「羽柴安房侍従」と称された。
1591年には館山城を改築し、新たに居城とし、1592年の「文禄の役」では、家康に随行して肥前名護屋城に滞陣した。
1597年の太閤検地により、石高は9万1千石に高直しされ、1600年の「関ヶ原の戦い」では、家康に従い会津征伐に向かうが、関ヶ原へ向かう軍には組織されず結城秀康の軍とともに宇都宮城の守備を担当。
中山道を進む秀忠隊への同行を願ったが許されなかった。
戦後、常陸国鹿島郡3万石を加増されて計12万石を領し、関東最大の外様大名となる。
1603年に死去。家督は10歳の嫡男・梅鶴丸(のちの忠義)が相続した。
里見義康の墓 本堂 墓地の奥に



次回は崖観音方面へ。